かやのなか

あれやこれやと考える

コロナ日記

2022-02-01 00:45:00 | えっせい
懐かしい絵文字
思わず使っちゃった。

この十日間、自分が緑内障かもしれないという不安で情緒がジェットコースターのように上がったり下がったりしていた。本日の夕方、運命の視野検査に挑んだ。
結果は、左眼の視野の一部にやや視神経の感度が低下した箇所が確認されたものの、視野そのものはおおむね保たれていることが判明。ひと月後に更なる検査があるので、まだ何とも言えないが、現状がわかっただけでも心理的にかなり楽になった。ラスト眼科からトゥデイ眼科までの十日間は、ここ数年で一番長い十日間だった。夕飯は、メンタルジェットコースターをくぐり抜けた自分を労うために近所にオープンしたマグロ料理屋で乾杯した。

今日はそのほか調べ物したり、コロナについて思いを巡らせたり(?)しながら過ごした。

キングスマンの第一作に「人間は、地球という宿主を殺している自覚がある唯一のウイルスだ」みたいなサミュエル・L・ジャクソンの台詞があった。
いざ実際にウイルスに何波も襲われてみると、ウイルスの世界は我々、いや少なくとも私がイメージしていたより、はるかに繊細だった。毒性が強すぎれば、他の個体に感染させる前に宿主が死んでしまってウイルスは広がらないし、弱すぎると、蔓延はするが個々の寿命が短くなる(という理解で良いのか?)。さらにコロナが流行るとインフルエンザは鳴りを潜める。人の身体の内部の、彼らの居住地として割り当て可能な限られた土地の取り合いになっているらしい。正直そんなにも住宅不足とは思わなかった。コロナとインフルに同時に罹患する可能性すらあると思っていたのに、思いのほか彼らは仲良くなかった。でも、そういえば味噌は滅多なことでカビない。ミクロの世界は人間以上に分断と排他主義が蔓延っているのだろうか。

別冊宝島の思い出

2020-09-26 22:34:12 | えっせい
夜中に本棚の別冊宝島をパラパラめくって、ふと執筆陣が現在何をしているかが気になりTwitterで検索したところ、形態はどうあれ皆元気そうだった。手元の宝島の発行年が80年代だが、この頃のテーマを今も語っている人や、安倍政権を批判する方向に流れた人、あまり気にせずマイペースな人など、昔は執筆陣の個々の思想など気にせずに、ただ新聞なんかでは読めない過激な筆致を楽しんでいたが、いい加減こちらも大人になったので、それは違うんじゃないかとか、このひと妄想激しいなとか、いちいち引っかかるようになり、素直に読めなくなった。
宝島の記事の中には、特定の個人への悪口のようなものも平気である。そのむちゃくちゃさが面白かったといえばそうだが、今はネットに大量に転がっている文章の類なので、そういう意味でもこの手の雑誌の役目は終わったのかもしれない。まぁ、古本屋で見つけたらとりあえず買いますが。

ちなみに現在自宅の本棚にあるのは「怖い話の本〜「心の闇」をフィールドワークした、超ホラー・ノンフィクション!〜」「実録!ムショの本〜パクられた私たちの刑務所体験!〜」「オウムを生んだ80年代オカルトのヒーローたち・・・オウム真理教修行体験90日」の三つ。すべて神保町の古本屋で見つけたもので、実家にはなかったバックナンバーだ。実家には5冊くらいあったはずだが、一番記憶に焼き付いているのは「いまどきの神サマ」という巻。
何冊か読んでいるとお気に入りの執筆者ができてきて、私は呉智英氏が好きだった。筆致が明瞭簡潔で、読みやすかったのが一番の理由だと思う。呉智英氏はTwitterをやっていないが、たまにbotが流れてくる。ネットのニュースでも時々見かけるので、健在なのだと思われる。本人が出している単著も読んでみたことがあるが、あまりピンとこなかった。ラインナップでわかるとおり、私はサブカル・オカルト・心霊といったいかがわしいジャンルの眉唾な物語に興味があり、その嗜好の扉を別冊宝島によってこじ開けられたと思う。昔出版社に就職したいと考えた際に当然宝島社も受けようと思ったはずだが、当時のことがあまり記憶にない。書類であっさり落ちたのかもしれない。
別冊宝島は今も発行され続けているが、ラインナップに食指が全然動かないのはなぜだろう・・・。なんか真面目すぎるんよね、そういうの望んでないので・・・。
https://tkj.jp/goods/list?s2=1

原監督がいつまでも巨人の監督でい続けたりワンピースがまだ連載を続けていたりするせいで我々はまだ年を自分がそれほど年をとっていないと錯覚するのだ

2020-09-11 02:32:11 | えっせい
だから原監督や尾田栄一郎氏は言わずもがな、EVANGELIONを完結させられない庵野秀明氏、いつまでもフィールドに立ち続けるキングカズ氏などの各位は現在三十代後半から四十代にかけての我々世代に対して謝罪して欲しいし、我々がまだ自分は若いと錯覚したために失ってきた数え切れない大人になるタイミングを漏れなく賠償するべきである。

ところで先日NHKの深夜に放映していたエヴァンゲリオンの新劇場版を観て、このくらいの時間にこの程度のマニアックで異様に凝っていて意味不明に難解げなアニメをゲリラ的に放映されていることに「世界のバランスが正常に作動しているぞ、ヨシ!」とまるで世界を闇で牛耳る悪の組織の幹部のような安心感を覚えたのでもっとやってほしい、いや、言ってる私も安心感の意味がわからないが、とにかくよくわからないが安心したのだ。ちなみにQで14年経過している設定が世間では非難轟々らしいが私は全然大肯定派で、だってエヴァの呪縛ってのも良いじゃないですか、まさしく1999年頃から精神年齢が止まってしまった我々のことでしょうか、いやしかしそれは庵野秀明氏お前のせいだろうと思うわけですが。

アカデミー作品賞の受賞条件が改定されたニュースには中々のショックを受け、それって結局自分が権威主義の権威厨だったというだけかもしれないが、幼い時分にいっときでも本気で憧れた最高峰の賞に、作品の質とは全く関係ない規定が盛り込まれるなんて、じゃあもう我々はこれから一体何を目指したらいいんですか、という今風に表現すると激渋いお気持ちになり、例えるなら、会ったことはないが遠い異国の地で暮らしている憧れの生き別れの父親に裏切られたような気分である。いやいや別にキィーっと噴き上がるような大した条件じゃないんで落ち着けや、という意見も散見されるが、私は自分がかつて逆差別による逆贔屓を受けた経験から、まずこういう社会的弱者救済ルールを作りたがる体で、弱者を己のステータス上昇に利用する連中の自己満足が大嫌いであるのと、作品の質の評価にそれと関係ない要素が一個でも入る矛盾に我慢がならんのとで、もう生理的にムリである。

いや、しかし、芦田愛菜も言っている、「あなたは裏切られたのではない、相手の新しい一面を知っただけよ」と。そう、私は裏切られたのではない。アカデミー賞の別の一面を知っただけだ。視点を変えてみて、そう考えてみることにより、怒りの気持ちは収まり、世界を一つ遠い視点から俯瞰し、かつすぐに怒りで噴き上がる凡夫たる己の身を顧みて反省し、小さな功徳をひとつ積むことができるではないか。功徳を積み上げたその先にはきっと、芦田愛菜の待つ涅槃への道が広がっている。それにしてもテレビ、CM、広告などで芦田愛菜氏を見かけない日がないのだが、実は彼女はもう政府によってAI化されているのではないかという疑惑を密かに抱いている。

死んだ魚とクソリプ文化

2020-06-05 00:03:55 | えっせい
このブログも開設から一昨日で1900日目を迎えていたらしい。三日坊主な自分にしては充分長く続けられている方だ。
記事一覧を眺めていたら書きかけのメモが発掘された。いろいろとタイムリーなので、追記してあげてみる。

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ジョージ・オーウェルのエッセイ集「一杯のおいしい紅茶」の中の一篇に「ヒキガエル頌」がある。
冬眠から目覚めたヒキガエルによって春の到来を知ること、それが空襲や階級闘争とは無関係に巡ってくる自然の恵みであることを滔々と語ることから始まり、途中からこんな話になってくる。長いけれども引用してみましょう。

”春をはじめとして、季節の移ろいを楽しむのは悪いことだろうか。もっと正確にいえば、政治的に非難すべきことだろうか。だれもが資本主義の桎梏の下であえいでいる、あるいはあえいでいるべきときに、クロウタドリの声や十月の楡の黃葉のように金のかからない、左翼新聞の編集長が階級的視点と呼ぶものとは無関係ないろいろの自然現象のおかげで人生が楽しくなることもあると言ったのでは、いけないのだろうか。こういう考え方の人間が大勢いることはたしかである。わたしの経験でも、どこかで「自然」をほめるようなことを書いたりするとたちまち罵倒の手紙がまいこんで、きまって「センチメンタル」という言葉にぶつかるのだが、これには二つの思想がからんでいるらしい。一つは、人生の現実の流れを楽しむのは、一種の政治的静観主義を助長するという思想である。この思想はさらに、人民は不満を抱くべきであり、欲望を増幅させるのがわれわれの務めであって、すでに所有しているものをいっそう楽しむだけではいけない、という風に発展する。もう一つの思想は、現代は機械の時代である、機械を憎悪するのはもちろん、機械の支配領域を制限しようとするのは、それだけでも退嬰的、反動的であって、いささかこっけいだという思想である。この思想には、往々にして、自然を愛するのは自然のほんとうの姿がまるでわかっていない都会人の短所だと唱える応援団がつく。そしてさらに、ほんとうに土と格闘しなければならない人は土など愛してはいないし、厳密な利益という観点以外から鳥や花に関心をもつことはありえない、ということになる。”
ジョージ・オーウェル「一杯のおいしい紅茶」小野寺建編訳・朔北社 P108-109

この論考は今からおよそ75年前の1946年のトリビューン誌に掲載されたものだが、春を賛美しただけで政治的な視点から噛み付いてくる今で言うTwitterのクソリプ勢が、この時代にはすでに存在していたことを示す貴重な資料である。
オーウェルは彼らがどういう思想でもって出版社に罵詈雑言の手紙を送りつけてくるかを分析し、このエッセイの後半でその思想がいかにまちがいであるかを述べているが、ここに書かれた分析のような思想、というよりも思考回路は、後半の「機械の時代〜」のくだりこそ時代を感じるが、なんとなく今にも通じるような難癖の付け方だと思う。なんとなく収束しつつあるコロナ騒ぎを振り返りながら読むと、似たような抗議とそれに対する反論を、さまざま目にした覚えがある。

SNSは言ってみれば公開書簡なので、慣れるまでは当然居心地が悪いが、慣れてしまうとその内容が私的であろうが公的であろうが誰にでも読まれてしまうという感覚が麻痺してくる。さらに、昔はある人がけしからん書き手に抗議の手紙を送りつけてやろうと思い立った場合、まず文具屋に便箋と封筒を買いに行き、書き損じのないよう、そして知的な文字に見えるよう細心の注意を払いながらペン先を滑らせ、自分の文章にいささかの論理的破綻も生じることのないよう思考を組み立て・・・と、かなり面倒くさい手順を踏まなければならなかったのが、SNSではこのような物理的障害がほとんど取り払われてしまうので、クソリプ勢がより短絡的、衝動的に作者に噛み付く環境が着々と整いつつある。
ただ、そのために、逆にその人の思想から強靭さは失われるような気もしないでもない。自分の思想を練り上げながら文字に書きおこすという行為には二つの作用がある。一つは書くことによって自分のものの考え方を客観的に検証し省みることで、こちらは問題ない。もう一つが問題で、論理的破綻を封じるためにさらにトンデモな理論で武装しはじめ、最終的に破綻の雪だるまのようになってしまうことだ。(最近の内田某みたいな)後者は鋼鉄の雪だるまなので、芯はないが体当たりに強い。しかし面倒くさい手順を踏めるものだけがたどり着くことのできる存在であるが故に、ここまでいくのにも才能がいる。SNSから匿名性を排除して個人と紐付けたとき、消えていなくなるのは、思想的強度の低い人々の方だと思う。70年前にせっせと出版社に手紙を書いていたような勢力は、文字を取り上げない限り生まれ続けるだろう。

今年の初め頃にTwitterで、死んだ魚に一定強度の流水を当てることでまだその魚が生きているかのような動きをとるという動画が流れてきた。身体の骨や筋肉、関節の連動した動きこそが生命だとしたら、脳みそも部位の一部なので、「自由な発想」「心は自由」とかいいつつ、動きの指向性は、脳みそが形成された時点である程度勝手に決められているのかもしれない。と考えると、ちょっと寂しいものがある。衝動的とか反射的とか感情的であるということは、純粋だけれども制御を放棄した姿勢でもあるので、せっかく生きているのに手放しで奔流に流されるままでいるのは、生き物としてもったいないような気がする。
つまり、クソリプをもらったら「死んだ魚が流水で動いているな」と脳内変換してみるのが良いかも。