戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

遅すぎた大鳥圭介の勝利 板垣退助こぼれ話

2005年06月26日 | 板垣退助こぼれ話
今市で二度に渡り、土佐藩の迅衝隊に破れた大鳥圭介はこのころ旧幕府軍や会津藩内部で、その手腕を疑問視する風が強かった。
一方で同じ適塾出身の大村益次郎は上野寛永寺の彰義隊を一日で勝ち、新政府内の総督府の発言力を確かなものにしている比べると
随分差が激しいと思う。

さて、その大村益次郎が彰義隊討伐に大いに利用したのが、佐賀藩のアームストロング砲である。そのアームストロング砲を
引き連れた佐賀藩兵が土佐藩と変わり今市にやってきた。
板垣退助は決して今市に出て戦ってはならないと命じたが、旧幕府軍が少数の兵で高徳で陣していると聞くと、ただちに出陣してそれを掃討しようとする。

六月二十五日、佐賀藩兵八百人宇都宮藩兵四百三十人はがりが旧幕府軍と衝突し、佐賀藩は自慢のアームストロング砲を放って、
敵を一掃させる。旧幕府軍は佐賀藩の強大な火力の前になすすべもなく大原より退却する。
これを聞いた大鳥圭介は軍議のため出張していたた五十里からあわてて戻り急いで、軍を建て直し胸壁を築いて来る佐賀藩の襲来に備えた。

佐賀藩兵は翌日六月二十六日の朝気をよくしてさらに進んで旧幕府軍を一掃しようとしたが、宇都宮藩兵と前日の勝利したときの半分の兵しかつれてこず
さらに隊を鬼怒川を挟んで二分して旧幕府軍のいる小原を襲う。
鬼怒川の右岸に渡った佐賀藩兵と宇都宮藩兵は旧幕府軍を銃撃戦を行い、佐賀藩兵は敵が弱まっていると判断して深追いすると、側面の胸壁から一斉射撃を浴びせられた。
混乱した佐賀藩兵は狼狽して戦うどころではなかった。
大鳥圭介は敵を深追いさせて銃撃させて敵を混乱させる、一方予備兵を投入させて抜刀のうえ佐賀藩兵を襲うと佐賀藩兵は戦線を持ちこたえることなく退却を命じる。

彰義隊の戦意を失わせたアームストロング砲は退却のときに邪魔だとはがりに、砲身と片方の車輪のみ持ち帰るというありさま。
こうなれば大鳥圭介の見事のまでの采配であるが、あれほど板垣退助の迅衝隊にはさんざん打ち負かされたのに、アームストロング砲を持つ佐賀藩を
あざやかに勝利手腕には不思議としかいいようがない。
しかし、かの板垣退助は奥羽の玄関口白河におり、会津藩の本拠若松を攻略の野望をこの佐賀藩の敗北には、あまり影響を与えなかった。

このころの板垣退助は白河城に入り、棚倉城を抜いていた。

指宿白水館(指宿市)所蔵に戊辰戦争直前の西郷書簡見つかる

2005年06月25日 | 管理人の勝手な独り言
南日本新聞 鹿児島県内ニュース

指宿白水館(指宿市)所蔵の巻物から西郷隆盛、小松帯刀の書簡3通も収めらており、
その中に戊辰戦争直前の慶応三(1867)年九月二十九日と十二月五日付の書簡もあった。
西郷隆盛が大政奉還前後の軍事・政治状況を詳しく報告しており、興味深い。


その書簡が書かれた直後の同十二月二十八日に 西郷隆盛は谷干城に江戸にて薩摩藩邸が焼き討ちにあったことを伝言し、それを土佐藩邸に伝えるように依頼している。その谷干城の伝言が結局土佐藩の出兵のきっかけとなる。

慶応四年六月二十四日 板垣退助日誌  棚倉城落城

2005年06月24日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら新政府軍は、白河を出て旗宿村と郷土の本道から部隊を二つに分けて、新政府軍は早朝に七百の兵力を出発させる。
進軍する。
旗宿を進む新政府軍は奥羽越列藩同盟軍とたびたび交戦するも、これを撃破し、本道から進んだ新政府軍は
郷戸村にて会津藩・棚倉藩・仙台藩・中村藩が堡塁を築いて、新政府軍を待ちかまえていたが、
午前六時、会津藩の木村兵庫隊が新政府軍と銃撃戦となり、交戦するが新政府軍は火力でもって圧倒する。
このとき、板垣退助は「応援来る前に棚倉城を落とせ」命令して退路をたつ。
表郷村にて棚倉藩兵を破り、金山村で新政府軍の二つの部隊は合流する。
会津藩ら同盟軍は棚倉城へ行き籠城しようとするが、城は混乱しており籠城戦が出来ないと
悟り、城より北へ二キロのところにある逆川にて陣地をつくり、土佐藩と長州藩と抗戦していたが、
薩摩藩・大垣藩なとが応援にきたため撤退する。
棚倉藩兵は棚倉城では援軍に来ていた同盟軍が引き上げてしまい、棚倉藩兵は単独では棚倉城を守ることは不可能とさとり
城に火を放ち、逃亡する。午後二時には城や城下より火の手があがり、棚倉城は落城する。

新政府軍は出発させる。
このとき、板垣退助は「応援来る前に棚倉城を落とせ」命令して退路をたつ。
会津藩ら同盟軍は棚倉城へ行き籠城しようとするが、城は混乱しており籠城戦が出来ないと
悟り、城より北へ二キロのところにある逆川にて陣地をつくり、土佐藩と長州藩と抗戦していたが、
薩摩藩・大垣藩なとが応援にきたため撤退する。。
午後二時には城や城下より火の手があがり、棚倉城は落城する。