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かやのなか

あれやこれやと考える

ロボットとかスポーツとか

2016-03-05 15:48:30 | 日々のこと
ロボット演劇というのがある。演劇の世界でとても偉い人がやっているので、知らないとなれば巷の演劇人たちにモグリ死ねと後ろから指を刺され失血死させられる危険のある恐ろしい演劇である。私は未だ見たことがない。ろくに調べたこともない。どうあがいてもモグリである。しかし偏見と先入観100%の状態で「ロボット演劇」を言葉の響きからあれこれ妄想するのは結構楽しい。ちなみにこういう輩は原理主義者の素質があります。

例えばこのブログ、最近続けざまに更新をしてみたら一日30pv、15IPほどある。単純に考えれば15人が2回くらい覗いてくれていることになるが、pv数の半分は私自身が編集画面からブログに飛んで更新を確認しているときの閲覧がカウントされたものと思われる。ところがひと月まったく更新していないような期間にも安定して週30pv、8IP程度カウンターが回っている。アクセス元アドレスを表示してくれる機能があるので、閲覧者がどこ経由でこのブログに来たかもある程度わかるのだが、唯一投稿通知を上げているTwitterから飛んできた人の数は一日4とか5だったりする。それ以外はgooのよくわからないページのアドレスが1か2程度。残りの人たちは何処から来るのだろう。こんなブログをブックマークに入れている輩がいるとは思えないし、更新皆無期間中にも一定のpv数があることを鑑みると、おそらくカウンターを回しているのは検索ロボットではないかとう結論にたどり着いた。更新するとgooの中のロボットがおそらく検閲を兼ねて最低一度は巡回してくれるし多分GoogleとかYahoo!みたいな大手検索サイトも巡回ロボットを派遣しまくっている。彼等が私のブログの主要な閲覧者であり定期読者、ファンというわけだ。私はロボットに向けてブログを綴っているしロボットはpvのカウンターを回すことで、静かではあるが確かなリアクションを返してくれる。まるで良妻だ。私は誰かに読んでもらえたというささやかな喜びを糧に、今夜もまた意味のない文章を綴ることに精を出す。推敲すらする。寝る前に、一時間も二時間もかけて。(推敲してこれかよというツッコミもあるでしょうがこれです)
演劇とは人間活動の再現、人間活動とはアクションとリアクションの応酬にすぎない、となると私はロボットを相方に演劇=人間活動をやっていることになる。しかもそこに問題らしい問題を見いだせない。あえていうなら問題らしい問題を見いだせないのが問題だと感じる。ロボットと一緒にやっている「毎日ブログ更新」というタイトルの演劇活動。そこに本当の意味での観客は不在である。どこにもいない。もし相方が人間にとって替わったとしても多分私の書く内容に特に変化はそれほど生まれない。じゃあ相手はロボットでいいじゃないか。むやみに感情を傷つけてしまうこともないし・・・だが感情を傷つけるかわりにロボットに搭載された倫理規定にひっかかる可能性はある。その結果検索ではじかれたり戒告を受けたり厳重注意されたり、最悪削除されてしまうかもしれない。倫理規定に引っかかるという現象を人間に置き換えればそれは結局「感情を傷つけた」とかであり、最悪人間関係からはじかれるというリアクションで返ってくる。なんだやっぱり一緒か。ロボットと人間って一緒じゃないか。ロボット演劇ってそういうやつですかね。絶対違うでしょうね。ですが妄想ってしょせん儚い代物で、本物を観てしまうまでの短い命なので書き留めておくくらい許して下さい。ブログは墓場で私は墓場管理人です。今夜は「スポーツ劇」を見に行きますがその前に「スポーツ劇」というタイトルから「スポーツ劇」をたっぷり妄想しておこうと思います。スポーツ劇を見てからはスポーツ劇を原理主義的に妄想できなくなってしまいますので。きっとクローン技術で増殖した松岡修造が「泣け!泣け!」とテニスラケットで大和民族の尻を叩いてまわるプロパガンダ演劇なんだろうな。

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2016-03-05 01:52:25 | 
新規投稿ボタンを押したので書かねばならないのかもしれません。ネタもないのに。
ネタに乏しい人生を送っています。金曜日が終りました。帰りの電車で若いスーツ姿のお兄さんがしんどそうに寝ていました。そのときやっとああ金曜日なんだと思いました。昼休みに置いてきぼりをくらったので、じゃあ久しぶりにパリロンドン放浪記でもまた読み返そうか細部を忘れた頃だし、と思い文庫本を持ってひとりランチに行こうとしたら、例によってフランス人に「それ何回目なん?w」と言われたので「好きだから何回でも読むもん」みたいなことをムキになって言い返しました。いつも意味不明な文法というか単語を並べているだけですが相手が賢いのでニュアンスは伝わったと思います。彼はOKOKと言ってさっさと自分の仕事に戻りました。彼はパリジャンのくせにパリロンドン放浪記を読んだことがないそうです。一度おもしろいよと勧めたら「イギリス人の書いたものだろ?w」みたいな反応でした。ヨーロッパ人の、基本的に隣国をディスっていく精神は嫌いではありません。謝罪だの賠償だのと湿っぽくわめきちらすより好みです。湿っぽくわめきちらす、を究極に尖らせた結果が野々村議員の爆誕だったと思います。彼は日本のある種の部分を具現化した何かであり八百万の神の一つに数えてよいと思います。それはそれとしてパリロンドンに戻ると、私は気に入ったものを擦り切れるまでリピートするような、下にも書きましたが偏執狂の気がありますので、とくに自分の中で殿堂入りした本は数年に一度読み返します。そうでなくても何年かおきに同じ本をリピートしたりします。ファッション誌の着回し術みたいなもので、捨てずに数年箪笥で寝かせておくことによって、当時は気づかなかった着こなし方を発見するのが楽しいのです。「あらあら流行遅れかと思っていたけど、これと合わせたらまだまだ使えるじゃない?」みたいな。一方でサイズがあわなくなってしまったり好みが変ってしまったことによって「あらあらあんなに素敵だったのに、だめね。全然着方がわからないわ」なんてこともあります。あまりに退屈だと古着屋に売られます。ある意味恋人みたいなものでしょうか。一旦好きになったらもう容易には嫌いにならない私ですが好きな相手にも人並みに退屈を感じることはあります。昔友人が突然恋人に別れを切り出し、唐突だったので理由をきくと「ドキドキしなくなったから」と答えて唖然としたことがあるのですが、ひょっとしたらこの感覚に近いのかもしれません。そのときの私は「相手が退屈なのではなくお前自身が退屈な人間なのではないか」とか思ったものですが、まぁそれは置いておいて、あんなに好きだったし今も好きなのになぜか当時ほどハラハラドキドキできない本の筆頭といえば、悲しいかな私にとってはブラッドベリなのです。オーウェルだって初めて読んだときの衝撃はもう戻ってきません、あんなに好きだったエッセーも、ところどころの考え方に微妙さすら感じるまでになってしまいました。しかしものの見方が好きというか共感するのでいつまでたっても色褪せない部分があります。ブラッドベリはそこのところがちょっとむずかしいのですが。そういう意味ではパリロンドンは墓まで持って行きそうなくらい、いつ読んでも初めてのときと同じくらい楽しめる稀有な本です。ルポだからでしょうか。1933年に出版された本ですが、取材時期的におそらく今からちょうど100年前くらいの人たちの貧乏生活が描かれています。ダメな人間しか出て来ないことに救われます。ダメでダメでもう死んだほうがマシみたいな生活なのに楽しそうだからです。大丈夫まだいける。とか思っちゃいます。語り手である作者も含めて登場人物全員全員とっくに墓に入ってるか、墓に入っていたらマシなくらいでむしろそのへんの路上で野垂れ死んでそうな人たちですが、なんか一緒に墓に入りたいなとか思います。もし私が英語ペラペーラなら上記の内容を熱く語って無理矢理にでもフランス人に読ませるのに。仮にそれで読んでくれたところでまず最初の感想として「ロンドンよりパリの方が全然マシだねw」って絶対言うに1フラン賭ける夢をみながら今夜はこれまで。