戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

○板垣退勤と相楽総三の孫とのすれ違い

2007年08月31日 | 板垣退助こぼれ話
相楽総三の孫木村亀太郎が板垣退助と会いたいと望んでいた。彼は何度無く懇願してようやく板垣退助と会うことができた。
「君が総三さんの孫さんか」と亀大匹こ尋尽て、「そうです私は相楽総三の孫で木村亀太郎といいます。ご存じでしょうが相楽は本姓を小島と申します。孫の私は小島ではなく、木村を名乗っております。それには事情があります』
 耳の遠い板垣退助は補聴器を当てて亀太郎の話に耳を傾けた。「相楽が信州で殺されたとき一人の男の子がありました。四歳になっておりました。相楽の妻一私の祖母の名を照ると申します。祖母は、と、申しましてもまだ若かったと聞いています。祖父相楽が殺されたと聞いて一子河次郎を残して自害して死にました」亀太郎は自分の生い立ちを板垣退助は「そんな事が当時あったのか、ふうむ、俺は今始めて聞いた、そうか、奥さんが自害したか、ふうむ」といって板垣退助はるか昔の思い出を思い浮かべようとした。
そして亀太郎は板垣退助と会いに来た核心にあたる祖父相楽総三がどういう事情で処刑されたのか、偽勤王家か強盗の張本人だつたのか知りたいと言ったときに、板垣退助まさに言葉を選ぶかのように、ようやく応じた。                     「そうか-そのころの話をしろといっても、古いことで忘れ勝だ、しかし、俺は総三さんとは可成り親しくしていた。わしが江戸で藩の一土佐の兵隊の長をしていたころだった、幕府のものに追いかけられた、総三さんの屋敷に隠匿ってもらったたことがあった。そうだ赤坂の大きな屋敷だった。それから又、総三さんが危ないとき、今度はわしが総三さんを土州屋敷へ連れ込み隠匿ったことがあった。信州で新られたときも、わしが居れば、あんな事をさせはしなかったのだ。あの時わしは甲府の方へ新撰組を討ちに行った。三月一日だから二日前だ。新撰組の方は五六日で埓があいたので諏訪へかえつてみると、総三さんが殺られた後だ、非常に残念におもつた。処刑にあつた原因か-その真相はどうも自分の立場として云うのは悪い、のみならず、それを発表したのでは、現在の地名の人たち迷惑をかける結果に
なるし-」
 板垣退助はそれ以上相楽総三について語ろうとはしなかった。代わりに板垣退助は大山弥助こと大山巌への紹介状を書いてくれた。相楽総三と親しく薩摩の人から真相を発表をさせれば問題ないはずと言われたが、結局大山巌は木村亀太郎と会うことはなかった。
 なにも晩年の板垣退助を書くことがこの稿の目的ではないが、もう政界に引退して旧幕府や官軍とかの勢力を戦う時代から連<のすぎた大正であるはずなのに、板垣退助が相楽総三のことを語ろうとしないことのもどかしさと違和感を感じる。

“平成の白虎隊”聖光学院、140年目の仇討ち…甲子園第5日 報知新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
◆第89回全国高校野球選手権大会1回戦 聖光学院11―7岩国(12日、甲子園球場) 聖光学院(福島)が県勢最多となる18安打、最多タイの11得点を挙げ、岩国(山口)を圧倒。福島県勢として悲願の“対長州”初白星を挙げ、幕末に白虎隊の悲劇を生んだ「戊辰戦争」のリベンジを果たした。

 平成のサムライは刀ではなく、バットで勇敢に立ち向かった。あの敗戦から139年。時空を超え、リベンジの瞬間が訪れた。夏の甲子園で福島県勢として対山口県勢初勝利。聖光学院ナインは真夏の青空に向かって、大声で校歌を歌い上げた。「山口県勢を倒してくれという、年配の方の声が大きかった」と斎藤智也監督(44)。白虎隊と同い年の若武者たちが、県民の悲願となる“打倒長州”を成し遂げた。

 因縁は江戸末期にさかのぼる。長州中心の新政府軍と旧江戸幕府による戊辰戦争がぼっ発。旧幕府勢力の中心だった会津藩は、10代の武家の男子によって「白虎隊」を編成した。だが、苦戦の末、総勢19人が自害する悲劇を生んだ。今月5日の組み合わせ抽選後、岩国との対戦が決まると、ナインの間では「戦いだな」との声が上がった。「向かっていく気持ちだけは負けたくなかった」会津若松出身の小椋大輝(3年)が話した通り、福島に脈々と受け継がれる「打倒長州」の魂がナインに乗り移った。

 防戦一方だったあの時代と、同じ轍(てつ)は踏まない。5回を除き毎回安打に毎回得点と攻め続けた。県勢最多を更新する18安打、最多タイとなる11得点の猛攻。黒土の“戦場”を駆けめぐった。県大会で打率2割1分1厘と不調だった黒羽剛広は5打数4安打2打点。「これまで支えてくれたみんなに、恩返ししたかった」と言い切る顔つきは、忠義を尽くす武士そのものだった。

 過去の夏の甲子園では、山口県勢に2連敗。横山博英部長(37)は「戊辰戦争から数え、これで1勝3敗。会津の人が喜んでくれたらうれしい」と笑った。「次も命をかけてぶつかりたい」と黒羽。勝ってカブトの緒を締めよ―。ナインはひたむきに勝ち進む。


(2007年8月13日06時01分 スポーツ報知)


小松帯刀137回忌 子孫ら参列「名を全国に」/日置 南日本新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
来年放送されるNHK大河ドラマ「篤姫」で、主要人物の1人として描かれる薩摩藩家老、小松帯刀の137回忌法要が17日、日置市日吉町吉利の静浄寺で営まれた。墓の管理などを続ける地元住民らの顕彰会(鳥浜達夫会長)が毎年開いている。今年は帯刀の子孫で日本酒メーカー「大関」(兵庫県西宮市)の橋本康男社長(61)が出席し、「ドラマに合わせ帯刀の名を全国に発信したい」と力を込めた。
 帯刀は喜入領主の肝付兼善の三男として生まれ、吉利の領主だった小松家の養子となった。墓のある園林寺は明治の廃仏棄釈で途絶え、法要のあった静浄寺が小松家の菩提(ぼだい)寺となっている。
 「大関」を経営する長部家は小松家と親類関係にあり、橋本社長は帯刀の玄孫(やしゃご)にあたる。鹿児島市にある銅像の建立などにも協力し、子会社の吹上焼酎(南さつま市)は「小松帯刀」銘柄の焼酎を販売している。
 橋本社長は、鹿児島への墓参は2回目。「地元の人々がこれほど帯刀を大事にしてくれることに感謝したい。大河ドラマで帯刀の名が全国に知られればうれしい。日本酒にも帯刀ブランドをつくり、世界にも発信したい。商才のある人だったそうなので、喜んでくれるだろう」と話した。
 法要には顕彰会メンバーら約30人が出席。「ドラマ放映を一過性のブームに終わらせることなく、帯刀の功績を伝えていこう」などと話し合った。
 小松帯刀は幕末を中心に薩長同盟や大政奉還の立役者として活躍したが、1870(明治3)年に病死したことなどから、「幻の宰相」といわれる。
南日本新聞
(07/18 07:13)

○板垣退助の初手柄、高松城の接収

2007年08月10日 | 板垣退助こぼれ話
慶応四年(1868)正月十三日高知を出た板垣退助は迅衝隊を引き連れて讃岐高松城を目指した。正確な表現で言うのなら、京を目指す途上にて高松を近くを通るというほうが正しい表現であろう。同十六日迅衝隊は川ノ江に滞陣してとき、京都より帰国の途次の土佐藩家老深尾鼎重先の家臣たちと会う。このときに迅衝隊は松山藩と高松藩の追討の命令が土佐藩に下ったことを知った。
 このために当初の目的である京への出張命令から高松城を攻略に変更になり、迅衝隊の幹部たちは協議を行われたようで、迅衝隊は進軍を一時中断してその次の日も川ノ江で滞陣した。高松城を接収するには、最悪の場合武力による交戦もありえるため、板垣退助らは迅衝隊六百人だけでは兵力が足りないのか、また兵力の質的な問題があったのか、兵力の増援を頼むべくまたも谷干城が高知へ再び戻ることになった。
 出発した直後の迅衝隊はあわてて出発したので、高松城の接収には不安があったのだろう。
  翌十七日には、迅衝隊の右半大隊長の片岡健吉を丸亀藩に差し向けて、高松藩征討の協力を要請し、迅衝隊はまた川ノ江で滞陣し続けた。迅衝隊が川ノ江で数日待機したのも、丸亀藩を通じて、高松藩との接収もしくは征討を行うために工作をしていたためと思われる。さらに次の日の十八日には迅衝隊の総督たる家老の深尾丹波を説得できた板垣退助は自ら高松藩の追討の軍令を発し、その夜に迅衝隊出発させた。翌十九日の未明鳥坂において大監察本山只一郎が、高松藩と松山藩追討の勅書を奉じて迅衝隊の陣営に届けた。姫駅まで来ると今度は樋口真吉が京より護持した錦旗を板垣らに届けられる。錦の御旗が迅衝隊の陣頭翻り全軍の士気も大い上がったところで、午後二時に丸亀に入った。
 京極家の丸亀藩の国境に来ると、待ち受けていた藩士たちが丸亀城下に案内した。片岡健吉の交渉が上手くいったのか、丸亀藩は積極的に迅衝隊に協力する意志を示してきた。迅衝隊の本陣を中村屋見附右衛門方とし、その他の兵は市中の分宿させた。 一月二十日にいよいよ、高松藩の領内に入り高松城へと進む。迅衝隊は丸亀藩の協力を得て、隊を二分し、一方は丸亀藩兵とともに陸路から、もう一方を海路から多度津藩兵の案内で高松に進軍させた。 陸路より進んだ一隊、丸亀藩兵とともに午後二時頃高松城下の岩清尾神社に布陣する。一方、海路より進んだ一隊は多度津藩の先導により調達した小舟四十艘にて高松に進み、午後四時頃には土佐藩・丸亀藩とともに城下真下寺に集結した。
夕方に、一大隊と大砲二門をもって城に迫り、常磐橋外に空砲二発打ち、小銃を空に向けて弾を残らず発砲した。 夕刻には高松城下にある松林寺に本陣を進めたときに、高松藩主松平頼聡が前日の夜までに浄願寺に退去謹慎し、城頭には降参と書かれた降服の白旗が立てられ、城門はひらかれ、藩士たちはみな脱刀して迅衝隊を迎えた。 迅衝隊は緋の菊の錦旗を高松城の表書院の上段の床の上に安置し、深尾丹波は上段に着座され、高松城内は土佐藩の封印を張られる。 あっけなく高松城の接収が完了してしまった感があるが、その高松藩では板垣退助らが来るまで非常に厳しい議論が交わされたすえ、藩の家老二名が切腹、残った家老大久保飛弾、白井石見は藩主頼聡の恭順嘆願書を提出するなど、一方的までに降参し恭順の意志を示したからである。徳川親藩の家柄である高松藩がここまで屈っしてまで恭順するには、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が一方に敗れてしまい、徳川慶喜が遁走同然に江戸に帰ってしまったことを高松藩でも知られたためとも考えられる。迅衝隊の主力が京にあっと推定すれば、戦火を交えることなく高松城を無血開城させたことは、板垣退助にとって幸運なことと言えよう。後に板垣退助は奥羽越列藩同盟の中枢である会津若松城に対しては、激しい砲火と交えた末に開城させたことを考えると対照的である。
 板垣退助はあくまで上京のうえ倒幕勢力との糾合の上、本体である旧幕府を倒すことが肝要であると痛感したのか、一部に伊予松山城の攻撃に移ることを主張する意見もあったが、板垣退助は「目標は東」と云って京を目指そうとした。こうして、高松城接収の翌日には総督深尾丹波を高松城に残して、丸亀に戻る。

 ○退助の江戸到着直後

2007年08月09日 | 板垣退助日誌
 江戸到着直後の板垣退助は東山道軍参謀として立場からか軍議に出席したり、新政府軍との要人の会談することが多かったようだ。
板垣退助は東海道総督府参謀の海江田信次と林久十朗に面会して船川本所の舟改めをするように求める。その理由が江戸近辺にて、
東海道総督府の軍の取締が緩いために旧幕府勢が銃を持ち出して、深川へ通して会津に送ろうとする動きがあるというものである。
それに関して相手にされなかったのかお茶を濁されたのか、実現していない。さらに高輪の薩摩藩邸に訪れて西郷隆盛と面会すると、
東海道総督府の軍は気が弛みを忠告する。また東海道総督府の大原重徳には、深川・本所の津口の警戒をするように談じるまでにいたる。
 板垣退助はなぜここまで無血開城が決まったのに、一人旧幕府を敵視するような強硬的な意見にこだわるのか。
実質的な土佐藩の君主の立場にあったのは前藩主山内容堂は大政奉還や鳥羽伏見の戦いの直後まで、
薩長側に対抗して政治的には旧幕府寄りと思われる活動し続けたため、新政府軍の一部にも懐疑的に見ていたものがいたかもしれない。
その山内容堂が方針を変換して鉾を治めたのは、徳川慶喜が官位剥奪が決定した慶応四年(1868)正月七日のことであることからしても、
山内容堂の旧幕府よりの動きが土佐藩全体の立場を不利にしていたと考えられる。板垣退助が山内容堂の立場慮って、
あれほど山内容堂が徳川救械を妨害した薩長側が無血開城を一方的に決めたことに、反発してあからさまに旧幕府に対して強硬的な意見を述べているかもしれない。