戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年七月二十九日 板垣退助日誌

2005年07月30日 | 板垣退助日誌
早朝、薩摩・長州藩兵は小浜から阿武隈川を渡り、供中口、高田口へと二本松城へと攻め込むが、途中阿武隈川にて
二本松藩兵の待ち伏せの砲撃を受けるもこれを一蹴し、二本松城の城下へと入り市街戦となる。
また、同じく早朝板垣退助が率いる土佐藩兵・薩摩藩兵・佐土原藩兵・彦根藩二千数百人は本宮を出て北上して二本松城を目指す。
二本松藩兵は丹羽右近隊が木村銃太郎ら少年隊などを率いて大壇口にて、板垣退助らの部隊に砲撃を浴びせる。
丹羽右近隊も勇敢に戦うも板垣退助らの圧倒的な火力の前に抗するもできず二本松の城下のほうへ退却する。
新政府軍は二方面から二本松城に部隊を殺到し、二本松の大城代内藤四郎兵衛は城に火をつけることを決断し、正午ごろには
二本松城は落城する。

慶応四年七月二十八日 板垣退助日誌

2005年07月29日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら新政府軍は中畑・須賀川にいた会津兵・仙台兵と交戦する。

中畑、須賀川にいた会津兵・仙台兵が土佐藩・彦根藩・館林藩・三春藩が交戦する。

土佐・大垣・彦根藩兵が敵を敗走させたところで、須賀川口より襲撃の敵とぶつかった館林藩兵はこらえきれず、応援を求め
彦根。土佐藩兵から各一小隊を派遣しこれを、敵を敗走させる。
敵を敗走させた後、敵が仁井田村において出没したとの報が入り、土佐藩は二小隊と彦根藩は一小隊を派遣して、小阪の険において衝突し
新政府軍は奥羽越同盟軍を破り、同盟軍は小峠を越えて敗走させる。

奥羽越列藩同盟軍は明け方に千人ばかりの兵をもって本街道・会津口・郡山口の三方より、新政府軍を攻撃する。
新政府軍はこれに応戦し本宮の陣地を出て、同盟軍を追撃する。
新政府軍の死傷者は二十名、一方仙台藩兵は戦死者四十二名、戦傷三十四名という。

慶応四年七月二十八日 板垣退助日誌

2005年07月28日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら新政府軍は中畑・須賀川にいた会津兵・仙台兵と交戦する。

中畑、須賀川にいた会津兵・仙台兵が土佐藩・彦根藩・館林藩・三春藩が交戦する。

土佐・大垣・彦根藩兵が敵を敗走させたところで、須賀川口より襲撃の敵とぶつかった館林藩兵はこらえきれず、応援を求め
彦根。土佐藩兵から各一小隊を派遣しこれを、敵を敗走させる。
敵を敗走させた後、敵が仁井田村において出没したとの報が入り、土佐藩は二小隊と彦根藩は一小隊を派遣して、小阪の険において衝突し
新政府軍は奥羽越同盟軍を破り、同盟軍は小峠を越えて敗走させる。

奥羽越列藩同盟軍は明け方に千人ばかりの兵をもって本街道・会津口・郡山口の三方より、新政府軍を攻撃する。
新政府軍はこれに応戦し本宮の陣地を出て、同盟軍を追撃する。
新政府軍の死傷者は二十名、一方仙台藩兵は戦死者四十二名、戦傷三十四名という。

慶応四年七月二十八日 三春城は無血開城される。 板垣退助日誌

2005年07月27日 | 板垣退助日誌


守山藩が降服する。

板垣退助は本宮を占領する。土佐藩に増援を求めて迅衝隊を離れていた谷干城は白河に到着する。

板垣退助ら新政府軍は高木に進み、阿武隈川を挟んで本宮の奥羽越列藩同盟軍と銃撃戦を行う。新政府軍側には河を渡ることが出来る舟がなく
土佐藩の断金隊が河の中に飛び込み、渡ろうとするが隊長が銃弾を受け戦死する。
黒羽藩の隊長渡辺福之進と益子四郎が河へ飛び込み対岸の敵舟を奪おうとするが、同盟軍をこれを邪魔をして寄せ付けず、
黒羽藩兵の砲が河岸に押し出して激しく砲火を加え、隊長の渡辺はようやく二艘の舟を手に入れ敵前渡河を決行する。
新政府軍は増援してこれを援護し、同盟軍も仙台藩兵が続々と救援を駆け付けるが、火力で勝る新政府軍が同盟軍を
け散らし、同盟軍は高倉村へ退く。
阿武隈川を渡った新政府軍は本宮を占拠し、本宮の北方の本街道を忍・黒羽・土佐藩、西の会津口には大垣藩、南の郡山口を彦根・館林藩が宿営する。

迅衝隊の大軍監谷干城はこの日新たに五小隊を率いて高知より白河に到着する。

大鳥圭介より板垣退助を苦しめた沼間慎次郎

2005年07月23日 | 管理人の勝手な独り言
沼間慎次郎が第二次今市の戦いで板垣退助らに敗れて、その配下の加藤麟三郎が捕まる。板垣退助は加藤麟三郎に尋問し、その加藤が「自分は沼間慎次郎のために戦う」
といったことから、板垣退助は敵ながら沼間慎次郎に興味をもったという。

板垣退助は大鳥圭介の死を悼んで寄稿文を送った。その中でも「大鳥はまず道を普請してから来るのでたいして怖くはないが、沼間はどこから襲ってくるのかわからないので、こちらのほうがよほど怖かった」と評したという。

明治二年、沼間が英語をおしえため塾を開いたが、それが政府転覆を図るため同士を募ると疑われて、新政府が彼を捕縛されそうになる。
このことを聞いた谷干城は、板垣退助らと相談の上、沼間を土佐藩に招聘することを決める。沼間はこの申し出に、「自分は徳川のために兵術を修めたのであって、これを敵だった貴藩に伝習するのは情において忍びない。自分の片腕である松浦巳三郎を推薦するので、彼を兵の教育にあたらせてくれ。自分は英語を教えよう」と丁重な返答をする。
そして、明治四年の廃藩置県になるまで、沼間慎次郎は土佐藩邸で英語を教えていたという。

戦場で敵として死力を尽くして戦った相手に、このような友情が生まれることもあるとは驚きである。果たして二十一世紀の戦場ではこのようなドラマがうまれようか。

沼間慎次郎  (1843~1890)

2005年07月22日 | 戊辰戦争人物小伝
父は幕臣高梨仙太夫の次男で、のちに幕臣沼間平六郎の養子になる。兄には、須藤時一郎、高梨哲四郎がいる。 兄の二人はのちに議員となる。

杉原心斉に漢学を学び、十七歳のときに長崎奉行の局員になった養父沼間平六郎についていき長崎にて二年間英語を学ぶ。また、谷田掘景蔵に測量を学び、横浜でヘボン、バラから英語を学ぶ。 その沼間慎次郎はヘボンの医学に興味を示さず、ことあるごとに西洋式の兵法についての質問をするありさまだったので、ヘボンは放逐しようとするが、ヘボン夫人が彼の才気を惜しんでそれを思いとどめさせたという。
慶応元年、横浜大田の陸軍伝習生募集に応じて伝習生となり、後江戸へ。慶応二年に「英国歩兵操典」の翻訳に携わる。

横浜外国人居留地の警備隊の洋服を調達する為に、小柄な英国軍人の古着を買い、解体して型紙を作り足袋職人に仕立てさせるエピーソドがある。
慶応四年三月七日、沼間慎次郎は幕府に献策を申し出るが、これを聞き入られずついに大鳥に先立って上仕官五名、下士官十三名、そして兄の須藤時一郎を伴い江戸脱走、会津の西郷頼母に招聘され、兵士たちの教練にあたる。

このときに、沼間慎次郎は長州の間者だと言う噂がたち、大鳥圭介らの救援に向かうため兄の須藤時一郎を人質として会津に残すことで、ようやく 同閏四月から日光の大鳥軍に参じて、大川らと共に、伝習隊第二大隊を率いる。

しかし、二回にわたる板垣退助らの今市の攻防戦で敗北し、藤原帯陣中の同六月はじめ、大鳥と議論が合わず、一党を連れて軍を去り、会津へ向かう。七月に庄内藩に招聘され酒田で農兵訓練に当たる。その後 、鶴岡城にて林正太郎と共に官軍に捕らえられ、十二に江戸へ護送される。
そこでかつての敵板垣退助や谷干城からのたっての依頼により、明治二年五月、土佐藩の教師になる。

明治四年横浜で両替商を営み、明治五年に新政府に出仕し、同四月大蔵省租税寮七等出仕、横浜税関詰。同七月司法省七等出仕、欧州へ派遣される。 六年九月帰国する。
明治六年、河野敏鎌らと自由民権運動のため結社・嚶鳴社(法律講習会)を組織する。

同七年小判事に、同八年大阪裁判所詰めになるがすぐに、辞表を出す。同八年七月元老院権大書記官に任じられるが、明治十二にまたも省の方針に反発し、辞職す。

明治十二年年十一月、東京横浜毎日新聞の社長になり、さらに東京府会議員にもなる。
明治十五年から晩年まで東京府議会議長なり、立憲改進党にも参加する。
明治二十三年五月十七日に逝去。 享年四十八。

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2005年07月19日 | 管理人の勝手な独り言
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