東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

両国広小路~その一

2011-09-11 18:27:20 | 中央区
さて、東京の町の移り変わりを考える上で、関東大震災は一つの大きなターニングポイントである。これによって失われたものの大きさは、計り知れない。江戸以来の繁華な場所で、今は全くそのイメージが湧かない場所として両国広小路を上げることが出来ると思う。靖国通りの脇に両国広小路の記念碑が建てられているのだが、その場所に建ってみてもイメージは浮かばない。


両国といえば、今日では隅田川の向こう側、両国駅の周辺を指す地名というイメージが強い。だが、元々は明暦の大火で多くの人々が逃げ場を失って命を落としたことの反省から、隅田川に橋が架けられたことに始まる地名である。その橋の名が両国橋と付けられたことで、橋の周辺をそう呼ぶようになった訳である。橋が出来た当時は、川向こうは江戸ではなく下総であった。元々は大橋と呼んだそうだが、武蔵と下総を結ぶ橋ということで、両国橋と呼ばれるようになった。そして、この橋が架かったことで、江戸の市域の拡張は川向こうへと展開することになっていった。

その橋の袂は火除け地として広場になっており、そのお陰で江戸市中でも有数の賑わう場所になっていった。露店が並び、見せ物など出て、いつも人々の集まる場であった。この両国広小路の様子は、江戸東京博物館内にもジオラマとして再現されている。


明治維新を迎え、明治8年に両国橋は木橋として最後の掛け替えが行われた。この最後の木橋の写真は残されているので、その様子を見ることが出来る。だが、この橋で明治30年8月10日に、花火の最中に欄干の崩落事故が発生し、数十名の死傷者を出すことになってしまう。この当時、花火は川開きから夏の間を通して行われており、東京市民の夏の娯楽であった。夜毎、多くの人が詰めかけ、川面を埋め尽くすほどの屋形船が集まり、両国橋の周辺は橋の上も、水面もぎっしりと人で埋め尽くされるような状況であった。
そして、江戸以来の賑わいは次第に落ち着いていったものの、両国広小路の賑わいは急に消えてなくなったわけではなかったようだ。辺りは店が並んで、勧工場などもあって、賑やかな商業地になっていったようだ。

関東大震災の火災によって、この界隈も焼け野原となり、震災復興で大幅な区画整理が行われ、さらに靖国通りに江戸通りといった幹線道路が作られて、辺りの様子は一変してしまう。現在の姿に近い町はこの時に形作られた。第二次大戦中の空襲の被害も受けており、過去に結びつくものが少ないところでもある。この両国広小路界隈の過去に現代から迫ってみようと思う。

さて、まずは基本であるところの地図から見ていこう。江戸時代の地図を見るのも面白い.都心部方面へのメインストリートは、神田川沿いの柳原通り。郡代が目立つが、これは江戸近傍の市中から出たエリア管轄の奉行所のような役所である。訴訟事を扱うので、周囲には周辺地区から出てきた訴人が宿泊する為の宿屋があったりとした。明治になっても、郡代というのはその辺りの呼び名としてずっと残っていたようで、跡地には射的屋が出来たりして郡代の矢場と呼ばれていたという。


明治中期のこの界隈については、この地で生まれ育った木村荘八が、「両国界隈」という一編に実に詳細に書き記している。当時を知る人々で記憶を辿ってまとめられた商店の配置図などもあり、そのお陰でこの辺りの様子を生き生きと思い浮かべることが出来る。明治20年の地図を参照してみよう。この時点では、両国橋はオリジナルの位置であり、明治8年に架橋された木橋である。木村荘八は『両国界隈」の中でこの木橋の欄干の様子が洋風のものであったことに触れている。そして、両国橋の全景の写真はあっても欄干の分かる写真のないこと、そして辺りの横山町となるともっと様子の分かるものが残されていかないことを書いている。日常的なものほど、残っていかないものだったりする。


ということで、何回になるのか、両国広小路の盛衰と果たしてどこにあったのかを取り上げいこうと思う。


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