かやのなか

あれやこれやと考える

11/28 食べたもの

2019-11-28 23:30:56 | 日々のこと
今日食べたもののメモ、時系列順。

①ハムサンド
 幼少よりハムサンドにはこだわりがある方だが、コンビニではファミマのハムサンドが一番好きだ。からしマヨネーズの加減が。朝飯。
②ワンタン麺
 エースコックの。買いおきしていたのを開封。
③サラダ
 ②と一緒に昼ごはんに食べた。生協で購入。20円日引きの値札シーツつき。それでも税込301円、高い。
④チョコクロワッサン
 これもファミマの。②と③では少なすぎたので衝動買い。乗り換えの電車を待つホームにて、ものの2分くらいで食べてしまった。
⑤パンケーキと紅茶
 いわゆるホットケーキ。マーガリンとメープルシロップで食べる王道なやつ。普通のケーキセットが売り切れだったので仕方なく。飯田橋の喫茶店にて。
⑥油ラーメン
 東京油ラーメン。東京ラーメン文化の一つの答えである、みたいな壮大な店頭の触書に惹かれて。期待値は低かったが、反して美味しかった。
⑦ビールとウォッカ
 某店にて。ビールはモルツ。ウォッカはスミノフ。ウォッカがロックで出てきたが、逆に酔いやすいような気がした。ストレートで頼むべきだった。

書き出してみると一日5食くらい食べている。
昨日でジョギングの距離が累計100キロとなったが、これでは減るものも減らない。



【ネタバレ注意】天気の子 感想

2019-11-27 00:47:23 | 映画
ども!かやじょうです😝
もう11月も末だというのにしぶとく上映継続中の天気の子を観てきたのでレビューします。
しかしまぁ、今月公開したばかりのターミネーターなんてもうレイトショー1回しか上映してもらってないのに破格の待遇ですね。さすが鬼ほどスポンサーがついているだけありますね。😅

一言でいうと、思ってたより良いやん、というのが正直な感想です。
というわけで、いつものテンションに戻ります。

**

 人様のレビューをいくつか読んだ状態で鑑賞に臨んだ。
 リアリティがどうとか、倫理観がどうとかいう批判が多かったので、割とリアル系な話かと思っていたが、蓋を開けてみれば、小学校の高学年から中学に入る頃に読んだ、ジュブナイル系の物語だった。物語の背景の省略の仕方が、これまでの新海誠の作品(といっても言の葉の庭と君の名はしか観てないけど)と比べてもかなり割り切ってそっちのジュブナイル系として整えられていたように感じた。ジュブナイル系である上に、きみと僕との関係性が世界の仕組みに大きく影響を与える、いわゆるセカイ系というやつでもある。なので、この作品に関しては、リアリティとしてありえないだの、展開が都合が良すぎるだのと批判するのは的外れと思う。そういう土俵で勝負していない。わかった上で編集されているわけだから。だって、弟先輩が都合よくあのタイミングで廃ビルに到着したり(下に警察おるやろ)、穂高が線路を走り続けても本気で止める大人が誰一人やって来なかったり(みんなやさしい)、都民たちが水没した町を素直に受け入れすぎだったり、その水がきれいすぎだったりするのも、結局少年少女向けの冒険小説はそういう法則で世界観が回っているのだから仕方ないじゃないかという一言で片付く。これは現実世界によく似た別の世界を舞台にしたファンタジーなのだ。
 そういう世界観の舞台で、何を語るかと言うのがジュブナイル小説の肝だが、他人の為に尽くしてばかりいるとってもイケニエむきの女の子に、ラスト付近で主人公が「(みんなのためじゃなく)自分のために祈って」と語りかける。これが本作品のテーマで、新海誠が一番言いたかったことかなと思ったが、これ自体は今の若い子供世代に向けてのメッセージとして、時代に即しているように思った。このテーマを際立たせるにはどういう表現をしたら良いんだろう、という思考になるわけだが、とりあえず悪かった点から書く。

・モノローグはすべて削ってほしい
 青春映画の楽しみというのは、基本的に、スクリーンの中で青臭い若者が情熱に任せて馬鹿でアホでとっぴなことをやらかすのを眺め、ああ青臭いなとせせら笑いながらもどこかに自分との共通点を発見し、主人公たちの行末にいつしか徐々に自分自身を重ね合わせていくことにある。と思う。
 そのためには、スクリーンと観客の間にある程度の距離感があることが大事で、共通点は観客自身が自然に見つけなければならない。スクリーンの側から押し付けられるものではない。なのに、この映画はモノローグがやたらと多くて、それも意味のない状況説明であったり、当然こちらが推測できるような感情の丁寧な読み上げであったり、とにかく押し付けがましい。
 しかも悪いのは、映画のテーマが「世界を壊してでも好きな人を救えるか」という究極のエゴである点で、これはある意味人間の原罪みたいなもので、世界を見捨てて恋人を選ぼうとする主人公は当然、その葛藤は一人で引き受けなければならない。モノローグがいけないのは、ひたすら言い訳を聞かされているように感じるからだ。彼が一人で悩み、葛藤し、選んでいく様をただ観客にみせた方がよほど伝わるべき人に伝わったんじゃなかろうか。

・ヒロインの切り取り方
 このヒロインは相当な自己犠牲を払っていて、他人のために生きることが自分の生きがいといった感じで、聖母マリアみたいな描かれ方をしており、純粋無垢でどこまでも透明な存在である。天気の神様に拉致られなくとも身体が透けそうだが、そういう描写を貫きすぎた結果、テーマ性が薄まってしまっている。例えば、ヒロインが天空の雲の上に軟禁された結果、東京には太陽が戻ってくるわけだが、そのことを知って安堵するカットを一瞬でも入れたら良かったんじゃなかろうか。彼女は彼女で他人のために生きることを生きがいにしているが結局それもエゴである。彼女のエゴが浮き彫りになり(なんならそこに狂気めいた雰囲気を出したっていいと思うが)その上で主人公が助けに来れば、これはもうエゴとエゴの戦いで、良い悪いの判断は観客に任せるとして、「みんなのため」「自分のため」の対立がより際立ったんじゃないかと思う。
 まぁでもこれをやると、ただ俺は純粋無垢なものを守りたいんだ!!という感じは薄れるけど・・・いや、それだからやっぱり無理があったのでは・・・

モノローグ、君の名はではどうだったかあまり覚えていないけど今回ほど気にならなかったのは、神木隆之介くんの絶妙な演技の為せる技だったんだろうか。ところで君の名はでは演技の上手い神木隆之介くんの出演シーンが量的に多く、他でもところどころに上手い俳優がいたように感じたが、今回の映画にはそういった屋台骨俳優がいなかった。収録は絵がない状態で行われたんだろうか?

いちゃもんをつけてばかりでもあれなので、良かったシーンも。
・まずオープニング。
 アニメとして圧巻だった。
・廃ビルでのクライマックス
 ここの緊張感は良かった。主人公は家出少年だが、結局東京でも須賀という庇護者のもとで暮らしており、完全に自立したとは言えない状態だった。逃避行を企てても満足に完遂できない、粋がったところで結局ただの16歳の子供でしかないという事実を超える実力がなく、好きな人を失ってしまう。しかし、ここで初めて本当に一人の男としてすべての大人たち、特に父親的な存在である須賀に拳銃を向ける。リアリティがどうこうというなら、結局、拳銃がなければ立ち向かえないところにリアリティがあると思う。
・穂高の走るシーン
 女の子が走る映画は多いが、男の子が走るのは珍しい。
 警察署から逃亡した穂高は、少女を助けるために線路をひた走るが、走る方向が画面に向かって左から右で、下手から上手に向かっている。この間、彼は彼女との過去を回想している。時をかける少女では上手から下手に走っていた。未来に向かって走るときは上から下、過去に向かうときは下から上なので、これは補高の心情的に正しい。(だからモノローグは要らないっちゅうねん)そして、廃ビルで外階段を駆け上がるとき、ジグザグの階段を上から下、下から上へと行きつ戻りつしながら方向はどんどん上へと昇っていく。ここは余計なモノローグもなくて、絵だけで心情を表現していて良かった。(ひょっとしたらモノローグがあったかもしれないが、聞かないことにしていただけかもしれない)
・理屈をこねない
 シーンじゃないけど、東京に雨が降り続ける理由とかイケニエを捧げるシステムとか、作品内部の設定について詳細に語られないのが逆によかった。君の名は、は若干それで萎えたので。

力尽きました。

それでは、また🙋