戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

「憲政の神様」尾崎行雄と「その父」尾崎行正 板垣退助こぼれ話

2005年03月31日 | 板垣退助こぼれ話
憲政の神様と称された尾崎行雄の父行正は、今の東京都の八王子から今の神奈川県津久井町の尾崎家ら入婿したのだが、勤皇浪士の交際で家をあけることが多く家計も乱れて生活に困窮していたという。

その尾崎行雄の父行正は若いときに江戸に遊学し、漢学者の藤森弘庵の私塾を学んだという。同門には木戸孝允もいた。

尾崎行正は板垣退助が迅衝隊を引き連れて、甲斐の甲府に入ると、これに呼応し迅衝隊の支隊ともいうべき断金隊にその身を投じる。

まだ多感な十一歳という年頃の尾崎行雄は、母とともに会津まで出陣した父の留守を心細くその帰りを待ち続けたが、父が殺されたという噂を聞き、毎晩のように父が殺されたり、殺されかけたりの夢を見たと後に述懐する。

父が会津まで出陣した慶応四年の翌年に十二歳となった尾崎行雄は母に連れられて、上京し、父と対面しその後父の赴任先で勉強する。

父行正が板垣退助の部隊【迅衝隊】とともに行動していたので、その縁で迅衝隊の幹部でもある安岡良亮の下で弾正台の役人として働いていた。
尾崎行雄はその縁で父の上司である安岡良亮の屋敷に住み込み、彼から「七書」の講義を受ける。
その後も尾崎行雄の一家は安岡良亮の転勤したらそれに共に同行していた。


板垣退助の東征は、「憲政の神様」尾崎行雄の人生まで影響を与えたようである。

「外人部隊」断金隊 板垣退助こぼれ話

2005年03月29日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が甲斐にて有志にて編成された断金隊は、その隊員には、尾張名古屋の浪人・村井直三郎、相模浪人尾崎彦四郎、影山東伍などでいた。

その所以は、迅衝隊の軍監、元土佐勤王党の党員である大石弥太郎が「二人同心、其利断金」という易の語からとったものという。

板垣退助は断金隊の隊員たちを集めて武田信玄の廟前で誓約させ、また板垣退助はそれど相前後して甲斐の郷士たちによる護国隊という部隊も結成させる。

これら迅衝隊の支隊である断金隊は北関東から会津転戦し、偵察・戦闘とさんざん酷使され、最後に「乞食の如くなりて」といわれて帰国したという。

なんとも、こうも断金隊がここまであわれになれば板垣退助は疫病神に思えてならない。

薩土同盟②

2005年03月28日 | 板垣退助こぼれ話
さて、この会談の二日後、中岡慎太郎は薩摩藩の西郷隆盛と連絡をとり、薩摩藩家老小松帯刀の寓居に集まり、会談を持つこととなる。
中岡慎太郎は毛利恭助、谷干城そして、板垣退助を連れてきた。一方は西郷隆盛は薩摩側を代表する人物として小松帯刀、吉井幸輔をもって迎える。

板垣退助は薩摩側の藩士たちに「あなだ方が、僕らの微衷(本心)を諒解するなら、ともに盟約を立てて事に当たりたい。一ヶ月の間に土佐で同志を糾合し、
飛激のいたるを持ってただちに上京する覚悟だ」と告げる。
中岡慎太郎はこれに飛びついて、「板垣退助がもし約束にそむくよう事があれば、僕は割腹する」と誓う。

西郷隆盛はこれには膝をうって喜ぶ。「大丈夫の言、近頃めずらしい快事だ。どうかともに盟約を固めてほしい」と応じる。

いわゆるこの会談がのちに薩土同盟といわれる所以となる。
薩土同盟で中心的な役割を果たした中岡慎太郎は「時勢論」を著したり、陸援隊を組織するなど、板垣退助以上に倒幕運動の中心にいた人物である。

坂本龍馬とともに見廻組に襲撃して落命しなければ、土佐の倒幕部隊を率いた指揮官は板垣退助でなく、中岡慎太郎であったことは疑う余地がないのでは。

そうなれば、板垣退助の運命も大きく変わっていたことだろう。

薩土同盟①

2005年03月27日 | 板垣退助こぼれ話
戊辰戦争の前年慶応三年五月十九日、板垣退助は京にて、谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎を捕まえて料亭「大森」にて会談する。
中岡慎太郎が、土佐藩の挙兵討幕について板垣退助に尋ねると、板垣退助は「容堂公に訴え、容れなければ、諫死するのみだ」と答える。

これには、中岡慎太郎憤然として、畳を叩いて板垣退助を問責する。
「あなたは、国家の安危をかえりみず、一人いさぎよく死ぬだけで満足なのか。豚や犬のような無意
味な死は、断じて僕は許さない。今日必要な大計を早く語りたまえ」と迫る。

板垣退助は中岡慎太郎の気迫にのまれ、自分の非をわび、「藩論が討幕と決まらない場合は、同志たちとはかり挙兵しよう」と断固たる口調で告げると
中岡慎太郎はこれに安堵し、「我が意を得たり」とにこりと笑ったという。

慶応四年三月二十六日 板垣退助日誌

2005年03月26日 | 板垣退助日誌
土佐藩の支藩高知新田藩が麻布の江戸藩邸より、家来を引きつれて、板垣退助ら迅衝隊のもとに来たる。

この麻布の江戸藩邸におく支藩は、藩主山内豊福は一月に自害している。山内豊福は実父は筑前秋月藩主 黒田長元であり、血縁的にほ土佐の山内家とはなく、とんど江戸にて過ごしており、京に政情にはうといと思われる。

板垣退助のこと 【1】 管理人の勝手な独り言

2005年03月23日 | 管理人の勝手な独り言

管理人の勝手な独り言

このブログを開設して以来、戊辰戦争開始から板垣退助の動向をつぶさに【?】
お伝えしてきたつもりですが、
ようやく、板垣退助ら迅衝隊は江戸に入ってきたのですが、肝心の板垣退助の顔がなかなか見えなくて、イライラさせているかと?思いっています。【わたしもそう感じています_(_^_)_】


迅衝隊が土佐から出て、江戸に入府するまで結局板垣退助は直接戦闘には加わっていないし、
彼について語るエピソードは板垣退助の明治期に比べて極端に少ないと感じています。

それよりか、谷干城の活躍のほうが注目される。
鳥羽伏見の戦い直前におこった江戸での薩摩藩の焼き討ちの第一報を知らせたのは谷干城であり、
迅衝隊の援兵の奔走や、東山道の総督府軍から離れて迅衝隊単独で甲府への進軍を主張したり、
江戸に入ると情報収集に奔走するなど、なかなか目立つ活動をしているのに気づきます。

板垣退助は総督という立場だったのか、隊の運営に重点を置いていたのか、あまり対外的な活動が目立ちません。

板垣退助が谷干城より目立たない【?】のは、板垣退助が出てくるほど迅衝隊に対して強力な敵がいないという現状があるのでしょう。

しかし、板垣退助ら新政府軍が江戸に入府してからは、これまでのように無人の野を行くかのような敵無し進軍というわけにはいきません。

江戸以外の地域は支配下していない実態や、新政府軍に恭順や江戸無血開城に対して難色を示している旧幕府兵たちも、関東に多く点在しています。

予告めいた言い方になりますが、板垣退助の活躍もしくはその真価が問われるのは、四月以降になります。

以上、板垣退助のこと 【1】というこで、管理人の勝手な独り言でした





江戸城「無血開城」前後 板垣退助こぼれ話

2005年03月22日 | 板垣退助日誌
甲府を占領し、近藤勇ら甲陽鎮撫隊を破った板垣退助ら迅衝隊は、甲州で席を温めるまでもなく、三月十五日の予定されている江戸城総攻撃の前に、甲州街道より一路江戸を目指した。

他の総督府の部隊には後れを取ったがどうにか、総攻撃の前日に間に合い内藤新宿に入るが、
西郷隆盛と勝海舟によるトップ会談により江戸城の無血開城が決めらる。

これには、土佐藩兵は拍子抜けしたことであろう。
のちに谷干城は明け渡しになった江戸城内を見学して、城内に大砲が百門余りも並んでいたことに驚く。谷干城は江戸で大砲をかき集めようとしたが、軽砲や臼砲が八、九門くらいしかなかったというから、江戸城にある火力の前では迅衝隊の火力まさに子供の花火同然。行軍や戦闘に疲れ果てた土佐藩が
迅衝隊が江戸城に総攻撃に加わらないほうが賢明であったかもしれない。

「ちくと刀が長すぎはせんか」 板垣退助こぼれ話

2005年03月21日 | 板垣退助こぼれ話
勝沼の戦いのあと、迅衝隊は会津藩士の大崎壮助という者を捕らえて尋問するが、なかなか傲然として口割らない。それを聞いた板垣退助は
「おもしろい男だ。」といって直接尋問しようとするが、大崎は「猶予せず首をはねてもらいたい」と訴える。

板垣退助は拷問するのに情に忍びず、武士らしく死罪を宣告した。いよいよ斬首される段になり大崎は板垣退助に一礼をして刑を待つが進んで斬ろうとするものがいない。
そのうちに中屋修治という者がいて身長六尺という大柄な男で日頃から好んで三尺の長刀を差していた。「自分はかつて京都四条で会津のものと立ち会って二人を倒したことがある。

これを斬らせてもらえばちょうど三人になる。」と言って壇上に出て来た。中屋は抜刀したものも周囲の藩士たちの注視に緊張したのか、なかなか斬ろうとせず、
板垣退助は「中屋、ちくと刀が長すぎはせんか。」と軽くひやかすと取り巻きたちはどっと笑う。これに気がほぐれたのか、中屋の刀は紫電一閃大崎壮助の首を皮一枚を残して前にたれた。

中屋修治はその髷をつかんで皮を断ち、しずかに壇の上におくと、大崎の首は馬手ばちばちとまばたいて生きもののようにぐるりを回ったという。
その壮烈さに一軍の藩兵たちは声をのみ、驚嘆せざるえなかったという。

谷干城、江戸にて心配 板垣退助こぼれ話

2005年03月20日 | 板垣退助こぼれ話
さて、どうにか江戸に到着した板垣退助ら迅衝隊は、結局江戸無血開城ということで、戦闘はなく、江戸にてとりあえず「駐留」することになった。

しかし、土佐の南国で生きてきた迅衝隊の面々は江戸では方言による言葉の壁、土地勘やその習慣などになじみない者ぱかりで、迅衝隊の軍監・谷干城は隊員たちが要領が得ないだろうと心配して、土佐藩の支藩にあたる麻布の山内家に案内役を派遣するように要請する。

されど、支藩【高知新田藩】の山内家の家臣たちは土佐藩の支藩いえど一年のほとんどを江戸ですごすため、幕府に同情的で、本藩といえどまさに「田舎侍」の迅衝隊の要請には非協力である。

わざわざ谷干城自身が麻布の山内家に訪れて懇願しても、「大丈夫、大丈夫。徳川の御家来衆はみな恭順、しかも不逞なやからなどはいません」という。

それでも谷干城は粘る。「しかし、半蔵門や桜田門のあたりは、塹壕を掘り返したり、大砲を据えてあったり、さかんにやっているではないか。あれでも徳川の家臣は恭順したというのか」
というと、支藩の山内家の家中のものたちは、仰天して、舌を垂らして笑いだす始末。


こうして、谷干城は支藩の山内家の家臣たちに相手にされずからかわれて、すごすごと隊に帰ったという。

いのすとやす 板垣退助こぼれ話

2005年03月17日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助は子供のときに幼名が猪之助から「いのす」とあだ名され、板垣退助の生家から南方に二百メートルのところに
後藤象二郎こと幼名保弥太、あだ名「やす」がいた。この二人は竹馬の友であり、二人が通るとまわりは道を避けて通ったという。
いのすはやすが蛇を嫌いなた竹竿の先に蛇を挟んで投げかけたという。
これに対してやすはいのすが嫌いな糞攻めで対抗したという。
幕末、維新の土佐藩において互いに相寄り離れて重要な役割を果たす二人は少年のときのエピソードである。