夜勤での仮眠は、あるプレッシャー状態のなかにある、ゆえに、いろいろな思い出がよみがえってくる。
死んだ妹のこととか、過去の対話となるべよ、とほほ。
NHK教育TV深夜、この国のカタチ2014、ニッポンのジレンマ、放映されたそうだべよね、
どんな具合だったんべかよね、この国のカタチといえば、司馬遼太郎だけんね。
1970年以後に生まれた敗戦後を知らない子供たちが、司馬遼太郎と対話した番組だったんべか、とほほ。
敗戦後の日本は満洲が憑依して、日本は満州国へと変貌していったとおらは主張しているんですけんど
人は馬鹿丸出しと笑っているべよね、とほほ。
<天魔その身に入る池田大作>という言葉がいま流行しているよね。
総体革命の池田大作の兵士はいま、警視庁に2000名以上、検察官も多数、悪徳弁護士も多数、裁判所にも多数。法務省にも多数。
すごすぎ過激で、いまや、法曹界は<天魔その身に入る池田大作>になってしまったぺよ、とほほ。
池田大作こそ日本が満州国へと変貌していった象徴だよね、とほほ。
国連軍主力アメリカによる占領は、日本の上部構造によって、都合がよかったんだよね。
中国戦線や南方戦線から兵士が日本列島に帰還して、大本営参謀の責任をば追求するかんね。
その責任追求は、中国の文化大革命よりも、すごすぎ過激になり、大本営参謀たちは、弾劾され、つるしあげ、ひきまわされたと思うよ。
アメリカ軍の占領のおかげで、戦争指導主体の大本営参謀たちは助かったんだよね。
責任追求されず特高警察の東京地検特捜部や最高裁判所事務総局は生き残り、アメリカの謀略に進んで手を汚し
風吹かしのシナリオライター脚本家、脚色、劇作家となり、史上最大の裏金どすけべとして権力を誇っているんだよね、とほほ。
日本軍を打ち破った国連憲章には敵国条項が今でもあるよね。
<もし日本およびドイツが、再び侵略的な行動を見せたとき、あるいは第2次世界大戦で出来た国際秩序を毀損する行為に
出たときには、国連加盟国は、安保理の決議や承認がなくても、自国の判断で、日本またはドイツに対して軍事的制裁ができる>
太子党ドブネズミ安倍晋三は、2020東京オリンピックまでに日本国憲法を、国民主権から戦争ができる国家主権に変えると宣言。
日本国憲法を変えるより、国連憲章の敵国条項を撤廃するのが先だんべよね、とほほ。
戦争指導主体は厳冬の山岳、雪中行軍で鍛えられるんだけど、大本営参謀たちは、
八甲田山で遭難し、兵士たちを殺してしまったんだよね、復讐の女神たる雪の女王に連れ去られ、
いまだ氷に閉じ込められているんだよね。
シベリア侵略戦争を計画している太子党ドブネズミ安倍晋三はすでに遭難してっぺね、とほほ。
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日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦した。そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。日本陸軍にとって冬季訓練は緊急の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊38名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。
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文化大革命を経験した中国民衆と、アメリカ様のおかげで文化大革命を経験しなかった日本民衆、
いったい、どっちが強いんだべよね、とほほ。
正月だ。すき家で330円の鮭朝食を食べた。うまかった。
すかす、和歌山のジャガイモ竹中平蔵のしたたかさは、すごすぎ過激だよね、とほほ。利権まるだしだよね。
竹中平蔵はおのれの利権と既得権維持拡張しか、思考していないよね、とほほ。すごい大本営参謀だんべよ。
秘密結社ダボスとして新春早々からNHK様に出て、グローバルに乗り遅れてしまうと、危機感を煽っていたらしいよね、とほほ。
国連憲章の敵国条項指定席の光栄ある偉大なる靖国の日本、国際社会に突撃、グローバルに突撃。
すかす、国際社会もグローバルも、小便臭い、とほほ。
やっぱあれだんべか、やっぱ太子党ドブネズミ安倍晋三は、国連を脱退するんだべか、とほほ。
裏金にまみれた外務省は、なにをするかわからいがんね、危険だよね、とほほ。
明日のことはわからないよね、とほほ。
動物的生命力で厳冬を生存していくべよ、体温が下がったら、風邪ひくだよ、体温防衛。
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『隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通。
後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝と霊帝の間(146-189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。弟がいて、卑彌呼の国政を補佐した。その王には侍婢が千人、その顔を見た者は極めて少なく、ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。その王の宮室や楼観、城柵には皆、兵が持して守衛しており、法は甚だ厳しい。魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、漆其上、繁之於腳。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。
その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足である。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。
至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○。攕竹為梳、編草為薦。雜皮為表、縁以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧、漆皮為甲、骨為矢鏑。雖有兵、無征戰。其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬。
隋に至り、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以て冠と為し、模様を彫った金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆(ちんせん)がある。攕竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある毛皮で縁取る。
弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。その王の朝会では、必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十万ほどか。
其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。
そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷となす。その余は軽重によって、あるいは流刑、あるいは杖刑。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざる者は、木で膝を圧迫、あるいは強弓を張り、弦でその項を撃つ。あるいは沸騰した湯の中に小石を置き、競いあう者もこれを探させる、理由は正直ではない者は手が爛れるのだという。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直ではない者は手を刺されるのだという。
人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。
人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛がある。男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相者即為婚。婦入夫家、必先跨犬〔2〕、乃與夫相見。婦人不淫妒。
毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。
俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。
死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
倭王遣小阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、大、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
倭王は小の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、曰く「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。
裴世清が答えて曰く「皇帝のは併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。
既に裴世清は引き上げて館に就く。その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。
ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。この後、遂に途絶えた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
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