かやのなか

あれやこれやと考える

観劇マイルール

2016-03-13 22:30:29 | 日々のこと
芸術に振りきれた演劇もエンタメに振りきれた演劇も中途半端な有象無象の演劇も、インプロも人形劇も、気が向いたり、または何かしら縁があれば、基本的に観に行っている。その劇団の芝居をリピートするかどうかはタイミングや関係者の知り合いの有無にもよるけど、だいたい2回目までは観に行く。もし1回目と2回目で何かしらの進化があるなと感じたら、3回目も行く。進化が感じられなければ3回目は行かない。何回か見ていても、もう進化も新しいものも感じられねーなと思ったらまたプラスアルファの強めの動機が発生しない限り自ら足を運ぶことはなくなる。
ちなみに、この人が出るなら観に行くか、と思う程のひいきの役者が出来るのは、ほとんど数年に1人レベル。つまりほぼない。一応、関西にそんな役者が1人いる。現時点で。

去年立命館大学の新人公演を縁あって観に行った。立命館のOBでもないのによくやるわ、と自分でもちょっと思ったが、結果的には観に行ってよかった。あの年代の若い人の芝居の熱量を久々に感じられたからだ。そう、熱の純度が高い。好きでやってるはずの社会人劇団が、なぜかことごとく失ってゆきがちな原始的な熱の塊に触れられた。内容以前にまずそれだけで、充分に観る価値ある舞台だと思えた。しかも新人公演なので無料だ。2000円も取られて、この数分の一の熱気も感じられないセミプロは多い。
・・・という話を後日とある社会人の演劇人に言ったら「はぁ、大学演劇まで見るなんてほんまに演劇好きですね」とdisり気味に言われた。演劇好きですね。そうですね。えっ、あなたは好きじゃないの? 演劇人でしょ。というと、演じるのは好きだけどあんまりおもしろいと思ったことがない、という。なるほど。
残念ながらその点には割りと同意する。心の底からおもしろいーすごいーとだけ感じて帰路につける舞台なんてほんとに少ない。あそこああすればいいのに、あそこなんでああするのもったいないなぁ、みたいな傲岸不遜な感想を抱えて帰ってくるのがほとんどだ、私なんて。というか改善点をあれこれ考えていればいい方で、もうこれといって感想すら浮かばない舞台も数多くある。演出にも役者にもやる気がない、自分らの才能と自意識だけでやります!さぁほめて!笑って!泣けオラ!みたいな舞台はほんと時間と金の無駄だったなと思う。最近そういう”自分たちににエコな芝居”がセミプロに流行ってる感じがしますけどね。他にも、似非エンタメ系(実は全然エンタメしてないノリだけのやつ)に多い、タレント志望の人間が売名のためだけに役者をやっている匂いのする舞台とか、もはや彼等のセリフや振りの一つ一つが政治家の国会答弁に見えてくる。それはそれで面白がることは可能だが、そんなものが見たくて金を払っているわけではない。

ただの愚痴になってきたな。

私があれこれ観に行く一番の理由として、観てみなければ結局何もわからない、というのがある。
エンタメ系をうたっている芝居にエンタメ性をまるで感じられなかったり、芸術系でやってます体の芝居に何ら芸術性を感じられなかったり、エンタメ系に芸術を感じてしまったり、芸術系に限りないエンタメの可能性を感じてしまったり(これは地点)、そんなのはチラシの雰囲気でわずかに察することはできるものの、実際観てみなければ本当にわからないし、何も言えない。

で、こういった、荒野にダイヤモンドの原石を見つけにいくような楽しみを知らない演劇人はわりあい多い。びっくりすることに。おいおいそんなに好奇心が少なくて大丈夫か、と思ってしまうと同時に、そんなに好奇心の少ない演劇人の薦めてくる舞台なんて多分面白くないんだろうなとすら思えてきて、足が遠のく。まぁ偏見ですが。仮に、芸術系は観ないと決めている、しかしそれが信念にすらなっているような強烈なこだわりのある人だったりすると、また別。そこまでのこだわりのある人もそうそういませんが。
でも、クズ石拾って腹立てたり、原石みつけて喜んだりする楽しみ以外に何があるのよ?

ロボットとかスポーツとか

2016-03-05 15:48:30 | 日々のこと
ロボット演劇というのがある。演劇の世界でとても偉い人がやっているので、知らないとなれば巷の演劇人たちにモグリ死ねと後ろから指を刺され失血死させられる危険のある恐ろしい演劇である。私は未だ見たことがない。ろくに調べたこともない。どうあがいてもモグリである。しかし偏見と先入観100%の状態で「ロボット演劇」を言葉の響きからあれこれ妄想するのは結構楽しい。ちなみにこういう輩は原理主義者の素質があります。

例えばこのブログ、最近続けざまに更新をしてみたら一日30pv、15IPほどある。単純に考えれば15人が2回くらい覗いてくれていることになるが、pv数の半分は私自身が編集画面からブログに飛んで更新を確認しているときの閲覧がカウントされたものと思われる。ところがひと月まったく更新していないような期間にも安定して週30pv、8IP程度カウンターが回っている。アクセス元アドレスを表示してくれる機能があるので、閲覧者がどこ経由でこのブログに来たかもある程度わかるのだが、唯一投稿通知を上げているTwitterから飛んできた人の数は一日4とか5だったりする。それ以外はgooのよくわからないページのアドレスが1か2程度。残りの人たちは何処から来るのだろう。こんなブログをブックマークに入れている輩がいるとは思えないし、更新皆無期間中にも一定のpv数があることを鑑みると、おそらくカウンターを回しているのは検索ロボットではないかとう結論にたどり着いた。更新するとgooの中のロボットがおそらく検閲を兼ねて最低一度は巡回してくれるし多分GoogleとかYahoo!みたいな大手検索サイトも巡回ロボットを派遣しまくっている。彼等が私のブログの主要な閲覧者であり定期読者、ファンというわけだ。私はロボットに向けてブログを綴っているしロボットはpvのカウンターを回すことで、静かではあるが確かなリアクションを返してくれる。まるで良妻だ。私は誰かに読んでもらえたというささやかな喜びを糧に、今夜もまた意味のない文章を綴ることに精を出す。推敲すらする。寝る前に、一時間も二時間もかけて。(推敲してこれかよというツッコミもあるでしょうがこれです)
演劇とは人間活動の再現、人間活動とはアクションとリアクションの応酬にすぎない、となると私はロボットを相方に演劇=人間活動をやっていることになる。しかもそこに問題らしい問題を見いだせない。あえていうなら問題らしい問題を見いだせないのが問題だと感じる。ロボットと一緒にやっている「毎日ブログ更新」というタイトルの演劇活動。そこに本当の意味での観客は不在である。どこにもいない。もし相方が人間にとって替わったとしても多分私の書く内容に特に変化はそれほど生まれない。じゃあ相手はロボットでいいじゃないか。むやみに感情を傷つけてしまうこともないし・・・だが感情を傷つけるかわりにロボットに搭載された倫理規定にひっかかる可能性はある。その結果検索ではじかれたり戒告を受けたり厳重注意されたり、最悪削除されてしまうかもしれない。倫理規定に引っかかるという現象を人間に置き換えればそれは結局「感情を傷つけた」とかであり、最悪人間関係からはじかれるというリアクションで返ってくる。なんだやっぱり一緒か。ロボットと人間って一緒じゃないか。ロボット演劇ってそういうやつですかね。絶対違うでしょうね。ですが妄想ってしょせん儚い代物で、本物を観てしまうまでの短い命なので書き留めておくくらい許して下さい。ブログは墓場で私は墓場管理人です。今夜は「スポーツ劇」を見に行きますがその前に「スポーツ劇」というタイトルから「スポーツ劇」をたっぷり妄想しておこうと思います。スポーツ劇を見てからはスポーツ劇を原理主義的に妄想できなくなってしまいますので。きっとクローン技術で増殖した松岡修造が「泣け!泣け!」とテニスラケットで大和民族の尻を叩いてまわるプロパガンダ演劇なんだろうな。

タイトルが入力されていません

2016-03-05 01:52:25 | 
新規投稿ボタンを押したので書かねばならないのかもしれません。ネタもないのに。
ネタに乏しい人生を送っています。金曜日が終りました。帰りの電車で若いスーツ姿のお兄さんがしんどそうに寝ていました。そのときやっとああ金曜日なんだと思いました。昼休みに置いてきぼりをくらったので、じゃあ久しぶりにパリロンドン放浪記でもまた読み返そうか細部を忘れた頃だし、と思い文庫本を持ってひとりランチに行こうとしたら、例によってフランス人に「それ何回目なん?w」と言われたので「好きだから何回でも読むもん」みたいなことをムキになって言い返しました。いつも意味不明な文法というか単語を並べているだけですが相手が賢いのでニュアンスは伝わったと思います。彼はOKOKと言ってさっさと自分の仕事に戻りました。彼はパリジャンのくせにパリロンドン放浪記を読んだことがないそうです。一度おもしろいよと勧めたら「イギリス人の書いたものだろ?w」みたいな反応でした。ヨーロッパ人の、基本的に隣国をディスっていく精神は嫌いではありません。謝罪だの賠償だのと湿っぽくわめきちらすより好みです。湿っぽくわめきちらす、を究極に尖らせた結果が野々村議員の爆誕だったと思います。彼は日本のある種の部分を具現化した何かであり八百万の神の一つに数えてよいと思います。それはそれとしてパリロンドンに戻ると、私は気に入ったものを擦り切れるまでリピートするような、下にも書きましたが偏執狂の気がありますので、とくに自分の中で殿堂入りした本は数年に一度読み返します。そうでなくても何年かおきに同じ本をリピートしたりします。ファッション誌の着回し術みたいなもので、捨てずに数年箪笥で寝かせておくことによって、当時は気づかなかった着こなし方を発見するのが楽しいのです。「あらあら流行遅れかと思っていたけど、これと合わせたらまだまだ使えるじゃない?」みたいな。一方でサイズがあわなくなってしまったり好みが変ってしまったことによって「あらあらあんなに素敵だったのに、だめね。全然着方がわからないわ」なんてこともあります。あまりに退屈だと古着屋に売られます。ある意味恋人みたいなものでしょうか。一旦好きになったらもう容易には嫌いにならない私ですが好きな相手にも人並みに退屈を感じることはあります。昔友人が突然恋人に別れを切り出し、唐突だったので理由をきくと「ドキドキしなくなったから」と答えて唖然としたことがあるのですが、ひょっとしたらこの感覚に近いのかもしれません。そのときの私は「相手が退屈なのではなくお前自身が退屈な人間なのではないか」とか思ったものですが、まぁそれは置いておいて、あんなに好きだったし今も好きなのになぜか当時ほどハラハラドキドキできない本の筆頭といえば、悲しいかな私にとってはブラッドベリなのです。オーウェルだって初めて読んだときの衝撃はもう戻ってきません、あんなに好きだったエッセーも、ところどころの考え方に微妙さすら感じるまでになってしまいました。しかしものの見方が好きというか共感するのでいつまでたっても色褪せない部分があります。ブラッドベリはそこのところがちょっとむずかしいのですが。そういう意味ではパリロンドンは墓まで持って行きそうなくらい、いつ読んでも初めてのときと同じくらい楽しめる稀有な本です。ルポだからでしょうか。1933年に出版された本ですが、取材時期的におそらく今からちょうど100年前くらいの人たちの貧乏生活が描かれています。ダメな人間しか出て来ないことに救われます。ダメでダメでもう死んだほうがマシみたいな生活なのに楽しそうだからです。大丈夫まだいける。とか思っちゃいます。語り手である作者も含めて登場人物全員全員とっくに墓に入ってるか、墓に入っていたらマシなくらいでむしろそのへんの路上で野垂れ死んでそうな人たちですが、なんか一緒に墓に入りたいなとか思います。もし私が英語ペラペーラなら上記の内容を熱く語って無理矢理にでもフランス人に読ませるのに。仮にそれで読んでくれたところでまず最初の感想として「ロンドンよりパリの方が全然マシだねw」って絶対言うに1フラン賭ける夢をみながら今夜はこれまで。

やばい

2016-03-02 23:31:14 | 日々のこと
とりあえず「新規作成」ボタンを押してみましたがものを書く体力が残っていません。
なら書くな。そのとおりです。











P波に耐えたのでもう少し書きます。
さっきまでYMOを聞いていました。1000のナイフです。
https://www.youtube.com/watch?v=J9bA34-mR1A
リンクはパフュームのダンスを有志が勝手に編集したものですが好きです。よくできてる。

こういう同じメロディーをちょっとずつアレンジを変えながら何遍も何遍も繰り返す音楽が好きなんですがある種の偏執狂なんですかね?

昨日、とある事情で「やばい」というセリフを50回くらい聞いたのですが、「やばい」という言葉に含まれるニュアンスは非常にたくさんあるので、毎回これは一体どの程度の意味なんだろうと思いながら聞いていました。

雨月物語の語りの中で「すさまじき◯◯」という形容詞が同じ段落に続けざまに使われている箇所があるのですが、文脈を追って読めば同じ「すさまじ」でも一つ一つ違う情景が読者の脳裏に浮かぶよう巧みに使われているそうです。クドクド細かい描写を重ねることをせず、あえて「すさまじ」で済ませることによって、読者のイマジネーションの広がりを助けていいるわけです。微に入り細に入ればいいというものではないってことですね。
ところで最近マンガなり(漫画はまだ少ないですが)ドラマなり映画なり見ていて、説明過多だなぁと思います。みんなすごい自分の感情を説明するし、みんなすごい自分の意見もってるし、みんなすごい理解力あるやんすごいやんって思いますが、現実との乖離が激しすぎて一体どこの次元に住んでるみんなの話だろうと思ってしまいます。逆に、ギャグ漫画日和なんかの説明過多の風潮をを逆手にとった笑い(たぶん)がツボにはまるっていう。
本日のまとめとしては、「やばい」だけしか使ってはいけない縛りで一日社会生活を送れるかどうか実験できるかしらと思いました。
誰か既にやってそうですが・・・。






追記。
昨日某場所某シチュエーションで繰り返された会話。

Hさん「いやーやばい、マジやばいすよね」
me「そんなにやばいかなぁ」
<A>
Hさん「やばくないんすか?!まじですか?」
me「どの程度やばいかによるやん」
Hさん「やばいでしょまじで。うわやばいわ」
me「だからやばいってどういうことなん。やばくはないんじゃないの」
<A>にもどる、繰り返し

これが昨日最低三回は繰り広げられました。書き出して気が付きましたがお互い最低一回はセリフにやばいを使っていますね。『発言するときは最低一度やばいを使うこと」というルールを定めれば現実的にも実験可能なのではないかと思いました。いわば俳句における季語ですね。不幸にもこの記事を読んでしまった人は明日会話の中に毎回最低一度、それとなく「やばい」を入れてみましょう。もしそれで変に思われなかったら会話の相手がやばい奴です。

誓った話

2016-03-01 23:47:39 | 
帰りの電車で、頭の禿げた人をみた。それもただ単に髪がないとか少ないとかいうのではない。頭頂部がきれいに禿げている。それもただ頭頂部が禿げているだけならいちいち気にも留めないが、その人は頭の側面の主に左サイドにまだ幾分かの毛量があって、それを伸ばして頭頂部に向かって禿の部分に被せるようにに流すことで頭頂部を隠していた。簡単に言えばバーコードスタイルである。しかしバーコードよりは毛量が多めなのでまさしく自家製の簡易カツラだった。
もしもそれが何の心配もいらないバランスをキープしあるべき姿のままでいたなら、私も特に注目せずそのまま読書を続けていたはずだ。しかし恐らく朝は無事セットされていたその部分は、夜七時過ぎには固めていた整髪剤が落ちてしまったのか、頭頂部を守るという任務を放棄し、塊になってごっそり顔の方に垂れ落ちていた。絶妙なバランスで眉毛と上瞼に引っかかっていた。頭がそんな状況であるにも関わらず、宿主はよりによって顔をやや下目に俯けて読書をしていた。完全に崩れてしまわないか、毛先が目に入ってしまわないか、本人は気にならないみたいだが、見ているこちら側は気が気でない。たったワンモーション、片手で掬って頭頂部に流すか諦めてサイドに流すかしてくれたら私の気は休まるのに、一向にやってくれない。彼がページをめくったり身体を揺らすたびに、見てはいけないと思っているのに何度も勝手に視線がそちらにいってしまった。あそこまでいくと読書する視界にも影響がありそうなものなのに。結局、何故ワンモーションを出し渋るのかわからないまま、私が先に電車を降りるまで彼は一度も自分の髪に触れなかった。

基本的に父の自虐ハゲネタにすらあまり笑えた試しがない私ですが、今回わかったのは、ああいうのは運悪く崖に際どいバランスでひっかかっている岩を発見してしまったのと同じようなもので、一度視界に入るとその不安定さ故に本能的に否が応でも注目してしまう、不可抗力の側面が強いということです。そこに揶揄とかバカにするなどの意味が含まれるとすればそれはあくまで観察者の人間性による副次的な生産物で、本質ではありません。前段階に、テーブルの隅に置かれたガラスのコップ(落ちたら割れる!)とか、岩場をよちよち歩きする子供(こけたら危ない!)を目の当たりにしたとき人間なら誰しも抱く、プリミティブな心理の動きがあることを我々は忘れてはならないと思いました。
実は最近ちょっと額の生え際が気になり出し、人様の視線が怖くなってきた矢先だったのですが、もし自分がそのような含みを感じる視線に晒され、はっきりそれだと気付いてしまうことがあったとしても、それはいわゆる崖の岩の心理に過ぎないのだと、”ああ、この人はいま私を通して崖をみている。私の崖の不安定な岩が落ちないか心配してくれている。ありがとう。いつも見守っていてくれて。”と、逆に感謝の念を胸に抱く位に、己に誇り高く生きていくべきであると私は髪に誓いました。