戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

板垣退助の天保八年 【1837】から慶応二年【1865】までの履歴

2005年01月12日 | 板垣退助日誌
天保八年 【1837】
四月十七日、土佐国高知中島町の自邸にて生まれる。父は乾正成、母は林氏
姓は乾、名は正形、通字は退助である。

天保十四年【1843】
九月九日、総領目見する。

嘉永二年 【1849】
母、林氏死去する。

嘉永三年 【1851】
十二月二十五日、市中において同輩と狼藉同様の行為があったとして、
「吃度遠慮」を命ぜられる。

安政元年 【1854】
十二月二十八日、江戸勤番を申しつけられる。

安政二年 【1855】
十月江戸藩邸で大地震に遭う。

安政三年 【1856】
この年に帰国し、六月土佐において同輩を侮辱し八月八日藩庁において罰する
ところとなり、神田の里に閉門され、惣領職没収、城下四か村禁足を命ぜられ
る。このあと幽閉四年間は猟犬を率いて猪鹿を狩り三昧をする。

安政六年 【1859】
五月、自邸に戻り、中島某を師と仰ぎ、自邸に招聘して書家の諸を講じられ
る。とくに退助は孫子の兵法関心を示す。

万延元年 【1860】
三月十日、父正成死す。六月十八日長女兵が生まれる。
六月二十六日、父跡目知行の内、二百二十石を相続する。馬廻に列す。
八月、免奉行となり、西郡津野山に巡按する。

文久元年 【1861】
十月二十五日、御納戸方となり、江戸に差し立てられ、軍備の庶務を掌握する。         
また、同年江戸留守居並に命ぜられる。

文久二年 【1862】
十二月二十三日、内用役から御隠居様御側用役に昇進し、役領知二百三十石
を受ける。

文久三年 【1863】
一月江戸を立ち山内容堂に従い、京都に行く。そのおり中岡慎太郎と会合する。
四月二十六日、御隠居様御用側用役を解任される。
九月二十一日、御隠居様御用側用役を再任され、十月四日、馬廻組頭として
家老深尾丹波組に付属される。

元治元年 【1864】
三月五日、二女、軍が生まれる。
七月二十四日、町奉行となる。八月、大監察を仰せつけられ、容堂を補佐
して藩論の一定を図る。
九月二十四日、大目付役に命ぜられる。

慶応元年 【1865】
一月十四日、大監察を辞して、騎兵修行のため江戸に行く。

慶応二年 【1865】
五月十三日、藩より学問並びに騎兵修行のために特に三人扶持金五両の
手当を受け、翌年までの江戸遊学を命ぜられる。