かやのなか

あれやこれやと考える

即位なんたらの儀の日の過ごし方

2019-10-22 02:42:00 | 日々のこと
 最近、休日が多くて無駄にそわそわする。家でソファに転がっていながら、ふと今日は本当に休日だったろうか、自分だけが仕事に行ってないのではないかと不安を覚え、カレンダーを確認するなんてこともよくある。明日もまた休日だ。しかも近年は珍しくなった飛び石型で、天皇陛下が公に即位される日として設定されたイレギュラーな祝日である。
 ツイッターで確認すると、今日から羽田空港に各国の政府専用機が次々に到着し、都内の中心部は、世界中のVIPの迎え入れのために厳戒体制が敷かれているらしい。しかし残念ながら、私は23区の極東に棲み千葉へ出稼ぎに通う賃労働者なので、ものものしい空気の一端にすら触れることなく、いつもと同じ休日を迎えようとしている。
 天皇の即位に一切何も関わっていないのに休日をとることになんとなく違和感がある。その話を職場ですると、国民の休日なんてそんなもんでしょ、普通の国民の祝日と何が違うんですか、と至極まっとうな意見が返ってきた。そのとおりで、確かに憲法記念日に憲法を祝ったりはしない。しかし、今回は「即位の行事のための日」として特別に祝日になっているわけで、目的がピンポイントすぎるので気持ちが落ち着かないのである、
 せめて野次馬として、明日行われる行事の末端に参加できないかと調べてみたところ、無情にも、即位なんたらの儀は一般人は参列不可であった。パレードも台風の影響で順延になってしまったので、庶民にやれることは家に籠ってYoutubeで官邸チャンネルを観ることくらいである。昼間っからYoutubeで動画を見るために労働から解放してもらえるなんて、まるで恩赦である。
 明日何しよう。起きてから考えよう。




不条理を笑う ブラック・クランズマン(感想)

2019-10-16 00:00:00 | 映画
 ブラック・クランズマン(BLAKKKLANSMAN)は2018年のアメリカ映画。監督は「マルコムX」のスパイク
リーで、この作品でアカデミー賞脚色賞とカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞している。

 コロラド州の警察署に最初の黒人警官として採用されたロンは、潜入捜査の一貫で、白装束で有名な白人原理主義集団<KKK>の新聞広告に電話をかけ、黒人でありながら持ち前の話術でメンバーに気に入られ、組織の中で頭角を表していくが、中には当然ロンを怪しむやつもいて・・・。というのがざっくりしたストーリー。

 ロンが黒人であることは見りゃ分かるので、KKKの会合には、白人の同僚警官が「ロン」として出向くことになる。いわば二人のロンが存在することになる。この同僚を、スターウォーズ新シリーズの敵役、カイロ・レンを演じたアダム・ドライバーがやってるなんて、観終わってしばらくしてから気づいたよ。雰囲気があまりにも違い過ぎて。でも、こっちのアダム・ドライバーの方が全然輝いてた。セリフも立ち居振る舞いも地味そのものなのだが、雰囲気があった。ちなみに、彼が演じるこの同僚の警官は実はユダヤ人で、KKK的には「また別の敵」にあたる。

 アダムドライバーが劇中で「自分は決して厳格なユダヤの戒律に従って育てられたわけではない」と語るシーンがある。それほど民族に帰属意識はないが、目の前でユダヤ人をボロカスに言われると腹がたつ。
 主役のロン(こちらはデンゼルワシントンの息子が演じている)はロンで、警官になってしまったものだから、バリバリの黒人活動家たちからは浮いた存在である。仲間の白人警官たちが、黒人の恋人からピッグ(警察の蔑称)と呼ばれると、「ピッグじゃなくてポリスだ」と訂正したくなるが、訂正すると「お前は黒人じゃないのか」と非難される。

 舞台は1970年代に設定されているが、この、白か黒かを表明しないと許されない時代の居心地の悪さは、現代にそのまま存在する空気で、黒人差別を表立った題材としているが、それだけにとどまらない社会の不条理を描いていたように思う。
しかし題材の重さに比肩して語り口は軽快で、エンタメに徹しており、上映中はそこかしこで笑い声が聞こえた。

 ロンが潜入するKKKの支部メンバーにコニーとフィリップという夫婦がいるのだが、この夫婦、過去に何があったか知らないが、黒人とユダヤ人を本気で殺してやりたいと考えている。特にコニーが強烈で、黒人の話さえしなければ、よくいる善良なおかみさんといった風情なのだが、そのマシュマロのような体躯と無邪気な笑顔から発せられる黒人への悪口雑言の数々は、一周回って倒錯的な美しさすら感じた。旦那のフィリップも、完全に憎しみで頭がイカれてしまった男だが、コニーとベッドで「ハニー、ようやく黒人どもを焼き殺せるね・・・」と語らうシーンなど、会話の内容こそイカれているだが、醸し出される雰囲気には荘厳さすら漂う。彼らは真剣そのものなのだ。真剣で、真摯であればあるほどギャグであり、後ろに悲しみが隠れている。

 飯田橋のギンレイホールは二本の映画を交互に上映し、一枚のチケットで二本分滞在することができる。どこから観るかは観客の自由で、今週はこれとグリーンブックを上映していた。私はどちらかというとグリーンブック目当てだったのだが、映画館のツイッターによると、ブラック・クランズマンの方が客入りは良いらしい。
 18日まで上映しているので、まだの方はぜひ。


それでもブラピに3000点あげたいワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの感想

2019-10-14 07:00:00 | 映画
 ちょっと前に観た映画。

 いつものタランティーノ。いつものディカプリオ。いつものブラピ・・・ではない。
 私的には今回のブラピは素晴らしくかっこよかった。
 もう齢50を越えてるなんて信じられないような、きれいな腹筋も披露してくれる。
 いや別に腹筋にクラリとやられたわけではない。もちろん服を着たままでもいい。とにかく所作から何からすべてがカッコよいのだ。

 さっそく脱線するが、ブラピといえばブラピ好きの大学時代の同期を思い出す。当時はブラピの代表作と言えばセブンかファイト・クラブで、どちらも硬派なあんちゃんといった感じの役どころで、私はいまいち良さがわからなかった。いや、かっこいいはいいけどさ。それほどか? みたいな。
 まぁ彼女は無類のヒゲ好きで私は特段ヒゲ好きじゃないからかな、なんて思っていた。
 今作のブラピはナンパで硬派な男だ。言うならば「三軒となりに住んでいる兄ちゃん」とか「遠い親戚の年上の従兄弟の兄ちゃん(毎年お盆の1日だけおばあちゃんちで会う)」みたいな、ゆるくて頼りない、しかしいざってときは頼れる雰囲気をまとっている。わかる人だけわかって欲しいが、実写版スナドリネコさんである。
 これがスナドリネコさん好きな私のハートにぶっ刺さったのである。いや、きっと私だけではないはず、アカデミー会員とかの皆様の心にも刺さっていると信じたい。

 ブラピのことしか書いてない。映画の感想はどうした。
 はい、映画の感想ですが、これもネタバレを気にする方は回れ右してください。



 いいですか?



 ビッグフィッシュって映画をご存知の方いるかしら。ティム・バートンがチャーリーとチョコレート工場を作るひとつ前に作ってた映画なんだけど、幼少の砌にシザーハンズ、学生時代にナイトメア・ビフォア・クリスマスを観てすっかりティム・バートン信者として養成されてた私は、ビッグフィッシュで初めて彼の映画をリアルタイムで、つまり映画館で封切りされたものを観ることになって、期待値はカンストしていた。
 ところが・・・映画館を出る私はすっかり失望していた。ビッグフィッシュは稀代のホラ吹き男の話だが、彼のつくウソが、現実を侵食してしまうシーンがあった。それは、映画の世界観的にはやっちゃいけないことで、その一点が私にとって致命的だった。その後、チャーリーとチョコレート工場、コープスブライドと、ティム・バートンのつくウソは私にとって完全に意味不明なものになっていき、完全に心が卒業してしまった。

 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドも、ウソの話である。
 ウソだが、シャロン・テート殺害事件というハリウッドで起こった実話を元にしている。
 シャロン・テート殺害事件とは、ロマン・ポランスキー監督の最初の奥さんシャロン・テートが、妊娠中の子供と共に頭のおかしいヒッピーになぶり殺されてしまったという痛ましい事件である。
 主人公のディカプリオは、当時のポランスキー邸のすぐ下に家を構えていた西部劇俳優という役どころ。ブラピはディカプリオの運転手兼親友兼スタントマン兼ヒモみたいな、謎の男を演じている。

 ディカプリオは、かつて一世を風靡した有名俳優だが、世間で西部劇が廃れつつあることもあり徐々に仕事が減ってゆく自分の俳優生命に危機感を抱いている。一方、専属スタントマンのブラピは、危機感があるんだかないんだかよくわかんない飄々とした雰囲気を崩さず、常にマイペースに、ディカプリオを助けてくれる。ブラピがあまりにもマイペースだから、実は裏があるんじゃないかと怖くなるほどだが、実は腹の底から良いヤツで倫理観も一番まともだということが最後にわかる。ディカプリオもいつものように叫んだりわめいたりの演技だが、今回は感情的な演技が「情けなくも憎めないいいヤツ」にハマっている。
 そう、こいつらは二人とも、ちょっと馬鹿な良いヤツで、それ以上でもそれ以下でもない。
 この映画は、もしもシャロン・テート殺害事件の際にこのような良いヤツらが近所に住んでいたら、という歴史のIFを描く作品だ。シャロン・テートは本人も美人だが、演じる役者マーゴット・ロビーが非の打ち所がないほどの美人で、こんな美人が百年に二度も出てくるハリウッドの底力を見せつけられる。
 映画のクライマックス、いよいよポランスキー邸に暴漢が迫るが、それまでに映画オリジナルの事件がなんやかんやあったために、彼らは標的をまず隣のディカプリオ邸に定める。これをブラピとディカプリオが撃退してのけ、シャロン・テートは生きながらえる。
 お見事、これぞやって許されるウソだと思った。最初は。
 現実に起きた悲劇をウソの結末に塗り替えるなんて、ひたすら残酷な所業にもみえるけど、劇中でシャロン・テートを描くためにそれなりの時間を割いており、そこには彼女は生きるべきだった、という思いが込められているからだ。それを叶えるのは、映画というフィクションだから出来ることだろうと。だから結末には、残酷だけど優しいという絶妙な味わいがあり、なんともいえない感動を胸に帰路についた。
 私がビッグフィッシュで観たかったウソは、こういうウソだったんだ、と十何年前のもやもやした気持ちがスッと晴れていく感じがした。

 ・・・そこまでは良かった。

 帰り道、それにしても我々は良いとして、当事者のポランスキー監督はよくこの題材の映画化にOK出したよな・・・ハリウッドだし・・・と不思議に思って検索かけたところ、ポランスキーの現嫁のエマニュエル・セニエがこの映画に対してコメントしている記事がヒットした。

ポランスキー妻、タランティーノ監督を厳しく非難

 驚いたことに、タランティーノはポランスキーに許可をとらずに映画を撮影してしまったらしい。いやいや、それはどうなのよ。

 以下引用
 「私が言っているのはハリウッドの人たちはロマンと彼の悲劇を使って映画を作りながら、彼をのけものにするのをなんとも思っていないということ。そしてもちろんロマンに対しては何も相談していない」byセニエ

 おっしゃるとおりとしか言いようがない。
 ポランスキーは性的虐待疑惑でハリウッドから追放されており、ヨーロッパで映画を撮っている。
 その彼の人生を題材として頂き、勝手にいい話に書き換え、”ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド”などと銘打ってノスタルジーに浸る。

 ・・・数時間前に感じた「良いウソ」っていうものが、逆に鬼畜の所業としか思えなくなってしまった。
 それでも映画としては、やっぱりすごく良かったと思う。難しい。
 表現の自由が他人を傷つけて良いかどうかは、ちょうど世間でもとやかく言われているが、私は、作家が良識を失ったら作品が作品として成立しなくなると思っている。常識はどうでもいいが、良識の問題で。
 ビッグフィッシュで失望した心は救われたが、新たなもやもやが生まれてしまった。

 ただ一つだけ確実に言えることは、私はこの映画のブラピに3000点あげたい、という事だけである。

カメラを止めるな!(感想・ネタバレあり)

2019-10-13 22:19:09 | 映画
ようやく観たので感想をば。

ところで基本的に私は未見の映画のネタバレを気にしない方なので、特に自衛を講じたりはせず、時には観る前に積極的に評判を調査することもあるが、この映画に関してはネタバレを見なければ良かったと途中で後悔した。多少のネタバレ気にしない勢のみなさんも、気をつけた方がいいかもしれない。

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さて感想。前半のワンカットワンシーンの35分間は楽しめた。手持ちカメラによるカメラワークも、ブレア・ウィッチ・プロジェクトでは酔いそうだったが、今作では大丈夫だった。(スマホの小さな画面で観たせいかもしれないが)

しかし、中盤からいわゆる本編が始まると、急に面白くなくなった。
それが劇中劇だというネタバレを知っていたのも、楽しめない一因だったと思う。
「え、なになに、どゆこと?!」という戸惑いさえあれば、本編の懇切丁寧な人物紹介と背景説明のシークエンスが乗り切れたかもしれないからだ。
しかし、実際ネタバレがなかったとしても微妙な構成だと思った。
なぜなら前半は劇中劇ですよ、っていうのは、それが終わった直後にわかってしまうので、それについてどんなに細かな説明をされてもくどいだけだ。例えば音響機材を運び込むカットは明らかに不要なのでないか。血糊を役者にべとべと塗りつけるシーンは必要だと思うが。主人公である監督の家族関係のくだりは、どうだろう。若干ストーリーから浮いていると私は感じた。

しかし、これがいよいよ撮影シーンとなり、舞台が廃屋に移ると再び面白くなってきて、そのまま最後まで引き込まれて観ることができた。

要するにスピード感なのかもしれない。ワンカットワンシーンの前半はジェットコースター的なスピード感がある。しかし本編が始まったとたんに急にブレーキをかけられ、さんざん解説員に出し物の説明を聞かされ、お勉強したのちに、再びいってらっしゃいとばかりにアクセルが踏まれる。せめて出し物の説明が面白かったり、もっと工夫があれば良かったのだが、今の所ひたすら後半の”怒涛の伏線回収”のための伏線を貼る時間にしかなっていない。
そうなると、中盤を思い切ってカットし、後半を撮影準備のシーンから始め、そこに人間関係の説明も撮影背景も何もかも詰め込む構成にし、欲を言えばそれをワンシーンワンカットで撮ってしまえば、さらに面白くなったんではないだろうか。。。なんて、言うのは簡単でやるのは難しいというのは、承知の上だが。

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しかし事前のネタバレでは「前半の劇中劇はつまらなくて、中盤から面白くなる」というものだったけど、劇中劇を難なく楽しめてしまった自分は、この一ヶ月間ウォーキング・デッドを観まくって、体内にゾンビ映画耐性というか、ゾンビもの抗体みたいなものができてしまったのかもしれない。

ウォーキングデッド(シーズン5途中まで)

2019-10-09 01:26:57 | 海外ドラマ
 家にテレビが無いので、普段ほとんどドラマを観ない。いや、そもそも子供の頃に「ドラマを観る習慣」というものを身に付けなかったせいか。
 実家の父も母も、日本のドラマ、いや芸能界とか芸能人とかいったものに興味がなく、嫌悪すらしているフシがあった。
 一方で、海外ドラマや洋画には異様に寛容で、WOWOWにもいち早く契約していた。あの時代にあの町でWOWOWを契約していたのは我が家だけだったのでは、と本気で思う。 おかげで、マニアックな映画も怪しい雰囲気の邦画も見放題だったわけだが、そのせいで、学校でやれ木村拓哉がどうのKinki Kidsがどうのと盛り上がる同級生の輪に入れず、最近何見たのと聞かれて「ミクロキッズ」と答えて会話が続かなくなるような幼少期を過ごすことになった。いや、この話はウォーキング・デッドと何も関係ないので割愛します。

 つまり、ウォーキング・デッドを観たわけだけど、これはhuluの無料期間を利用した。
 最初は、シーズン1の1話だけ観て終わりにしようと思っていたのだ。
 そのとき考えていた劇のアイディアで、「主人公がそこそこ長い期間病気か怪我か何かで意識を失って入院する。眠っている間に社会のルールのとある部分が変わっていて、ようやく目覚めた彼は徐々に周囲の違和感に気づき・・・」というのがあって、これを人に話したところ「その最初の部分ってウォーキング・デッドじゃないですか」と言われので、これは確認せねばとhuluに入ったのが運の尽きだった。ゾンビ取りがゾンビになった、とでも言えばいいのか。

 意外だったのは、”ゾンビもの”として今までになかったような奇抜なアイディアや突飛な設定があるわけではなく、あくまで由緒正しい血統書付きのゾンビものをやっているところだ。
 しかし、変わっているのは、その描き方がかなり丁寧なところだ。例えば登場人物たちがアップに映っている後ろで、名もなきゾンビが意味もなく草原を歩いているようなカットがたびたび挿入される。遠景なので、我々視聴者も、腐った皮膚ではなく、歩き方や佇まいのなんとなくの異様さで、それがゾンビだと認識できる。その感覚はまさにウォーキング・デッドの世界に住む登場人物たちの視点そのものだ。そういった、さりげないシーンの積み重ねによって、世界観が作られているところに面白さがある。
 登場人物の描き方も丁寧で、みんな最初はモブっぽく登場するが、この世界で生きながらえるためにとる様々な行動が、時間とともにそれぞれのキャラクター性を作り上げていく。みんな最初は普通の人なのだが、成長して個性が生まれてくるのだ。当たり前といえば当たり前なんだけど、長めの物語を作るときのお手本みたいだ。行動がキャラクターを作り上げることの強みは、当然のようにブレるところだ。そのブレが良い。リックはソンビになってなくても人を噛み殺していいのだ。

 ・・・と散々絶賛したが、もちろん不満もある。尺を埋めるためかと勘ぐりたくなるような、無駄に長いマンツーマンの会話シーンとか、突然イメージソングが流れるところとか(これもおそらく時間稼ぎ)一番はファンサービスが過剰やなと思える展開とか・・・要するにダリルを聖域化しすぎじゃないかとか。
 シーズン3に登場する総督は、子供の頃だったならダントツで嫌いになったヤツだが、この歳になると、シリーズ屈指の魅力的なキャラだと思った。友達にはなれそうにないが。