最近、というか2年位前から就職支援のための講演依頼が増えている。
以前は、社会人1年生や、初任者研修だったが、最近は大学生、高校生と低年齢化してきた。
そんな講演のアンケートの幾つかを、この休みを利用して再度読みかえしたりしていて、ふっとこれでいいのだろうか・・・と思い、なんとも落ち着かなくなってしまった。
アンケートはどれも「良い」「非常によい」が圧倒的に多く、不満を感じているらしいものはちらほら。
よめば、不満の理由は良くわかる。
でもね、ほんの1時間の講演で、しかも100人以上を相手にして、そこまで求められても、無理なのね。
でもまぁ、それはいい。
NOという発言を、明確な理由を述べて出来るということは、よいことだと思うから。
新入社員への講演は、ある程度目的もはっきりしていて求められる内容も組み立てやすい。
大学生向けの話も、就職セミナーなどでかなり情報を入手しているので結構自信がある。
いや、あった・・・というべきだろう・・・・・・・
ところが、最近、この手の講演が相当嫌になっている。
就職セミナーなどに参加するのに、平気で遅れてくる。やる気のない態度、男子学生なんぞ、テーブルでもあれば突っ伏して寝る。女子大生でも、正面向いたまま大口を開けて平気であくびする。
な、な、なんじゃコレハ・・・
高校生など、60分の講演が難しく、先生たちがハラハラしている。45分授業という慣性の法則がしみついているのか、60分も人の話が聞けないというのだ。
相当の難関を経てきたと思われる新社会人の研修でも、一見まじめに聞いているようだが、脳の活動はほとんど停止状態に近いのがわかる。
それで、途中で極簡単な質問なんぞしてみると、にわかにあせりの色が見え、全体がざわめく。
質問は、小学校で聞いても簡単に答えられるようなものだ。
それでも「あっ、す、すみません、質問をもう一度・・・・」っと聞き返すので、私は意地悪に、「えっ?簡単なことだと思うんですが・・・」といってしまう。
でも、もう一度、と質問する力がある人は、合格!
下手すると「なんだよ急に質問なんか振りやがって・・・」と恨まれたりしてしまいます。
要するに、聞いてはいるが聴いてない。
(この違い、小学生のための辞書で調べて欲しいね。)
録音機能で言うと、インプット、つまり録音ボタンは押している状態。
しかし、それだけでは機械のしごと、人間ではありませんね。つまり、考えるという無意識脳の働きが行われてはいないのです。
覚えていますが「人間は考える葦である」。話しての言葉に反応して、自分の体験や考え、加かこの記憶などを結びつけて、情報として結び付けていくのが、人間なのです。
今や、これが、まったく出来ていない人がほとんどです。
そのくせ、レジュメの一部や話のポイント、ポイントの言葉をうまく操って、一見それなりにみえそうな感想文を書いてよこす。でも、まとめて読んでいると、ほとんどの感想表現が、例えばの例のあげ方まで、人は違えど表現は同じなんて・・・おかしい、気持ち悪い。
すごくよかった、大変役に立つ・・・などを並べたら、先生や学校は喜ぶだろう。
こんなアンケートは、全く信用できない。
それから、ほとんどの場合質問がない。
これ、ちょっと前に話題になった「質問力」 の課題です。
だから、本来は自然に身につくはずだったコミュニケーション能力が、社会的な環境変化や、学習手法の過ちから育てられなくなってしまっているようなのだ。だからこそ、そういう研修を基礎から、やちんと学ぶ機会を提供したいと、ますます思うようになっているのです、最近。
まずは自己紹介。
マニュアルどおりのやり方しかしらない者には様々な発見がある。
本を読むだけ、マネをするだけとは違う、ほんとうにオリジナリテイーのある自己紹介。
これこそが、コミュニケーションの基本だからだ。
自分のことを相手に適度に紹介し、自分と相手の共通点を発見して共感を導き出すか、相手のことを観察しながら、自分の中にある複数の話題の中から、相手との会話が継続できそうなものを選び出して、質問や提案でスタートする。
そうしてあるていどの時間をかけて、互いの違いを発見し、それについて再び質問や提案をして、互いが認め合うより良い関係を構築する。
そういうやりとりの途中で、寝てしまったり、大あくびなどしようものなら、完全にコミュニケーションは破綻するということくらい、わかるだろう。
生まれた時から、コミュニケーションを多くの若者が学べないまま、あるいは知ることがないまま、多くの学ぶ機会を無駄に過ごしている。
彼らに怒りを感じているのではないのです。
大人である、私たちのふがいなさに愕然とするのです。
あまりにかわいそう過ぎて、このままでいいのか!と・・・・
大人も、「日本も終わりよ」なんて、そんな軽い一言でかたづけてしまっていいの?
自分たちは、それなりに楽しく豊かに暮らせて、先に死んでしまうから、後は荒野でも、汚染地帯でもかまわないの?
そんなことを、考えてしまった、連休3日目でした。
最期にもう一度、4月29日のブログで紹介した大崎教育長のエッセイにあった言葉を・・・・
『(略)ただひとつ、間違いなく言えることがある。今問われているのは、子ども達の問題でなく、実はぼく達大人の生き方の問題であること。そして、希望の少ない時代なればこそ、ぼく達は子どもという希望を見失ってはならないということ。(略)』(とさのきょういく 2000年7月 NO.19掲載)
以前は、社会人1年生や、初任者研修だったが、最近は大学生、高校生と低年齢化してきた。
そんな講演のアンケートの幾つかを、この休みを利用して再度読みかえしたりしていて、ふっとこれでいいのだろうか・・・と思い、なんとも落ち着かなくなってしまった。
アンケートはどれも「良い」「非常によい」が圧倒的に多く、不満を感じているらしいものはちらほら。
よめば、不満の理由は良くわかる。
でもね、ほんの1時間の講演で、しかも100人以上を相手にして、そこまで求められても、無理なのね。
でもまぁ、それはいい。
NOという発言を、明確な理由を述べて出来るということは、よいことだと思うから。
新入社員への講演は、ある程度目的もはっきりしていて求められる内容も組み立てやすい。
大学生向けの話も、就職セミナーなどでかなり情報を入手しているので結構自信がある。
いや、あった・・・というべきだろう・・・・・・・
ところが、最近、この手の講演が相当嫌になっている。
就職セミナーなどに参加するのに、平気で遅れてくる。やる気のない態度、男子学生なんぞ、テーブルでもあれば突っ伏して寝る。女子大生でも、正面向いたまま大口を開けて平気であくびする。
な、な、なんじゃコレハ・・・
高校生など、60分の講演が難しく、先生たちがハラハラしている。45分授業という慣性の法則がしみついているのか、60分も人の話が聞けないというのだ。
相当の難関を経てきたと思われる新社会人の研修でも、一見まじめに聞いているようだが、脳の活動はほとんど停止状態に近いのがわかる。
それで、途中で極簡単な質問なんぞしてみると、にわかにあせりの色が見え、全体がざわめく。
質問は、小学校で聞いても簡単に答えられるようなものだ。
それでも「あっ、す、すみません、質問をもう一度・・・・」っと聞き返すので、私は意地悪に、「えっ?簡単なことだと思うんですが・・・」といってしまう。
でも、もう一度、と質問する力がある人は、合格!
下手すると「なんだよ急に質問なんか振りやがって・・・」と恨まれたりしてしまいます。
要するに、聞いてはいるが聴いてない。
(この違い、小学生のための辞書で調べて欲しいね。)
録音機能で言うと、インプット、つまり録音ボタンは押している状態。
しかし、それだけでは機械のしごと、人間ではありませんね。つまり、考えるという無意識脳の働きが行われてはいないのです。
覚えていますが「人間は考える葦である」。話しての言葉に反応して、自分の体験や考え、加かこの記憶などを結びつけて、情報として結び付けていくのが、人間なのです。
今や、これが、まったく出来ていない人がほとんどです。
そのくせ、レジュメの一部や話のポイント、ポイントの言葉をうまく操って、一見それなりにみえそうな感想文を書いてよこす。でも、まとめて読んでいると、ほとんどの感想表現が、例えばの例のあげ方まで、人は違えど表現は同じなんて・・・おかしい、気持ち悪い。
すごくよかった、大変役に立つ・・・などを並べたら、先生や学校は喜ぶだろう。
こんなアンケートは、全く信用できない。
それから、ほとんどの場合質問がない。
これ、ちょっと前に話題になった「質問力」 の課題です。
だから、本来は自然に身につくはずだったコミュニケーション能力が、社会的な環境変化や、学習手法の過ちから育てられなくなってしまっているようなのだ。だからこそ、そういう研修を基礎から、やちんと学ぶ機会を提供したいと、ますます思うようになっているのです、最近。
まずは自己紹介。
マニュアルどおりのやり方しかしらない者には様々な発見がある。
本を読むだけ、マネをするだけとは違う、ほんとうにオリジナリテイーのある自己紹介。
これこそが、コミュニケーションの基本だからだ。
自分のことを相手に適度に紹介し、自分と相手の共通点を発見して共感を導き出すか、相手のことを観察しながら、自分の中にある複数の話題の中から、相手との会話が継続できそうなものを選び出して、質問や提案でスタートする。
そうしてあるていどの時間をかけて、互いの違いを発見し、それについて再び質問や提案をして、互いが認め合うより良い関係を構築する。
そういうやりとりの途中で、寝てしまったり、大あくびなどしようものなら、完全にコミュニケーションは破綻するということくらい、わかるだろう。
生まれた時から、コミュニケーションを多くの若者が学べないまま、あるいは知ることがないまま、多くの学ぶ機会を無駄に過ごしている。
彼らに怒りを感じているのではないのです。
大人である、私たちのふがいなさに愕然とするのです。
あまりにかわいそう過ぎて、このままでいいのか!と・・・・
大人も、「日本も終わりよ」なんて、そんな軽い一言でかたづけてしまっていいの?
自分たちは、それなりに楽しく豊かに暮らせて、先に死んでしまうから、後は荒野でも、汚染地帯でもかまわないの?
そんなことを、考えてしまった、連休3日目でした。
最期にもう一度、4月29日のブログで紹介した大崎教育長のエッセイにあった言葉を・・・・
『(略)ただひとつ、間違いなく言えることがある。今問われているのは、子ども達の問題でなく、実はぼく達大人の生き方の問題であること。そして、希望の少ない時代なればこそ、ぼく達は子どもという希望を見失ってはならないということ。(略)』(とさのきょういく 2000年7月 NO.19掲載)
確かに今の若い子達のコミュニケーション力の低さは目を覆うばかりだけれど、だからこそ私たち大人が、何らかのヘルプをしてあげるべきなのでは…と思います。
もっと魅力的な教え方はないのか?
いつも自問自答しながら、能力のない自分がはがゆい思いです。
でも、ささやかな1歩でも、きっと無意味ではないと信じつつ、一緒に勉強していきたいと思っています。
「質問力」の本を買ったのですが、この連休、いまだに読めていません…。とほほ。