詩……。
なんでこんなものを国語の授業で扱わにゃイカンのだろう……。
いや、「詩なんて学ぶネウチない」と言っているのではありませんよ。詩というのはあくまでも個人的に楽しむものであって、「学校で学ぶ対象」にはなりにくいんではないか……と思うわけで……。
「学校では教えてくれないこと」っていうのでイイんではないでしょうかね?
そういや近頃、
「学校で教えてくれないこと」という領域に学校が踏み込みすぎている
ような気がしますねー。(『総合的な学習の時間』とか、『職業体験』なんつーのはその最たる例じゃござんせんか?)
「学校で教えてくれないこと」という言葉を、「学校への非難」としか解釈できない懐の狭さによって、たとえば「保健」の授業なんかでは、
セクースの仕方
まで取り扱う始末……。
「学校で教わること」と「学校では教えてくれないこと」の二種類があるからオモシロイと思うんですけどね……。
……な~んてブツブツ言ってても、わが兵庫県では、国体開催地(なんてこと、兵庫県民以下、一般国民のほとんどは知らんでしょうが)である関係上、明日から新学期。
授業が始まってしまう
ので、グダグダと泣きごと言っててもしゃあないんです。
ということで、前向きに考えてみました。
まず、「詩」って何なのでしょうね? フツーの文章と何が違うんじゃろう?
一言で言うと、「詩」っていうのは、
(意図的かどうかに関わらぬ)ルール違反の文章
でオケ??
修辞技巧っていうのは、たいてい
通常の言語ルールからの逸脱
ですもんね。(『たいてい』としたのは、『すべて』と書く自信がないからです。)
ちょいと例をば。
>>サンドバッグに 浮かんで消える ……①
>>憎いあんちくしょうの 顔めがけ ……②
>>叩け 叩け 叩け ……③
>>おいらにゃ 獣の 血が騒ぐ ……④
>>だけど ……⑤
>>ルルルル ルルル ルルルル ……⑥
>>明日はきっと 何かある ……⑦
>>明日はどっちだ? ……⑧
これは確か寺山修司の作だったと思いますけど、フツーの日本語の文章だと思って読むと、相当ヘンですね。
①~②への流れはまあ普通。でも、そこから③への流れはチョイとヘンですな。
「叩け」って、誰に命令してるんでしょう?
まあ、このぐらいなら、
ボクシングを始めた不良少年(矢○ジョー)のトレーナー(丹○段平)が、サンドバッグを前にした少年に向かって、「ホレ、サンドバッグに憎たらしいヤツ(力○徹)の顔が浮かんで来るじゃろう? 叩け! 叩きのめすんじゃー!!!!」みたいなシチュエーション
を仮定すれば、まあクリアできますね。
ところが、そういう解釈(というより解読。 *a )も、④に突入すると成り立たなくなります。
④の「おいら」って誰???
*a のような解釈の場合、この詩の一人称人物(ってヘンな言い方ですが)はトレーナー氏。
でも、フツーに考えて「叩く=獣の血が流れる者の行為」ですから、「おいら」というのは少年でないとイカンはずです。
つまり、①~③と④とでこの詩の主体が変わっているということですね。
まあ、これも、今度は
「叩け」という命令は少年が自らに向けて発している
と取ればなんとかなります。
ところが……。
なぜに唐突に逆接???(←⑤)
なぜに唐突に「ルルルル」???(←⑥)
もはやワケがわかりませんね~!
しかも、おしまい2行!!!!!!!!
「明日は きっと 何かある」と、かなり強い確信でもって明日について推量していながら、
「明日はどっちだ?」
ですよ!?
「明日がどっちか分かりもせんのに「きっと」かよー!!!!!!!!
細かいことですけど、「明日はどっちだ?」ってのもよく分からん疑問文ですよね。
……と、ごく大雑把に見渡しただけでもツッコミどころ満載な
異常文章
なんですけど、「じゃあお前はこの詩はダメだと言うのか?」と言われたら、
「いや、これでいい。否、こうでなくちゃイカン!」
と即答します。オレッチは詩心のない男ですけども、初めてこの詩を知ったときはマジで魂が震えましたからね。
「ドヤ街の劣悪な環境から這い上がる少年」というイメージを描き出すにはこれしかない、とさえ思います。(通常の言説で不良少年の境遇を描いたとしても、「ふーん、あっそう」的な白々しいものにしかならないでしょう。)
こんなふうに、「詩」っていうのは、
「言語の通常のルール」から逸脱することによって意味を生み出すしくみ
だと言えるかもしれませんね。
じゃあ、その「ルールの逸脱」が、なぜ「意味」を生むのか。
これはもはや「解釈」の問題であって、「正しい」とか「正しくない」とかの問題じゃなくなってしまうと思うんですよねー。
さあ、そこで、「詩」について学校で教えられる領域ってどこまでなのか?
オレッチは次の2点だと思います(現時点では)。
・ 文章のどこが、どのように「通常の言語のルール」から逸脱しているかを指摘、説明すること
・ 「通常の言語のルールからの逸脱」がもたらす効果について、一般論を知り、理解すること
ひさしぶりにガチで書いたら、徐々に考えがまとまってきたような気がする……(このエントリーはひたすらまとまりのないものになってますが)。
「詩」の授業、なんとかなりそうな気がしてきました……。
なんでこんなものを国語の授業で扱わにゃイカンのだろう……。
いや、「詩なんて学ぶネウチない」と言っているのではありませんよ。詩というのはあくまでも個人的に楽しむものであって、「学校で学ぶ対象」にはなりにくいんではないか……と思うわけで……。
「学校では教えてくれないこと」っていうのでイイんではないでしょうかね?
そういや近頃、
「学校で教えてくれないこと」という領域に学校が踏み込みすぎている
ような気がしますねー。(『総合的な学習の時間』とか、『職業体験』なんつーのはその最たる例じゃござんせんか?)
「学校で教えてくれないこと」という言葉を、「学校への非難」としか解釈できない懐の狭さによって、たとえば「保健」の授業なんかでは、
セクースの仕方
まで取り扱う始末……。
「学校で教わること」と「学校では教えてくれないこと」の二種類があるからオモシロイと思うんですけどね……。
……な~んてブツブツ言ってても、わが兵庫県では、国体開催地(なんてこと、兵庫県民以下、一般国民のほとんどは知らんでしょうが)である関係上、明日から新学期。
授業が始まってしまう
ので、グダグダと泣きごと言っててもしゃあないんです。
ということで、前向きに考えてみました。
まず、「詩」って何なのでしょうね? フツーの文章と何が違うんじゃろう?
一言で言うと、「詩」っていうのは、
(意図的かどうかに関わらぬ)ルール違反の文章
でオケ??
修辞技巧っていうのは、たいてい
通常の言語ルールからの逸脱
ですもんね。(『たいてい』としたのは、『すべて』と書く自信がないからです。)
ちょいと例をば。
>>サンドバッグに 浮かんで消える ……①
>>憎いあんちくしょうの 顔めがけ ……②
>>叩け 叩け 叩け ……③
>>おいらにゃ 獣の 血が騒ぐ ……④
>>だけど ……⑤
>>ルルルル ルルル ルルルル ……⑥
>>明日はきっと 何かある ……⑦
>>明日はどっちだ? ……⑧
これは確か寺山修司の作だったと思いますけど、フツーの日本語の文章だと思って読むと、相当ヘンですね。
①~②への流れはまあ普通。でも、そこから③への流れはチョイとヘンですな。
「叩け」って、誰に命令してるんでしょう?
まあ、このぐらいなら、
ボクシングを始めた不良少年(矢○ジョー)のトレーナー(丹○段平)が、サンドバッグを前にした少年に向かって、「ホレ、サンドバッグに憎たらしいヤツ(力○徹)の顔が浮かんで来るじゃろう? 叩け! 叩きのめすんじゃー!!!!」みたいなシチュエーション
を仮定すれば、まあクリアできますね。
ところが、そういう解釈(というより解読。 *a )も、④に突入すると成り立たなくなります。
④の「おいら」って誰???
*a のような解釈の場合、この詩の一人称人物(ってヘンな言い方ですが)はトレーナー氏。
でも、フツーに考えて「叩く=獣の血が流れる者の行為」ですから、「おいら」というのは少年でないとイカンはずです。
つまり、①~③と④とでこの詩の主体が変わっているということですね。
まあ、これも、今度は
「叩け」という命令は少年が自らに向けて発している
と取ればなんとかなります。
ところが……。
なぜに唐突に逆接???(←⑤)
なぜに唐突に「ルルルル」???(←⑥)
もはやワケがわかりませんね~!
しかも、おしまい2行!!!!!!!!
「明日は きっと 何かある」と、かなり強い確信でもって明日について推量していながら、
「明日はどっちだ?」
ですよ!?
「明日がどっちか分かりもせんのに「きっと」かよー!!!!!!!!
細かいことですけど、「明日はどっちだ?」ってのもよく分からん疑問文ですよね。
……と、ごく大雑把に見渡しただけでもツッコミどころ満載な
異常文章
なんですけど、「じゃあお前はこの詩はダメだと言うのか?」と言われたら、
「いや、これでいい。否、こうでなくちゃイカン!」
と即答します。オレッチは詩心のない男ですけども、初めてこの詩を知ったときはマジで魂が震えましたからね。
「ドヤ街の劣悪な環境から這い上がる少年」というイメージを描き出すにはこれしかない、とさえ思います。(通常の言説で不良少年の境遇を描いたとしても、「ふーん、あっそう」的な白々しいものにしかならないでしょう。)
こんなふうに、「詩」っていうのは、
「言語の通常のルール」から逸脱することによって意味を生み出すしくみ
だと言えるかもしれませんね。
じゃあ、その「ルールの逸脱」が、なぜ「意味」を生むのか。
これはもはや「解釈」の問題であって、「正しい」とか「正しくない」とかの問題じゃなくなってしまうと思うんですよねー。
さあ、そこで、「詩」について学校で教えられる領域ってどこまでなのか?
オレッチは次の2点だと思います(現時点では)。
・ 文章のどこが、どのように「通常の言語のルール」から逸脱しているかを指摘、説明すること
・ 「通常の言語のルールからの逸脱」がもたらす効果について、一般論を知り、理解すること
ひさしぶりにガチで書いたら、徐々に考えがまとまってきたような気がする……(このエントリーはひたすらまとまりのないものになってますが)。
「詩」の授業、なんとかなりそうな気がしてきました……。
ま、コメントするのは久しぶりですが、いつも読んでおりましたよ。
そうそう「詩」よ、「詩」。いや普通に楽しむ分にはいいんですけどね。軟弱者の私なんか、授業で詩は、真正面から扱わないことも多いんですが。
でも最近、井辻明美(という作家さん)の文章で、「詩」は2種類あって、音楽とノイズだ、というのを読みました。
音楽、というのはハーモニーある世界観を歌い上げるもの。ノイズというのは、平らかな世界の中に違和を見つけギギッとノイズを入れるもの。
競輪王さんの「逸脱」というのがこの場合の「ノイズ」なんでしょうね。
ほかにも「言いたいことと言わないこと」、「意味極と記号極(としての言葉)」とか、なかなか示唆的な文章だったんですが。
私もちょっとは詩をまじめにやってみようかな・・と思わないこともないこともない。(弱気)
では。
私だったらめっちゃ楽しめそうな授業ですw
昔の清廉な美少年の手には詩集が一番よく似合う…などと妄想してしまう月子でした(爆
>うずまきさん
お久しぶりっす。今のところ、修辞技巧に関する説明は、
「その言葉を目立たせるため」
の一点張りで通してます。
「目立たせた結果、○○という効果がある、という説明が一般的や」
で済ませてます。
まあ、授業の中心は、詩の鑑賞文を例の方式で完成させる、という課題ですので、詩の学習というよりは、語法の学習になってますね。
>月子さん
「あしたのジョー」の詩は、授業で紹介しました。
「だけど」の次の歌詞を、さんざん勿体つけて紹介したときは、かなりウケている生徒がいましたね。
>>音楽とノイズ
このたとえには感心しました。
なるほどねー。わかりやすいたとえですな。
「詩の本質」をこんな平易な言葉で言い表せるなんて……。
曹操が喜びそうですねー。
對 酒 當 歌 ~ ♪