歌手の前川清さんが、数年前に北海道の病院で人工関節に置き返たことは、
古くから股関節症を患っている方々には、広く周知の事実ですが…
たぶん 最近の方々は、知らない方々も多いと思います。
たまたま見た、Yahooニュースからとんで
読売オンラインニュースで見つけましたので ご紹介します。
[歌手 前川清さん]股関節症(1)小3で右足痛
1年入院
「でも、もしあの病気がなければ、たぶん違った人生を歩んでいたと思う」
海軍の街として栄えた長崎県佐世保市に、4人兄弟の末っ子として生まれた。駆けっこが得意で、
小学2年生の時には6年生より速かったという。
だが、3年生になると、右足が付け根から痛くなり、歩けなくなった。元気だった少年は1年も入院した。
「右足にギプスを巻いて、ペニシリンを毎日注射された。それでも痛みは治まらず、右足を切断する、
という話も耳にしました」。病名もよくわからなかった。
退院後は元看護師の母親におんぶしてもらって通学した。「落第しそうになったけれど、
母が懸命に先生に頼んでくれたんです」
9歳違いのやさしい兄がいた。帽子を買えなかったためか、小学6年生で日射病のため若死にしている。
だから両親は、兄の分もかわいがってくれた。その子を襲った突然の病気に、家族は心を砕いていた。
2014年2月20日
[歌手 前川清さん]股関節症(2)
痛み治まり音楽の道へ
右足の付け根の痛みは、小学校の高学年になると一時治まった。スポーツが好きで、
中学と高校では野球部に所属。長身だったので投手だった。
「でも、右足の方が細くて弱い。やはり本物の投手になるには、きつかった」
勉強がいやになり、親に内緒で高校を中退した。弁当を作ってくれる母に申し訳なくて、
しばらくは山で食べていた。しかし、何日かして両親に知られてしまった。
「おやじの寂しそうな顔が今も忘れられない」
両親が仕事の都合で長崎を出ることになったが、一人残った。食べていくためにと思い立ったのが、
音楽の道だった。地元佐世保の米軍基地から流れてくるジャズやエレキギターに、若い血が騒いだ。
ギターに挑戦したものの、弦を押さえる手の指先が痛くてあきらめた。
楽器がだめで、行き着いたのが歌い手。佐世保の夜の街で歌手のアルバイトを始めた。
報酬は、カレーライスの食べ放題で十分だった。
その頃、長崎で音楽に興味を持っている人たちのあこがれだったのが
「内山田洋とクール・ファイブ」。正式な歌い手がいなかったので、頭角を現してきた、
まだ20歳前の若い歌手が誘われた。
「初めは楽器持ちのバンドボーイ。時たま歌うチャンスが与えられると、
うれしかった。あの頃は、足の痛みも不思議となかった」
加入した「内山田洋とクール・ファイブ」が、
1969年(昭和44年)にプロとしてデビューした。まだ20歳。それまで長崎から出たことがなかった。
「地元で十分に食べていけた。だから、全国ヒットの欲はなく、怖そうな東京に行くのはいやでした」
だが、大手プロダクションに移籍し、昼の人気テレビ番組に連日出演すると、
たちまち売れ出した。その年のレコード大賞新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場。
それから毎年のようにヒットを飛ばした。
人気絶頂の「演歌の星」藤圭子さんと71年に結婚。しかし、1年で破局した。
「お互い、まだ若くて、歌手だから、夫婦らしいことができなかった……」
1か月の舞台公演も行うようになった30歳頃、また右足の痛みが始まった。
マイクを持って一本立ちの歌のステージとは違う、立ち回りが原因らしい。
「医者から足の手術を勧められたが、決心がつかなかった」。
病名は「変形性股関節症」。上半身と下半身の継ぎ目で、足の付け根にある股関節。
ここの軟骨がすり減ったり、骨の変形のため痛みが出てくる。小児期に股関節の治療を受けた人に多い。
断続的な痛みで、眠れない日もあった。50歳を前に再び手術を検討したが、
グループから独立してソロ活動をしており、仕事への影響を考え、また見送った。
芸能生活40年の記念公演が予定された2008年、ついに決断した。
50年来の“付き合い”で「いつか治さなきゃ」と思いながら、延ばしてきた右足の股関節手術。
「激しい動きのある舞台は、痛みを抱えたままでは乗り切れない。
途中降板でもしたら迷惑をかける」と考えたからだ。
手術では右足の付け根周辺の骨を削り、チタンの人工股関節を埋め込んだ。
1メートル77の長身だが、実は痛い右足が左足より3センチ短かった。
そこで、両足の長さがそろうように、人工股関節で右足を伸ばす調節も行った。
小さな丸い痕がわずかに三つしか残らない、見事な手術だった。
半世紀も悩まされた痛みは、うそのように消えた。
長年の平衡感覚が崩れたため、「初めはロボットが歩いているようでした」。
鏡を見ると、以前は少し傾いていた。
「今度は両肩の位置もそろって、傾きがなくなったように見えますが、
逆に、自分では傾いているような感じがしました」。慣れるのに時間がかかった。
自分の歌謡ショーでは、ステージから降りて観客の間を回る。
「僕の歌で一人でも元気になってくれれば、それで満足です」。
長崎時代に全国進出をためらったように、大きな欲を持たない姿勢は今も変わらない。
(文・斉藤勝久、写真・加藤祐治)
私は、前川さんが手術をなさったことで、始めて 股関節症のことを
そのころ知りました。
まったく 人目にはわからなかった プロの努力を痛みを(我慢しながらの)ご苦労を
思いました。
これからも頑張って活躍していただきたいですね!!
『変形性股関節症に負けないでね!』