いっつも思うことなんですが、国語の教科書に載っている文章の採否の基準というのは何なのでしょうね?
授業する立場からすると、
いったいコレで何を教えろと?
と言いたくなるものがやたら多い。
現代文の分野なら、「逆説」やら、「近代化」みたいな、
辞書的な意味よりもその概念の持つ構造を理解することが重要な語句
について、体系的に指導できるような文章を採用してほしいと思う。
毎年毎年、教科書会社は改訂版の教科書見本を持って売り込みに来るんだけど、ハッキリ言ってどれもこれもドングリの背比べでしかない。
「逆説」やら、「近代化」やら、「帰納・演繹」やら、「合理主義」やら、「絶対・相対」やら、そういったモロモロの概念について体系的に学べるんなら、収録されている文章なんか定番のモノでいいし、むしろその方が教える側も学ぶ側も余計な混乱がなくていい。
国語の教科書で多いパターンは、
「チョットいい話」的なエッセイ
とか、
「ジーンとくる」短編小説
みたいなヤツがやたら多いこと。
もちろん、オレッチはそういった作品の価値を認める者だ。
でもね、
国語の教科書に文学的価値なんていらない!
んですよ。
有名な和歌に、
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
ってのがある。
これは、技巧ばっかりこらして、文学的な価値は低いらしい。
でもいいのよ。国語の教科書としては。
だって、たったの一首の和歌で、「枕詞」、「序詞」、「掛詞」、「縁語」、も一つついでに「折句」なんてマニアックなものまで、
一挙に五つもの修辞技巧が学べる
んですから。
小説や詩歌なら、「鑑賞技法」がシロートにも簡単に学べるような
典型的なヤツ
だけ載せてほしい。たとえそれが
今となっては紋切り型でツマラナイ
ものであってもいい。
たとえば、絵画の「鑑賞技法」について解説した本なら、どんな本でも例として挙げられているのはいつも決まりきった「名画」だったりする(レオナルドの『モナ・リザ』とか、レンブラントの『夜警』とか)。
「教科書」ならそれでいいんじゃないのか?
どうして、「国語の教科書」に
新鮮な感動
なんぞを求めるのか?
書物から感動を得たければ、本屋とか図書館に行って自分好みのヤツを探せばいい。
もし、オレッチが生徒なら、
国語の教室で感動したいなんて思わない。
だって、感動するのって
結構ハズカシイこと
じゃないですか?
すくなくとも、生身のオレッチは、人前に
自分が何かに感動している姿
を晒したくはない。
……ちょっとまとまりがつかなくなってきましたけど、
国語の教科書は定番の教材のみであってほしい
ということ。
「指導事項をハッキリさせる」ということも教科書の役割の一つだと思う。
ま、「学習指導要領」なんつーのもありますけど、あれを読んで
指導事項がハッキリしたぜ! 万歳!!!!!!!!
なんて言ってる国語教師が、果たして全国に何人おりますことやら……。
http://www.mext.go.jp/b_menu//shingi/chukyo/chukyo3/siryo/011/04071401/005/003.htm
教材の選定の観点と、指導事項とでは、考えている人が同一ではないのかもしれませんね。
「人間性を豊かにする」
とか、そんなこと、いち教師に過ぎないあたくしどもに期待すること自体が間違っていると思います。
「教師は学問を教える専門職たるべきで、それ以上でもそれ以下でもない(大意)」という呉智英氏の指摘のとおりだと思います。
「人間性~」云々はあくまでプラスαである、という共通理解が世間にあればいいんですけどね……。
このたびは貴重なコメントをいただきまして、ありがとうございました!
さきほど返信させていただきました。ずいぶん遅くなってしまったことを申し訳なく思っております。