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タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった[3]。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた[4]。
小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立した[5]。タイ語のアルファベットであるタイ文字が完成したのは、3代目ラームカムヘーン大王の時代であると言われている[6]。
王朝の変遷
その後、アユタヤー王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した[7]。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、1782年に首都をトンブリーからバンコクに移したため、バンコク王朝とも呼ばれ、また、バンコクの非常に長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる[8][9]。
近代化
ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進[10]、仏教の改革[11]などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。それまでは多様な生産であったが、商品としてのコメ、錫、チーク、ゴムなどが輸出されるようになり、モノカルチャー経済に移っていった[12]。当時周辺地域の大半は欧米の植民地・保護領であったが、タイは国土の一部を割譲したこともあり、植民地化を免れた。
ラーマ5世[13](チュラーロンコーン)は、1873年国政改革に着手し、1892年4月1日12省からなる近代的統治組織を創設した。国王が立法、行政、司法の三権を掌握する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放(1874年)など、タイの近代化をすすめるチャクリー改革を行った[10]。
ラーマ6世[14](ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じはじめ[15]、1912年3月初め、立憲制・共和政を望む青年将校らによるクーデター計画が発覚した[16]。
ラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)が即位したあと、1932年にはプリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)[17]。
第二次世界大戦
1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約をヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると、日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った[18]。タイは東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた[19]。こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた[20]。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、現国王ラーマ9世が即位した。
経済成長
第二次世界大戦後の東西冷戦期は、ベトナムやカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされた[21]ものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた[22]。
また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。
なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命が発生したものの、プミポン国王の仲裁により収まった[23]。
現在
1997年に始まったアジア通貨危機により経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、中国系企業の進出も増え、現在では再び高い経済成長率を維持しており[24]、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けていた[25]。しかし、2006年頃からのタクシン派と反タクシン派との政治的内紛が、2014年現在も続いている。
2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止された。クーデターは国王の介入により収拾され、軍事政権が発足した。同年暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが暫定首相に着任した。
2007年には2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月に下院選挙。2008年1月には選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン系の文民のサマック・スントラウェートが首相に就任した。サマック首相はテレビ出演を巡るスキャンダルで辞任。2008年3月に上院選挙が行われている。 2008年10月にタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、憲法裁判所から選挙違反のため解党命令が出され失職。2008年12月には民主党のアピシット・ウェーチャチーワが首相となる。
2013年タイ反政府デモが起きた。
2006年のクーデター以降は、国民の間でタクシン派の反独裁民主戦線(UDD)と反タクシン派の民主市民連合(PAD)が鋭く対立しており、双方が過去に何度も反政府運動を行って時の政権を混乱に追い込むなど、タイの政治は極めて不安定な情勢にある。UDDとPADは反政府デモを繰り返したが、2011年の総選挙でタクシン派のタイ貢献党(新党プアタイ)政権が誕生し、同党のインラック・シナワトラが首相になると、これを機に両者の活動は一時沈静化した。しかし、2012年以降は不敬罪の廃止や恩赦法案の議会提出、有罪判決が出され海外逃亡(亡命)中で、インラック首相の兄でもあるタクシン・チナワット元首相の処遇を巡って、予断を許さない状況が続いている。
タイにおいては政変が多く、軍事クーデターも頻発している。また、バンコク首都圏のデモ活動に対する非常事態令の頻発発令や、タイ南部のゴム農園業者のゴム買い取り価格への不満、同地域のイスラム教反政府組織に対する抗争と、マレーシアに続く鉄道線路の破壊、カンボジアの世界遺産であるプレアビヒア寺院周辺の国境線問題に於いて、カンボジアとの両軍同士の睨み合いによるタイとカンボジアの国境紛争が続いている状況のため、日本国外務省は、バンコクには注意喚起情報を、前述当該地域(ナラティワート県・ヤラー県・パッタニー県・ソンクラー県・シーサケート県)において、「渡航の是非を検討して下さい」旨の、危険情報を出し続けている。また、在タイ日本国大使館は、反独裁民主戦線・民主市民連合の一員と誤解され、トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、双方のイメージカラーである赤色・黄色の衣服を身に着けない様、注意喚起を行っている。
王室
詳細は「チャクリー王朝」を参照
立憲君主制
1946年6月9日朝、ラーマ8世はボーロマピマーン宮殿の自身の寝室で、額から後頭部にかけて銃弾が貫通する形で死亡。傍らには自動拳銃(M1911A1)が落ちていた。第一発見者のチット侍従の証言を要約すれば、「午前9時20分頃、チット、ブット両侍従がラーマ8世の寝室の前に控えていたところ、中から銃声が聞こえた。チット侍従が中に入ってみるとラーマ8世がベッドの上で頭から血を流していた」とのことである。立憲君主制のもと平時は国王は象徴的な存在である。しかし、政治的な危機にあたってはしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。近年においても1992年に発生した5月流血革命の際にプーミポン国王が仲裁に入った他、2006年の政治危機でもタクシン首相の進退問題に直接介入するなど、国王の政治や国軍への影響力は極めて大きい。
国王の人気
伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられているが、国王や王妃の誕生日には国中が誕生日を祝うお祭り状態となる。また、国王や王妃の誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られる。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られている。映画館では本編上映の前に『国王賛歌』と共に国王の映像が流され、その間観客は起立し敬意を表すのが慣わしとなっている。現代でも不敬罪が存在する数少ない君主国であり、最近も国王を侮辱する画像が掲載されたことを理由にYouTubeへの閲覧アクセスが長期にわたり遮断された。
特に現国王であるラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)は、その人柄と高い見識から国民の人気が非常に高い[26]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD
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舛添要三は東南アジアのバンコクからウクライナのキエフに飛び火した現象は、1989年、北京街頭から東欧世界に飛び火したときと同じだっぺと
妄想していた。首都制圧に身体が躍動するのは、いつも西欧近代主義者たる都市棲息動物たちだった、とほほ。
それが混○○だった。
西欧近代主義者たる都市生活様式の動物たちは混迷に突入していた。
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ウクライナの反政権デモ
ウクライナのヤヌコビッチ政権が昨年11月、欧州連合(EU)との関係を強化する連合協定を締結の直前に棚上げし、これに反発した野党勢力を中心に首都キエフでデモが始まった。デモ隊はキエフ中心部の独立広場や市庁舎を占拠し、欧州統合路線への回帰と2015年に予定される大統領選の前倒しを求めた。デモは地方都市にも波及、治安部隊との衝突も起き死傷者が出た。歴史・経済的に結び付きが強い隣国ロシアとの関係を重視する政権側の与党勢力もデモを実施しており、国論を二分している。
(2014年2月23日掲載)
ウクライナ政権崩壊か 野党勢力が中枢掌握 大統領首都離れる 辞任否定
【キエフ共同】反政権デモを続けていたウクライナの野党勢力は22日、首都キエフの大統領府や最高会議(議会)の庁舎など政権中枢を掌握した。ヤヌコビッチ大統領は東部ハリコフに移動。議会は大統領の解任を決議した。政権は崩壊状態に陥り、ウクライナ情勢は重大な局面を迎えた。
ヤヌコビッチ氏は22日、ハリコフで地元テレビに出演し、野党側の権力奪取の試みは「クーデター」だと非難。「私は辞めない」と述べ、辞任を否定した。東部はヤヌコビッチ氏や与党地域党の支持基盤で、ロシア系住民が多い。
議会は大統領選を5月25日に繰り上げ実施することも決めた。解任決議は大統領の職務不履行を理由としている。
軍は「国内の紛争には関与しない」と中立を表明。キエフの官庁周辺からは治安部隊が姿を消し、掌握に伴う衝突や略奪は見られなかった。
一方、ロシア通信によると、ヤヌコビッチ氏の政敵で、「政治的裁判」により収監されていたティモシェンコ元首相が22日、釈放された。
ヤヌコビッチ氏と野党3党の代表は21日、流血を伴った政治危機を解決するため、来年初めに見込まれていた大統領選の前倒しや憲法改正による大統領権限の縮小で合意していた。
議会では地域党のルイバク議長が22日、病気を理由に辞任した。治安部隊とデモ隊の衝突で多数の犠牲者が出て反政権感情が強まる中、地域党では議員の離党が相次ぎ、ヤヌコビッチ氏の求心力は急速に低下した。
議会は新議長にティモシェンコ氏に近いトゥルチノフ氏を選出したほか、ザハルチェンコ内相代行に代えてアバコフ氏を新たな内相代行に任命。同氏は配下の治安組織が「デモ隊側に付く」と言明した。
ロシア通信によると、議会は、軍や情報機関を掌握するために、国防省、保安局、検察庁をそれぞれ統括する3人の全権委員を任命した。
ロシア通信によると、東部、南部の地方議会代表は22日、中央の議会の決定について、合法性に疑問があるとの決議を採択、対抗姿勢を鮮明にした。
http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/word/7596/10279
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【キエフ共同】ウクライナ大統領を務めたヤヌコビッチ氏が、政変で首都キエフ郊外の公邸を事実上、追われる際、大量の会計文書が敷地内の池に捨てられた。見つかった文書から、複数の黄金のシャンデリアを約3千万ユーロ(約42億円)で購入するなど、同氏の異常な金遣いが明らかになった。
まだ書類のごく一部の内容しか判明していないが、23日の英字紙キエフ・ポスト(電子版)などによると、シャンデリアのほか、公邸敷地内の建物のための家具に150万ユーロ以上の支払いを計画する文書も見つかった。ダミー会社が絡んだ支出が多いという。
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022401001614.html
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タイの首都バンコクが西欧近代主義者たる都市棲息動物たちデモ隊に制圧されているのに、タイ経済の底力はすごがっぺと
舛添要三は妄想していた、とほほ。
https://www.jetro.go.jp/world/gtir/2013/pdf/2013-th.pdf
やはり神は組織細胞に宿るのだった。