戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

「江藤くんの言うことはもっともだ」

2007年12月06日 | 板垣退助こぼれ話
明治新政府で重要に役職についた板垣退助は参議会議などで
重要な政策を話し合われたときに、頭の切れる江藤新平の主張や思想がなかなか
理解できずにいた。板垣はその内容について聞くことが出来ず
ただ黙って聞くばかりであった。
しかし、木戸孝允は「江藤君のいうことは、最もだすぐに実行すべき」と大きくうなずく。
それを見た板垣退助は会議を終えると、木戸を捕まえて「木戸さん、いつも江藤君のいうことをもっともだという。あれはどういう意味が教えてほしい」とたずねた。
木戸は苦笑いして板垣退助に応えた「いや、実は江藤くんのいうことは僕もよく解らないのだよ。けど、彼の言うことなら間違いないだろうから、そうだろうと言うたまでのことよ」
とあっけらんに応えたという。
板垣退助の出来たばかりのころの新政府の位置づけがよくわかるエピソードだと思う。

松平太郎の訪問

2007年10月02日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が日光に入る直前に、迅衝隊に意外な人物の訪問をうける。洋装の騎馬の一行を引き連れた松平太郎である。松平太郎は江戸開城直前においては、陸軍奉行並に就任し、のちに榎本武揚が箱館にて蝦夷共和国を設立するさいに、その幹部として名を連ねることになる。徳次郎村にいた迅衝隊の半大隊長祖父江可成の部隊に、旧幕府軍の陸軍奉行松平太郎が訪れて、旧幕府軍は今市を撤収しているため、日光攻撃を差し控えるよう要請した。祖父江可成らは彼の言動を不審に思い、彼らを鳥取藩兵に引き渡して、宇都宮に護送させる。
 松平太郎は迅衝隊に来て、そのような要請を行ったのか。その前日に松平太郎は大鳥圭介らと日光で面談していた。松平太郎はその際に十人ほどの護衛とともに徳川家の書簡と軍資金と医師を届けたという。北関東においては脱走した旧幕府軍と新政府軍が各地で戦闘している中を、わずか十人ばかりの護衛で無事に日光にたどりつけたのだろうか。
 実は日光に来る途中に板垣退助が引き連れた安塚救援に急ぐ迅衝隊に咎められている。迅衝隊は洋装に三千両と大金を抱えた騎馬の一行は目立つため彼らを厳しく吟味しようとしたが、彼は大胆にも迅衝隊にこういって煙に巻こうとした。「徳川の臣松平太郎なり、慶喜、恭順命を待つといえども、脱走総野の間に横行し、甚だ恭順の旨意に戻る、故に東海道御総督に願い、鎮撫の為め罷り通る」これに迅衝隊の西尾遠江介はその言は最もなれどその証拠をと求めた。すると、松平太郎は大総督府の通行鑑札の印形を差し出した。西尾は不審に思うも、大総督府の通行鑑札があるためにそれ以上嫌疑を追求できず三千両を持たせたまま松平太郎の通行を認めたという。
 松平太郎が大総督府の通行鑑札を手に入れた経緯は不明だが、徳川参政の書簡と三千両の軍資金などを所持していたなどの状況証拠を考えると、旧幕府の首脳部クラスの意志によるものと考えるのが妥当であろう。日光に着いた松平太郎は自制を求める徳川参政の書簡を渡して、軍資金も大鳥圭介の部隊に配られた。そして大鳥圭介と面談した松平太郎は板垣退助らの日光進軍を差し控えるように交渉すると約束した。
 迅衝隊は松平太郎の要望を一蹴したが、日光進軍を予定通り進めた。松平太郎の本来の来訪の目的は達せられなかったが大鳥圭介と板垣退助の対決にすくなからず影響を与えた。

○板垣退勤と相楽総三の孫とのすれ違い

2007年08月31日 | 板垣退助こぼれ話
相楽総三の孫木村亀太郎が板垣退助と会いたいと望んでいた。彼は何度無く懇願してようやく板垣退助と会うことができた。
「君が総三さんの孫さんか」と亀大匹こ尋尽て、「そうです私は相楽総三の孫で木村亀太郎といいます。ご存じでしょうが相楽は本姓を小島と申します。孫の私は小島ではなく、木村を名乗っております。それには事情があります』
 耳の遠い板垣退助は補聴器を当てて亀太郎の話に耳を傾けた。「相楽が信州で殺されたとき一人の男の子がありました。四歳になっておりました。相楽の妻一私の祖母の名を照ると申します。祖母は、と、申しましてもまだ若かったと聞いています。祖父相楽が殺されたと聞いて一子河次郎を残して自害して死にました」亀太郎は自分の生い立ちを板垣退助は「そんな事が当時あったのか、ふうむ、俺は今始めて聞いた、そうか、奥さんが自害したか、ふうむ」といって板垣退助はるか昔の思い出を思い浮かべようとした。
そして亀太郎は板垣退助と会いに来た核心にあたる祖父相楽総三がどういう事情で処刑されたのか、偽勤王家か強盗の張本人だつたのか知りたいと言ったときに、板垣退助まさに言葉を選ぶかのように、ようやく応じた。                     「そうか-そのころの話をしろといっても、古いことで忘れ勝だ、しかし、俺は総三さんとは可成り親しくしていた。わしが江戸で藩の一土佐の兵隊の長をしていたころだった、幕府のものに追いかけられた、総三さんの屋敷に隠匿ってもらったたことがあった。そうだ赤坂の大きな屋敷だった。それから又、総三さんが危ないとき、今度はわしが総三さんを土州屋敷へ連れ込み隠匿ったことがあった。信州で新られたときも、わしが居れば、あんな事をさせはしなかったのだ。あの時わしは甲府の方へ新撰組を討ちに行った。三月一日だから二日前だ。新撰組の方は五六日で埓があいたので諏訪へかえつてみると、総三さんが殺られた後だ、非常に残念におもつた。処刑にあつた原因か-その真相はどうも自分の立場として云うのは悪い、のみならず、それを発表したのでは、現在の地名の人たち迷惑をかける結果に
なるし-」
 板垣退助はそれ以上相楽総三について語ろうとはしなかった。代わりに板垣退助は大山弥助こと大山巌への紹介状を書いてくれた。相楽総三と親しく薩摩の人から真相を発表をさせれば問題ないはずと言われたが、結局大山巌は木村亀太郎と会うことはなかった。
 なにも晩年の板垣退助を書くことがこの稿の目的ではないが、もう政界に引退して旧幕府や官軍とかの勢力を戦う時代から連<のすぎた大正であるはずなのに、板垣退助が相楽総三のことを語ろうとしないことのもどかしさと違和感を感じる。

○板垣退助の初手柄、高松城の接収

2007年08月10日 | 板垣退助こぼれ話
慶応四年(1868)正月十三日高知を出た板垣退助は迅衝隊を引き連れて讃岐高松城を目指した。正確な表現で言うのなら、京を目指す途上にて高松を近くを通るというほうが正しい表現であろう。同十六日迅衝隊は川ノ江に滞陣してとき、京都より帰国の途次の土佐藩家老深尾鼎重先の家臣たちと会う。このときに迅衝隊は松山藩と高松藩の追討の命令が土佐藩に下ったことを知った。
 このために当初の目的である京への出張命令から高松城を攻略に変更になり、迅衝隊の幹部たちは協議を行われたようで、迅衝隊は進軍を一時中断してその次の日も川ノ江で滞陣した。高松城を接収するには、最悪の場合武力による交戦もありえるため、板垣退助らは迅衝隊六百人だけでは兵力が足りないのか、また兵力の質的な問題があったのか、兵力の増援を頼むべくまたも谷干城が高知へ再び戻ることになった。
 出発した直後の迅衝隊はあわてて出発したので、高松城の接収には不安があったのだろう。
  翌十七日には、迅衝隊の右半大隊長の片岡健吉を丸亀藩に差し向けて、高松藩征討の協力を要請し、迅衝隊はまた川ノ江で滞陣し続けた。迅衝隊が川ノ江で数日待機したのも、丸亀藩を通じて、高松藩との接収もしくは征討を行うために工作をしていたためと思われる。さらに次の日の十八日には迅衝隊の総督たる家老の深尾丹波を説得できた板垣退助は自ら高松藩の追討の軍令を発し、その夜に迅衝隊出発させた。翌十九日の未明鳥坂において大監察本山只一郎が、高松藩と松山藩追討の勅書を奉じて迅衝隊の陣営に届けた。姫駅まで来ると今度は樋口真吉が京より護持した錦旗を板垣らに届けられる。錦の御旗が迅衝隊の陣頭翻り全軍の士気も大い上がったところで、午後二時に丸亀に入った。
 京極家の丸亀藩の国境に来ると、待ち受けていた藩士たちが丸亀城下に案内した。片岡健吉の交渉が上手くいったのか、丸亀藩は積極的に迅衝隊に協力する意志を示してきた。迅衝隊の本陣を中村屋見附右衛門方とし、その他の兵は市中の分宿させた。 一月二十日にいよいよ、高松藩の領内に入り高松城へと進む。迅衝隊は丸亀藩の協力を得て、隊を二分し、一方は丸亀藩兵とともに陸路から、もう一方を海路から多度津藩兵の案内で高松に進軍させた。 陸路より進んだ一隊、丸亀藩兵とともに午後二時頃高松城下の岩清尾神社に布陣する。一方、海路より進んだ一隊は多度津藩の先導により調達した小舟四十艘にて高松に進み、午後四時頃には土佐藩・丸亀藩とともに城下真下寺に集結した。
夕方に、一大隊と大砲二門をもって城に迫り、常磐橋外に空砲二発打ち、小銃を空に向けて弾を残らず発砲した。 夕刻には高松城下にある松林寺に本陣を進めたときに、高松藩主松平頼聡が前日の夜までに浄願寺に退去謹慎し、城頭には降参と書かれた降服の白旗が立てられ、城門はひらかれ、藩士たちはみな脱刀して迅衝隊を迎えた。 迅衝隊は緋の菊の錦旗を高松城の表書院の上段の床の上に安置し、深尾丹波は上段に着座され、高松城内は土佐藩の封印を張られる。 あっけなく高松城の接収が完了してしまった感があるが、その高松藩では板垣退助らが来るまで非常に厳しい議論が交わされたすえ、藩の家老二名が切腹、残った家老大久保飛弾、白井石見は藩主頼聡の恭順嘆願書を提出するなど、一方的までに降参し恭順の意志を示したからである。徳川親藩の家柄である高松藩がここまで屈っしてまで恭順するには、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が一方に敗れてしまい、徳川慶喜が遁走同然に江戸に帰ってしまったことを高松藩でも知られたためとも考えられる。迅衝隊の主力が京にあっと推定すれば、戦火を交えることなく高松城を無血開城させたことは、板垣退助にとって幸運なことと言えよう。後に板垣退助は奥羽越列藩同盟の中枢である会津若松城に対しては、激しい砲火と交えた末に開城させたことを考えると対照的である。
 板垣退助はあくまで上京のうえ倒幕勢力との糾合の上、本体である旧幕府を倒すことが肝要であると痛感したのか、一部に伊予松山城の攻撃に移ることを主張する意見もあったが、板垣退助は「目標は東」と云って京を目指そうとした。こうして、高松城接収の翌日には総督深尾丹波を高松城に残して、丸亀に戻る。

板垣退助と小笠原唯八

2007年07月30日 | 板垣退助こぼれ話
京都の新政府軍の命令により、佐賀藩の奇才江藤新平と板垣退助の親友小笠原唯八が江戸に派遣される。当初江藤新兵と小笠原唯八が江戸に来た理由の一つには板垣退助の甲斐に巡る攻略における一件が端緒となったといえる。彼らが派遣されたのは、江戸を目指した東海道総督府軍と東山道総督府軍が確執ありとの情報を得て上での実情の調査するためであった。甲斐は東海道総督府軍の担当区域だったところをこれを東山道総督府軍の板垣退助が勝手に収攬したとして、かつて東海道総督府軍だった黒岩治部之助が訴えた。こうして京の新政府は二人を調査派遣させたのである。二人を派遣させた事は真実の探求するという点においては公平な人事だったとは思えないが、両総督府軍の実情をさぐるという当初の目的と合わせて、せっかく江戸に入った両総督府が江戸市中の取締が困難であり、旧幕府の勝海舟や大久保一翁らに任せているの実情と旧幕臣たちが不穏な動きをしているのに制止できないことが京の新政府の首脳部に報告されたようである。役割を果たした江藤新平だけが先に京に戻り、報告する予定だったが小笠原唯八が江藤と共に京に帰ることになる。この辺りの事情はあまりよくわからないが、二人の報告は京の新政府の首脳たちの方針を変えさせるものがあったようである。
 江戸を無血開城に成功させたのにもかかわらず、二人が京に戻ってからすぐに新政府は関東大監察に三条実美、軍防事務局判事に大村益次郎を任命、江藤新平と小笠原唯八も諸道軍監に任命される。閏四月十一日に京都を発した小笠原唯八ら一行は二十三日再び江戸に舞い戻る。
 その小笠原唯八は板垣退助と親交があることは知られているが、戦前の高知新聞にその頃にあったと思われる小笠原唯八が市ヶ谷にいる板垣退助のもとに訪れてひさびさの語りあうエピソードが掲載されている。
 小笠原唯八は、板垣退助の陣営に訪れた際に、彼を見つけると、「おい貴様の軍令は厳しいとの噂じゃが果たしてまっことか」板垣退助はすぐに応えた。「左様、まずためしに邸内を廻って見い」と親友として子供ぽく応えてみせた。夜になると小笠原唯八は板垣退助の部屋に参ると「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と首筋に片手で叩きながら笑った。ついで小笠原唯八は「おい酒でもないか」と尋ねるが、板垣退助は「馬鹿なこと云え、陣中だぞ」と小笠原唯八と叱りつけた。そうもいいつつ小笠原唯八は苦笑いして「やれんやれん」と言って、とうとう板垣退助と共に枕を並べて寝てしまった。その翌日には小笠原唯八は迅衝隊などの調練を見学して、夕方になると板垣退助にこういった。「貴様の陣屋に居るとまるで岩屋の中に棲んじょるようで窮屈でおれん、片時も早う品川の宿に帰らんと堪らん堪らん」と冗談を言って帰る始末。
 江戸市中にはまだまだ旧幕府が新政府軍を囲むかのようにいる最中とも思えない、穏やかな春うららの土佐で友人宅に押しかけたかのようなエピソードである。板垣退助が戊辰戦争においてこのような開衿してうち解け合うなエピソードは見あたらない。小笠原唯八がそれだけに値する親友だったのか、それとも私が他のエピソードを見落としているのどちらかであろう。小生が腑に落ちないことに、小笠原唯八が「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と語るところである。味方のはずの土佐藩の陣中でなぜ小笠原唯八にとって『危うい』のだろうか。彼は土佐勤王党を弾圧をのさいに重要な役割を行っていた。迅衝隊にはいわゆる土佐勤王党の残党が多くいたとも言われている。
 かつて土佐勤王党を弾圧した小笠原唯八なら、迅衝隊の中には快く思わない人もいるだろう。そのことを差して、『危うい』と言ったかもしれない。ちなみに迅衝隊の第三小隊の隊長は小笠原唯八の弟小笠原謙吉である。


遅すぎた大鳥圭介の勝利 板垣退助こぼれ話

2005年06月26日 | 板垣退助こぼれ話
今市で二度に渡り、土佐藩の迅衝隊に破れた大鳥圭介はこのころ旧幕府軍や会津藩内部で、その手腕を疑問視する風が強かった。
一方で同じ適塾出身の大村益次郎は上野寛永寺の彰義隊を一日で勝ち、新政府内の総督府の発言力を確かなものにしている比べると
随分差が激しいと思う。

さて、その大村益次郎が彰義隊討伐に大いに利用したのが、佐賀藩のアームストロング砲である。そのアームストロング砲を
引き連れた佐賀藩兵が土佐藩と変わり今市にやってきた。
板垣退助は決して今市に出て戦ってはならないと命じたが、旧幕府軍が少数の兵で高徳で陣していると聞くと、ただちに出陣してそれを掃討しようとする。

六月二十五日、佐賀藩兵八百人宇都宮藩兵四百三十人はがりが旧幕府軍と衝突し、佐賀藩は自慢のアームストロング砲を放って、
敵を一掃させる。旧幕府軍は佐賀藩の強大な火力の前になすすべもなく大原より退却する。
これを聞いた大鳥圭介は軍議のため出張していたた五十里からあわてて戻り急いで、軍を建て直し胸壁を築いて来る佐賀藩の襲来に備えた。

佐賀藩兵は翌日六月二十六日の朝気をよくしてさらに進んで旧幕府軍を一掃しようとしたが、宇都宮藩兵と前日の勝利したときの半分の兵しかつれてこず
さらに隊を鬼怒川を挟んで二分して旧幕府軍のいる小原を襲う。
鬼怒川の右岸に渡った佐賀藩兵と宇都宮藩兵は旧幕府軍を銃撃戦を行い、佐賀藩兵は敵が弱まっていると判断して深追いすると、側面の胸壁から一斉射撃を浴びせられた。
混乱した佐賀藩兵は狼狽して戦うどころではなかった。
大鳥圭介は敵を深追いさせて銃撃させて敵を混乱させる、一方予備兵を投入させて抜刀のうえ佐賀藩兵を襲うと佐賀藩兵は戦線を持ちこたえることなく退却を命じる。

彰義隊の戦意を失わせたアームストロング砲は退却のときに邪魔だとはがりに、砲身と片方の車輪のみ持ち帰るというありさま。
こうなれば大鳥圭介の見事のまでの采配であるが、あれほど板垣退助の迅衝隊にはさんざん打ち負かされたのに、アームストロング砲を持つ佐賀藩を
あざやかに勝利手腕には不思議としかいいようがない。
しかし、かの板垣退助は奥羽の玄関口白河におり、会津藩の本拠若松を攻略の野望をこの佐賀藩の敗北には、あまり影響を与えなかった。

このころの板垣退助は白河城に入り、棚倉城を抜いていた。

迅衝隊VS永倉新八  板垣退助こぼれ話

2005年05月23日 | 板垣退助こぼれ話
かの新選組のなかでも永倉新八ほど土佐藩の藩士たちにその刃を向けたものはいないのではないか。
一躍新選組の名を天下に知らしめた池田屋事件では脱藩した土佐藩士たちに対して抜刀して戦う。

戊辰戦争では、近藤勇らが結成した甲陽鎮撫隊に加わり、勝沼の戦いでも土佐藩の迅衝隊と戦うが敗れる。

永倉新八は近藤勇らと別れて靖共隊の結成に加わる。その永倉新八ら靖共隊は旧幕府の歩兵第七聯隊と合流し、四月二十二日で迅衝隊の別働隊と安塚で戦い、抜刀隊を組織して奮戦する。永倉新八は二の腕を負傷している。

五月六日に大鳥圭介らが伝習隊らを率いて今市にいた板垣退助ら迅衝隊に襲撃するさいにも永倉新八はこれに加わる。
第二大隊に所属していた永倉新八らの遊軍隊は、この戦いで幹部矢田賢之進が眼の下を狙撃され戦死したさいに、永倉は銃弾を避けながら矢田の首を切り落として、戦闘を続け戦いが終えたのちに高徳寺に埋葬したという。

これ以後、永倉新八は戦闘に参加した形跡はない。その永倉新八にかわってに足首を負傷から回復した土方歳三が迅衝隊に立ちはだかろうとする。

板垣退助の甥 板垣退助こぼれ話

2005年05月21日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助らが今市にて大鳥圭介の軍と苦戦している中、板垣退助の甥に高屋佐兵衛が今市に援軍を引き連れて、駆け付けようとしていた。

板垣退助は大鳥圭介が軍を引き連れて今市に再び大規模な襲来をする情報を得て、高屋に今市に至急くるように指令するが、どういうわけか
その命令は高屋には届かなかった。

結局板垣退助は高屋佐兵衛の援軍なしでどうにか大鳥圭介の攻撃を撃退できたが、戦いが終わってから高屋佐兵衛は今市に到着してきた。

板垣退助はこの甥の遅着に腹に据え換え、高屋佐兵衛を斬ろうとするが、廻りの者に留められてようやく思い止まったという。

日光東照宮を「戦火」から救え 板垣退助こぼれ話

2005年05月11日 | 板垣退助こぼれ話
日光東照宮の玄関口にあたる神橋脇には板垣退助の銅像がある。板垣退助が日光を戦火を救ったということで昭和四年に建てられたもので、
颯爽とした武人板垣退助を象徴的に表現している銅像である。
日光を戦火から救ったのは、板垣退助一人の功績でないことは、明治になって谷干城がよく主張している。
板垣退助は飯塚村の台林寺の僧厳亮に命じて、旧幕府を説得させようとするが、その厳亮は松原の関門で番人に捕縛され、日光山内に監禁される。
厳亮は日光山内にいた知人に頼み大鳥圭介に板垣退助伝えたといわれているが、大鳥圭介が後に書いた「幕末実践史」にはそれについては触れられていない。
谷干城は厳亮は「日光山内をして速やかに官兵に帰順せしむる」ためとしており、大鳥圭介がこの時点において非現実的な内容を伝えたこととなり、日光の戦火を逃れるにはほど遠い内容である。
日光に入った谷干城が偵察をしていると、日光山内の僧道純と慈立が谷干城と面談し大鳥圭介との戦争回避を訴えると、谷干城は両僧に、
「日光を下って決戦するか、日光より離れるか、大鳥圭介にそのように伝えるよう」と命じる。この谷干城と日光の両僧の交渉は大きく作用していたようで、旧幕府軍の幹部
朝田惟季の日記によると、両僧の奔走している停戦和議に同意したとある。
一方、板垣退助と敵対すると大鳥圭介側では宇都宮城を奪われたことで、旧幕府の兵士たちの戦意も低下し、脱走も出てきていた。
また、日光では肝心の兵糧や武器弾薬が無く、またその補充のあてもなかった。とどのつまり、日光で旧幕府軍がその戦線を維持することは困難だったとえる。
こうなれば、板垣退助の単独の力でもって日光東照宮を戦火から救ったというのは、疑問符が出てきそうだが、日光にまつわる板垣退助のエピソードはことかかない。
彼でなくとも、旧幕府の精神的な象徴である日光東照宮を戦火に焼失してしまうと、北関東で旧幕府や会津藩に同情する世論が出てくることは容易に察しえるだろう。
板垣退助が甲州で姓を「板垣」と変えてでも、その民心掌握をしようとしたように、日光付近の「進駐軍司令官」として日光付近の統治に特に腐心していたというから、
それらを背景に板垣退助が日光を戦火から救ったという「伝説」が出てきたのではないだろうか。

板垣退助に嘆願した藤堂藩士  板垣退助こぼれ話

2005年05月10日 | 板垣退助こぼれ話
日光に迫る板垣退助ら迅衝隊は、大鳥圭介らがいると思われる日光東照宮にその砲門を向ける。
板垣退助は、日光の松並木の参道に大砲四門を据え、歩兵・砲兵を散開させる。
このとき、板垣退助は「この緑濃い荘厳な日光を砲火にさらして灰燼に帰するのか」と感傷を覚えたという。
しかし、未だ抵抗し続ける大鳥圭介らをこのまま放ておけない、板垣退助は発砲を命じようとしたそのときに、総督府下参謀・藤堂藩士の吉村長兵衛が
進み出た。吉村長兵衛は板垣退助にたよりすがった、「砲撃はしばらくお待ちください。お願い申し上げます。どうかお待ちください」
驚いた板垣退助はひれ伏した吉村長兵衛の顔を上げて、その嘆願を聞く。
「我らはただ今、朝敵討伐のため、決死の覚悟で賊軍を攻撃しております。しかし、この日光東照宮は我ら藤堂藩の藩祖藤堂高虎が心血
を注いで建築の指揮をとったものです。藤堂藩士として、どうしても撃破するにしのびません」と必死に嘆願する。
吉村の青ざめた顔を見て、板垣退助は「よろしい。貴藩には貴藩の事情もごぞろう。砲撃はしばらく中止致す」
板垣退助は、吉村の肩を叩きにっこり笑ったという。
これで、日光東照宮が荘厳な建築美が今日まで残ることとなる。

板垣退助、日光東照宮参詣す  板垣退助こぼれ話

2005年05月09日 | 板垣退助こぼれ話
ある日、鳥取藩兵が日光にやってきて、草履ばきのまま祭壇に上がり、「ははぁ、これが賊の親玉の廟でごさるか。」
漫罵にみだりにののしると、それを知った板垣退助はこれは天朝の軍の誇りを傷つけるものだ、王師たるものこのような暴挙があってはならないと、
大いに憤慨し、ことさら諸隊を引き連れて東照宮の廟に参詣すると、僧に向かって、「自分は官軍参謀としてではなく、土佐藩士としてここに参つたのであるから、下臣拝謁
の礼をさせてもらひたい」と言ってきた。これには神前の神職や宿房の僧侶が大いに感激したという。
板垣退助が日光を占拠したあと鳥取藩は土佐藩と離れており、これは脚色があったかもしれないが板垣退助が日光における旧幕府の影響力を特に配慮したことは事実であり、
旧幕府の精神的な象徴ともいうべき、日光を押さえようとする政治家板垣退助の性質が見えてきそうである。

板垣退助に嘆願した藤堂藩士  板垣退助こぼれ話

2005年05月02日 | 板垣退助こぼれ話
日光に迫る板垣退助ら迅衝隊は、大鳥圭介らがいると思われる日光東照宮にその砲門を向ける。
板垣退助は、日光の松並木の参道に大砲四門を据え、歩兵・砲兵を散開させる。
このとき、板垣退助は「この緑濃い荘厳な日光を砲火にさらして灰燼に帰するのか」と感傷を覚えたという。
しかし、未だ抵抗し続ける大鳥圭介らをこのまま放ておけない、板垣退助は発砲を命じようとしたそのときに、総督府下参謀・藤堂藩士の吉村長兵衛が
進み出た。吉村長兵衛は板垣退助にたよりすがった、「砲撃はしばらくお待ちください。お願い申し上げます。どうかお待ちください」
驚いた板垣退助はひれ伏した吉村長兵衛の顔を上げて、その嘆願を聞く。
「我らはただ今、朝敵討伐のため、決死の覚悟で賊軍を攻撃しております。しかし、この日光東照宮は我ら藤堂藩の藩祖藤堂高虎が心血
を注いで建築の指揮をとったものです。藤堂藩士として、どうしても撃破するにしのびません」と必死に嘆願する。
吉村の青ざめた顔を見て、板垣退助は「よろしい。貴藩には貴藩の事情もごぞろう。砲撃はしばらく中止致す」
板垣退助は、吉村の肩を叩きにっこり笑ったという。
これで、日光東照宮が荘厳な建築美が今日まで残ることとなる。

中間管理職 早崎兵庫の「失態」  板垣退助こぼれ話

2005年05月01日 | 板垣退助こぼれ話
祖父江可成ら別働隊が大鳥圭介らの伝習隊と安塚で衝突しているさなか、早崎兵庫がいた壬生では戦える兵隊はなく、大鳥圭介らの別働隊が空城である
壬生城を襲おうとしてたが、四、五十人ばかりの壬生藩士たちが負傷兵と協力して、大砲を打つやら、喊声を上げるなどして、城内に大勢の兵をいるように
威嚇したため大鳥圭介の別働隊は攻め込むことをあきらめて帰っていた。
祖父江可成と付いてきた早崎兵庫は安塚の戦いでは参戦しなかったが、土佐藩兵たちの軍資金や食糧、弾薬を守っていたので、これを敵に奪われてならんと
これらを抱いて裁判役の浪越喜平とともに「逃げ」てしまった。
板垣退助らが壬生にいた祖父江可成のために救援にかけつけると、壬生遁走の責任を取らされて、土佐に送還されたうえ、幡多郡に追放処分となる。
早崎兵庫は軍用金の保管をとくに強く命じられていただけに、全部持って逃げたこと非難されたことを彼自身のなかで反論したいところがあったことであろう。
彼は追放されるさいに、こんな歌を残している。「命より尊き黄金取り出でて、黄金にまさる名を棄てにけり。」
現在の中間管理職と髣髴とさせるものを感じるのは、わたしだけでしょうか。

天然理心流を学んだ「断金隊隊士」 板垣退助こぼれ話

2005年04月30日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が甲斐国甲府に入り、姓を「乾」から「板垣」と名を変えたことはよく知られいる。その板垣退助が甲斐の住民で組織させたのが、断金隊である。
その断金隊は迅衝隊の付属とさせ、情報収集の部隊として活用したのが、その隊士のなかに天然理心流を学んだ臼井清左衛門がいた。
臼井は郡内縞の行商をしながら、江戸・横浜を往来していたが、旧幕府誠忠隊に加わる。慶応四年三月末に臼井は同郷の出身で組織された断金隊が江戸に来ると
その身を投じた。板垣退助は旧幕府の誠忠隊にいたことに着目して臼井を探索として、そのまま誠忠隊に留まらせ、敵情の探偵を命じた。
臼井清左衛門は板垣退助の期待にこたえ、今市にいた土佐藩の陣営に大鳥圭介ら旧幕府軍の動向を伝えが、日光に帰る途中、松原町関門で怪しまれ、捕縛のうえ殺害される。
彼の死を惜しんだ、二代目断金隊隊長尾崎行正【尾崎行雄の父】が日光の龍蔵寺にお墓を建てて
その冥福を祈る。

置いてきぼり、土佐藩兵 板垣退助こぼれ話

2005年04月25日 | 板垣退助こぼれ話
安塚の戦いでどうにか勝利を得た祖父江可成らの迅衝隊の別動隊は壬生に戻ると、食糧や軍資金を預かっていた輜重奉行の
早崎兵庫がいないことに気づいた。早崎兵庫は土佐藩の貴重な軍資金や食糧を奪われてなるまいと、ほとんど残さずに持って逃げたのである。
疲れ切った土佐藩兵たちは鳥取藩の炊事番にかけあい飯を分け合ったり、近くの民家から食糧を調達するありさまである。
壬生にいた大半の土佐藩の空腹のため他藩の兵が宇都宮への攻略をだまって見送るしかなく、食糧の都合がついた
迅衝隊の日比虎作が壬生城を出て宇都宮へ向かう途中に、鳥取藩兵と会い、「貴藩はこのへんに止まって、付近の賊の敗残兵がいるので、我が藩と一緒にそれらを
掃討してもらたい」と要請される。一番隊の隊長日比虎作は鳥取藩の参謀河田佐久馬の指図だろうと思い、言われるままに兵を止めて待機していたが、
一向に賊もこなければ鳥取藩兵もこない。不審に思っているところに鳥取藩から伝令が来て、「我が藩はすでに宇都宮に入城した。貴藩もすみやかに来られたし。」
と伝えた。そこに薩摩藩の負傷兵が通りかかり日比虎作にこう告げる。「城はすでに我が藩と長州、大垣、鳥取藩の諸兵で取り戻した、いまから出かけも無益であろう。」
このとき、始めて日比虎作は鳥取藩に出し抜かれたことに気づいたという。
安塚の戦いは宇都宮城陥落の伏線となりえたので、土佐藩兵が宇都宮城の攻略の「栄誉」を手に入らなかったことはさぞかし、残念なことだったろう。