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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

グレゴリー・クラーク氏 2/2

2019-11-28 08:29:20 | 文化

>外から来た思想に対しては排他的で、外国人は寛容に受け入れる。(つづく 編集担当:米原裕子)

中国人は、自分たちの考えを示すために漢字を作ってきた。しかし、外国人の考えを示すためには漢字を作らなかった。だから、外国人の考えは受け入れにくい。だが、外国人そのものは受け入れる。だから、彼らは多民族国家をつくっています。

>7.イデオロギーが軽薄で頼りない。
>これは日本の政治の世界で際立って見受けられる。
>真っ向から対立しているように見える自民党と民主党ではあるが、政治理念はほぼ同じだ。

そうですね。或るのは序列系列の違いに基づく対立ですね。

>だからこそ、2006年に小泉純一郎元首相が郵政民営化を掲げて、選挙で劇的な勝利を手に入れることができたのである。
>8.感情的で好戦的である。
>中国への侵略、どこまでも自制心が効かず、戦争を拡大させ、南京大虐殺という悲劇をも生んだことがいい証拠である。

日本人には批判精神 (critical thinking) というものがない。だから、暴走に歯止めがかからない。自然消滅を待つばかり。
批判精神を表すには、’あるべき姿’ (things as they should be) と ‘今ある姿’ (things as they are) の内容の比較が必要になります。日本人には ‘今ある姿’ (現実) があって、’あるべき姿’ (非現実) の内容がない。だから、批判の比較はなりたたない。それで、批判精神は想定外になっています。

>9.外交・経済政策において、戦略性に欠ける。
>クラーク氏は日本の外交ははっきりと定まった理念がなく、典型的な日和見主義であると主張。

日本人には、意思がない。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は、仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。高見の見物・待ちの政治が多い。

>また、経済政策においても短絡的で、日本経済の10年にも及ぶ停滞を招いた主な原因もそこにある。

日本人に理念 (idea) は無い。日本語は、現実描写の為の言葉である。しかるに、理念は非現実 (考え) の内容であるから、日本人にとって理念は想定外になっている。そして、その政策も ‘行き当たりばったり’ (happy-go-lucky) になっている。

>10.合理性に欠ける。
>例えば、日本には整った義務教育のシステムがあるにもかかわらず、大学教育となるとありきたりである。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>日本に合理主義というものは存在しない。

矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。人の考えはさまざまである。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えに変わる。このためには、対話・議論が有効である。我々は、これらの手段を盛んにしなくてはならない。


>周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。

日本人は絶えず空気を読んでいる。だから、周りの影響を受けずにはいられない。

>11.政府の力が弱く、派閥争いが目立つ。

考え (非現実) の内容は、哲学になる。政治に関する考えは、政治哲学になる。日本人には、政治哲学がない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

>日本は中央政府がなくても、地方自治だけで十分賄えるとクラーク氏は言っている。
>12.道徳観念は根本的に恥を重視し、罪悪感は重視されない。

日本人には意思がない。だから、加害者意識もない。罪の意識もない。あるのは被害者意識だけである。

>日本人は礼儀正しく、よく笑い、規律を守り、人に対して誠実であるにもかかわらず、過去の罪に対しては、目をそむけ真剣に向き合わない。

日本人は、自己判断ができない。だから、その行動に支障をきたさないように、あらかじめ作法というものを教え込んでおく。だが、罪に対する作法はない。罪は意思から派生するが、日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容である。だが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>その理由はこの道徳観にある。
>13.日本人は法律が嫌いである。>これに関しては、不思議がる人もいるだろう。>なぜなら日本はアジアの中だけで考えても、法治国家に属する。>レゴリー・クラーク氏は、日本人は西洋人と比べて内々に事を解決することを好み、止む終えない場合だけ裁判を起こすのだと主張した。

日本人は内内を大切にし、公 (おおやけ) を好まない。日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) があって意思がない。意思 (will) は未来時制の文章内容になり意味があるが、恣意 (self-will) はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので意味がない。だから、議論にはならないで談合 (腹の探り合い) になる。

> (編集担当:米原裕子)


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グレゴリー・クラーク氏 1/2

2019-11-28 05:00:05 | 文化
(略)
>この71歳のオーストラリアの学者は現在、日本国際教養大学の副学長を務めている。>クラーク氏は一人の西洋人として独自の見解を持っている。
>日本は島国で、集落文化を中心に発展してきたため、彼らの価値観は本能的であり、さらに言えば、感情的で現実的であると主張する。

日本語は、’今・ここ’ に根ざした言語ですからね。現実を反映して、非現実 (考え) の内容をしめしていない。

>  一方、中国は大陸文化で、長い間、周りとの衝突や接触を繰り返してきているため、価値観はより理性的だ。

中国においては、全ての考えは漢文になる。漢文にならないものは考えではない。漢人 (中国人) は、自分たちの考えを表すために漢字を作った。しかし、外国人の考えを表すためには、漢字を作らなかった。だから、漢人は外国人の考えを受け入れることが難しい。一方的な自己主張となります。

>これらの観点に基づいて、グレゴリー・クラーク氏は日本人の特徴を13の項目にまとめ、中国網日本語版(チャイナネット)が報じた。
>1.過度な「群れ意識」を持ち、命令に従う習慣がある。

序列制度と上意下達のことですね。

>日本人の行動は組織立っていて秩序的であり、その良いところは、皆が従順で統制が取りやすいところであるが、一旦、性質の悪い勢力が権力を握ると、全国民がそれに従ってしまう。>その典型的な例が第二次世界大戦のときの外国への侵略である。

日本人には、批判精神がない。だから、暴走に歯止めがかからない。

>2.個人間の関係は驚くほど誠実なものである。>これについては、私自身、印象深い体験したことがある。>大阪付近の小さな村の駅に無人の野菜売り場があった。>袋に入った新鮮な野菜が置かれており、横に置いてある板切れには、1袋100円と書かれていた。誰も店番をしている人はいないため、箱にお金を入れるかどうかは、すべて買う人の良心に委ねられる。>そして、日本では物を落としてしまっても慌てる必要はない。>なぜなら、ものを拾ったら、一番近くの交番に届けるというのが日本の一般常識であるからだ。

日本人には意思がない。自己判断がきかない。全てにおいて一般常識が頼りになる。

>3.日本人は完ぺき主義者であり、極端なほど秩序にこだわる。

それは、日本人は自己判断ができない。だから秩序をよりどころにするしかない。

>日本人が秩序を守ることは、全世界が知るころである。>世界の観光名所で、旗を持ったガイドの後ろで列を作って黙々と付いていく一塊の人がいたら、それは絶対日本人である。

今ではあまり流行らなくなりましたがね。

>彼らの完ぺき主義を表わす典型的な例は、彼らのトイレの清潔さをどこまでも追い求めるところにあるのではないだろうか。>日本のホテルの部屋はどれも大きくはないけれど、トイレのきれいさは有無を言わさず完璧である。>良いホテルになると、高級な自動水洗トイレが付いている。>この点に関しては詳しい説明は要らないだろう、使ったことのある人だったら、直ぐに分かるはずだ。

日本人はキレイ好きである。気分・雰囲気を重んずるからである。

> 「4.手作りが好きである」

日本人は、目先・手先の内容に精神を集注します。しかし、全世界 (global)・万人共通 (universal) の内容については無関心です。

> 「5.チームワーク意識が強く、身内だけでやるような家族企業の管理に長けている」

家族内においても、序列制度は生きています。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列判断ができないと、日本語の日常生活に差し支えるほどであります。
その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断が疎かであっては礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに礼儀なしです。
‘人を見損なってはいけない’ という想いが高じて、強迫観念の域に達しています。だから、日本人は緊張して堅苦しい日常生活を送っているのです。’頑張って’ とか、’お疲れ様’ とかお互いに声を掛け合って励まし合っています。

> 「6.外国のものには、開放的で、広く受け入れるのに対し、外国人に対しては排他的である」と指摘。

そうですね。人間序列は排他的な制度ですね。しかし、ものには序列制度が通じませんから開放的ですね。

>3~6の特徴は、日本の工業化が急激に進んだ要因であると考えている。

そうですね。日本の製品は仕上がりがよい。お陰様でわが国は技術立国を経て経済大国になりました。

>  面白いのは、これらの特徴に対して、中国人は日本人の間逆であると言うことだ。>中国人は『知らないふりをしたほうがいいときには、そうしなさい。時には一歩引くことも大事である』との考えや、『その時々に応じて、どちらにも偏りがない考え方をしなさい』との考えを大切にしている。

中国人には序列制度がないから、我田引水が少ない。

>抽象的な信念について論じることが好きで、具体的な行動には移さない。

中国人は抽象論をするが、世界観がない。来るべき世界を論ずることはない。


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教養

2019-11-27 10:52:20 | 教育

(略)
>■身につけるべきは「教養」
>しかし、たとえば視野の拡大、思考の深化、全人格的な能力が向上すれば、時代がどのように変化しても対応し十分に乗り越えて行けるし、変化そのものを創り出す側に回ることさえできます。

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

> 人間が他の動物と違って親の庇護のもとにいる時間が長いのは、環境変化を乗り越えられる底力を、それこそ長い年月を使ってじっくりと培っているからだと言われることがあります。 >そう考えれば、教育に求めるのはテストの点数やどこに進学したかということより、もっと根源的な思考力の獲得であり、それは目先ですぐ成果が出ない教育であるべきだということがわかります。 >そのひとつが「教養」です。

現実の内容は ‘今ある姿’ (things as they are) の文章になります。
非現実 (考え) の内容は、’あるべき姿’ (things as they should be) の文章になります。
前者と後者を比較して前者を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) を示したことになります。
だが、日本語には、前者だけしかないので、日本人には批判精神がありません。
そこで、日本人の比較論議は、現実対現実の枠内に限られることになります。一般的には、この論議は個人の特徴評価というよりも同次元の上下判断になることが多いのです。
だから、上下信仰・序列信仰・偏差値信仰がこの国に蔓延しています。
しかし、日本人は ‘それでどうした’ (So what?) の疑問には答えることができません。自己主張ができない。奥がない。それで、日本人は浅薄な人間であることが知れ渡ります。

>たとえば樹齢数百年の巨大な神木を目の前にしたとき、受験勉強だけをしていたら「この木は〇〇という種類で〇〇のような気候条件があったためここまで育った」としか出てこないでしょう。>しかし教養が育っていれば、その大木がタネから芽を出し、様々な風雪や病害虫に耐えて育ち、人々から敬われるようになったという時間や空間を超えた文脈、そして原風景までに思いを馳せられる感性や想像力が発揮されます。

受験勉強は、何処までも処世術 (現実) に裏打ちされていますね。

>そうした感受性や応用力を持てば、自らの力で人生の展開を構築することができます。>もちろん、より文化的で心豊かな人生にもなります。

受験勉強は、唯一の正解を求める励みですね。

>■親が「偏差値信仰」に陥ってはいけない
> ガリ勉させて得た進学実績などほとんど価値はなく、ガリ勉しなくても東大に合格するような根本的な能力の獲得の方が重要です。

あくまでも序列信仰にこだわっていますね。

>なぜなら、東大のようなトップ校ほど、深く考え、複雑な文脈を理解し、知識を横断的に統合する必要がある、思考力を問う試験だからです。>海外の名門校はさらにその傾向が強いと言えます。

日本人には、非現実 (考え) の内容がありません。ですから、英米流の高等教育は身に付きません。留学帰りの若者は役に立たないでしょう。

>それはこれまでも繰り返し述べた通り、自由に発想し、知的好奇心を持って課題を発見し、クリエイティブな方法で探求・解決し、それを表現・実現する経験を積むことです。

自由とは、意思の自由のことですね。しかるに、日本人には意思がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ ということになります。

> 特に、ことさら進学実績をアピールする学校は要注意です。>ペーパーテストで良い点数を取ることしか頭にないからです。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列メンタリティ (考え方) がないと、日本語の日常会話にも差支えが出るほどです。そのうえ、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人になることもできません。人を見損なってはいけないという想いが高じて、強迫観念の域にまで達しています。ですから、日本人は、堅苦して日常生活を送っていて、’頑張って’ とか ‘お疲れ様’ とか言い合ってお互いに励まし合っています。

>すると、それこそ18歳の春が能力のピークで、あとは下降するだけ、ということになりかねません。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>だからこそ、親が偏差値信仰の強い学校の手先になってはいけない。

わが国の親も学校も、偏差値信仰から無縁となることが望ましいですね。

>ペーパーテスト「だけ」ができるよりも、むしろペーパーテスト「でも」高いパフォーマンスを上げられるよう、親は学校教育とはまた違った目線で、子どもの個性を伸ばす教育を意識する必要があります。

具体的には、どうすればよいのですかね。

(略)


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無理な詰め込み教育の結果 2/2

2019-11-26 11:41:45 | 教育

>もう一つ提案があります。>入試制度を変えるのです。>中学入試も高校入試も、問題数が多すぎます。>これは考える力を見るための試験ではなく、暗記力を測るための試験です。>だから問題数を思い切って大問題に絞り込み、考える問題を中心に出題する。>ただし、じっくり考えなければ解けないような問題です。> 大学入試を頂点とする入試制度を、すべて思考力を問う形式に変える。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えでない。
矛盾を含まない文章は全て正しい考えを表しています。ですから、正解はただ一つではない。考えの内容は、人それぞれです。だから、正解は無数にある。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が役に立ちます。だから、対話・議論を盛んにする必要があります。

>そうすれば、まず学校での教育が変わるはずです。>当然、受験産業のあり方も変わってくるでしょう。>教育関係者はもとより、親の意識も考えることの重要さに向くはずです。>入試改革による教育制度改革に手をつけるべきです。

教育の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容はハッキリすれば、そのための制度改革も内容がはっきりしますね。我々には、行き着く先の内容の明確化が何よりも大切ですね。さもないと、手段の目的化が起こってせっかくの努力も徒労に終わることでしょう。

>■ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもの育成を
> いずれにしても、悠長に構えている暇はありません。>残された時間は、そんなに多くはないのです。>一刻も早く思考の授業を取り入れることで、ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもを育てなくてはいけません。

そうですね。我々日本人は、無哲学・能天気の状態ではいられませんね。’考え人’ になりましょう。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制に対する重要性を深く理解する必要がありますね。時制の使い方を覚えれば、自己の考えも思うがままに表現できます。相手の考えかたも理解できて、自己の信頼も得られます。英米人は、日本語を話す時でも、日本語特有の閉塞感に煩わされることはありません。彼らの考え方には、色々あるからです。我々も彼らに倣って日本語を使いましょう。さすれば、日本語の良さをも合わせ持つことにより ‘鬼に金棒’ の民族になることでしょう。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

> ***


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無理な詰め込み教育の結果 1/2

2019-11-26 11:15:23 | 教育
 
>匿名希望 ( 20代 設計 ) 19/09/16 PM09 【印刷用へ】 >リンク より引用しています。 > ***
>■無理な「詰め込み教育」の結果…
>日本の教育制度は、明治維新以来、基本的に変わっていません。>教育とは教えて、暗記させること。

そうですね。以前から弟子が師匠に教えを乞うことですね。

>子どもたちの考える力を育む教育とはなっていないのです。

そうですね。’考える力’ は無理ですね。

>時代が大きく変わりつつある今、学校教育も転換すべきだと考えます。

どのように変えたらよいかが我々の問題ですね。

>日本の教育の現状には強い危機感を覚えます。

同感です。無哲学・能天気の民族でいては、一寸先が闇ですね。危険この上もない状態です。

> 今行われているのは、無理な詰め込み教育です。

そうですね。わが国の学生は、記憶装置との競争を強いられていますね。

>2002年から導入された「ゆとり教育」は、子どもたちの学力低下を招きました。>これを反省して2008年に告示された学習指導要領では、学習内容が増やされ、授業時間の10%増などが盛り込まれています。>その結果、とにかく多くの知識を詰め込むためのカリキュラムが組まれています。> 急いで量を詰め込んでも、子どもたちの頭はまったく動きません。>教えられる、すなわち受け身の状態では、頭は活性化しないのです。

そうですね。‘受け身の姿勢’ や ‘待ちの政治’ では、自己の構想は実現しませんね。

>そんな授業で、頭が柔らかくなることはあり得ません。>つまり、今の学校教育を続ける限り、子どもたちが頭を使えるようには絶対にならないのです。

そうですね。困ったものですね。

(略)
>■すべての入試制度を「思考力を問う」形式に変更すべき
>学校教育に「思考教育」を取り入れるためには、教員養成系の大学で教師を志望する学生たちにも、思考教育のやり方を学ばせる必要があります。

そうですね。現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見れば分かる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、その文章を文法に従って理解する必要がある。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は、理解を避けて通る。
日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度は、理解とは似て非なるものである。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。つまり、現実直視になっていない。そのことを忖度の主に話すと、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と言って反発する。だから、日本人は議論にならない。歌詠みになる。

>だからといって思考教育を実践するためのマニュアルなどはありません。>そんなものは不要です。> 子どもたちに寄り添って、子どもたちと一緒に考える。>決して教えず、子どもたちを励ます。

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章として表現することができます。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を表します。これらの非現実の世界は、個人の世界観 (world view) と呼ばれています。人生の始まりにはその内容は白紙の状態にありますが、年を取るにしたがって誰しもその白紙状態が気になってきます。それで、人は ‘考える人’ になります。自分の考えでその白紙の部分を置き換えてゆきます。その考えの内容は、哲学と呼ばれます。歴史に関する考えは、歴史哲学になります。宗教に関する考えは宗教哲学に、政治に関する考えは政治哲学になります。
科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなど。
思春期になると言語機能が飛躍的に発達するので、英米人は英米流の高等教育機関に進学します。そこで自分の哲学を完成させて、学士・修士・博士と称号を得てゆきます。
しかるに、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人には哲学 (非現実に関する内容) がない。私は、日本人のインテリから、’哲学とは何ですか’ と何回も尋ねられた。彼は、日本の大学で哲学の勉強をしなかったのかもしれない。それとも、西洋の哲学者の内容を丸暗記していたのか。自己の哲学がないから、無哲学・能天気の状態でいます。
哲学が想定外となっている思考停止の人々の序列争いは、勢い暗記の競争にならざるを得ないでしょうね。そして、ここから抜け出す道は無い。


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