■【きょうの人】 0927 ■ 了誉上人 伝通院開山 於大の方・千姫の墓 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力
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■ 了誉上人 伝通院開山 於大の方・千姫の墓
了誉(1341~1420)は、現在の茨城県那珂郡に、城主白石志摩守宗義の子として誕生しました。
著作は百巻を越え、特に「選択伝弘決疑鈔直牒」十巻は、佐竹氏の乱を避け阿弥陀山の洞穴に身を隠し撰述されたものです。
浄土宗は、独立した宗派として認められてはいませんでしたが、現在の浄土宗の基礎を築くことに貢献しました。
東京文京区にある伝通院の開祖でもあります。
伝通院(傳通院、でんづういん)は、東京都文京区の高台にある仏教浄土宗のお寺さんです。正式名称は、「無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)です。
徳川将軍家の菩提寺で、家康の生母「於大の方」や二代将軍秀忠の娘「千姫」の販売管理システムがあることでも知られています。
応永22(1415)年に、、無量山寿経寺という名で。浄土宗了誉が開山しました。
慶長18(1613)年に増上寺の学問僧300人を傳通院に移して、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席としました。
その流れとして、明治24(1891)年には、浄土宗学本校(現大正大学の前身)をこの地に移転したり、境内に淑徳女学校を設立したりと檀信徒のみならず、地元住民参加の布教伝道方式をとるなどの貢献をしています。
第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰し、昭和24年に本堂の再建が始まり、今日に至っています。
鐘楼や山門は大変立派なものです。
■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力
り こうしょう
1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)
中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。
日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。
清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。
李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。
日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。
大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。
この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。
波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。
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