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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

菊と刀

2018-11-26 14:20:11 | 文化

>『菊と刀』の日本人観
>佐藤:ルース・ベネディクトの『菊と刀』を、かなり批判されていますね。>「西洋人は原理重視で個人主義的、確固たる自己を持っており自律性が高い。日本人は状況重視で集団主義的、協調を重んじるので自律性がない」という有名な主張は間違っていると。

そうですか。

>施:今回の拙著のテーマは、「日本文化における自律性」です。>特に、前半では、そうした陳腐な日本観を批判しています。
>日本の構造改革論の根底には、「日本人は自律性・主体性に欠け、集団主義的・同調主義的で、時として軍国主義にも陥りやすい、劣った文化と倫理観の持ち主である」という自己批判的な認識があると指摘しました。>戦後の日本では、特に、進歩的文化人と呼ばれる人たちの間で顕著でしたが、「こうした日本的な集団主義的文化を、よりアメリカ的な自律的で個人主義的な文化に変えなくてはならない」という主張がなされてきました。>このような見方は、左派だけでなく、構造改革を推進してきた一部の右派も共有しています。

そうすると、挙国一致の見解ということになりますね。

>最近、日本大学のアメリカンフットボール部の反則指示問題がトップニュースになりましたが、そこでもやはり「日本の組織は集団主義・同調主義的で、みなボスの言うことに従うだけ」という論評が見られます。

付和雷同の傾向ですね。

>中野:「日本」大学だけに(笑)。

外国の大学での話は、わが国ではあまり話題になりませんね。

>施:ははは。こうした見方の源流の1つをベネディクトの『菊と刀』とみて、その是非を検討したわけです。

わが国における ‘菊と刀’ の影響力は強いですね。

>私自身はベネディクトの見方は一面的であり、日本にも、欧米とは異なる形のものだが、日本型の自律性、主体性が備わっているという考えです。

日本特有の自律性・主体性ですか。

>佐藤:ベネディクトによれば、欧米は「罪の文化」で、日本は「恥の文化」とのことですが、十分に内面化された恥の意識を、罪の意識と区別するのは不可能です。

欧米人には、意思がある。意思があれば、加害者意識を持つ。加害者意識が強いと、罪の意識にもなる。贖罪の宗教も必要になる。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。
意思がなければ、加害者意識もない。これは、アニマルも同じである。あるのは、被害者意識ばかりである。大人でありながら、罪の意識を持たない人を見るのは実に恨めしい。恨めしやー

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断が的確でなくては、正しい日本語を話すことも難しい。
日本人の礼儀作法は序列作法になっていて、世俗の序列判断が正しくなければ礼儀正しい日本人にはなれない。だから、序列意識はいやがうえにも旺盛になる。
下とみられたものは、敗者の礼をとる。これが屈辱でなくて何であろうか。だから、屈辱を受けた日本人は恥ずかしい。恥ずかしいから頑張る。

罪の意識と恥の意識は、言語に意思のあるなしによって分けられるのでしょう。文法に、時制のあるなしによって分けられるようです。

>日本人にも自律性・主体性がないはずはない。>具体的な表れ方に違いがあるだけでしょう。

日本人は、言語による自律性・主体性の表現に乏しいようですね。

>施:欧米型の、人をそれぞれが独立した存在とみなし、自己主張とぶつかり合いを前提とする「相互独立的自己観」「原理重視の道徳観」に対し、日本では多様な、さまざまな他者の観点を内面化し、その多様な他者の観点から自分の行いを自己批判的に反省し、他者とよりよき関係を保とうとする「相互協調的自己観」「状況重視の道徳観」が文化の基本となっている。

自己主張を抑えて、あくまでも様子を見ているのでしょうね。

>日本人は他者の視点から自分の行動を反省することを通じて他者の多様な観点を内面化し、反省を繰り返す。

‘人のふり見て、我がふり直せ’ と言うことになりますか。

>日本型の「自律性」とは、このように、多様な他者の観点を内面化し、内面化したさまざまな角度から厳しい自己批判を行い、つねに、幅広い視野の下、真に状況にかなった行為を絶えず追い求めていこうとする姿勢のことだと考えています。

多様な他者が存在し、独自の自己が不在ですね。‘お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか’ ということになりますか。

>成長するにしたがって、身近な特定の他者の観点のみでは満足できなくなり、より広い世間の観点を意識し始める。

’あるべき姿’ は非現実の内容ですから、日本人の脳裏には定着しませんね。ですから、日本人には自己がない。

>ひいては、いわば「お天道様」の観点、つまり状況のすべてを把握している理想的な観察者の評価に沿う行為をとろうと絶えず努めるようになる。

全てを肯定することは、何も肯定していないことになるのでしょうかね。自己の基準による判断が下せない。つかみどころのない人間となるでしょう。

>周囲の評価はどうあれ、「お天道様」に恥じない行為を目指すのです。

相手との対話を重視する姿勢はとらないのですね。

>日本文化には、こういう「自律性」に至る道がきちんと内在していると見ることができるというのが、拙著の主張です。

対話は大切ですね。そうでなければ、独りよがりの想いに耽ることになりかねませんね。


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個性

2018-11-26 03:01:36 | 文化


>アメリカ社会は今も集団主義的
>中野:アメリカ社会は今も集団主義的ですよ。>日本人でもアメリカをよく知っている人ほどそう言います。

あなたは受け売り専門の方ですか。

>しばらく前にはやった「忖度(そんたく)」という言葉について、「そういうことはアメリカにはない。英語にはない」なんて言っていた人がいましたが、うそを言ってはいけません。

英語は、低文脈文化の言語ですから、すべての内容は文章の中に表れています。文章の中に表れていない内容は、考慮の対象にはなりません。

>忖度なんてものはアメリカでも普通にありますよ。

忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者に責任はありません。独りよがりの態度です。ですから、忖度の内容は議論にはなりません。

>むしろ映画などで組織に従わない個人がヒーローになっているのは、その反動じゃないかと。

Outlaw (無法者) は、文字通り社会からの追放者ですね。アメリカ人は、対話を重視しています。

>構造改革論者は「個人主義でなければだめ」と言いたがりますが、それは個人主義を称揚するアメリカメディアのプロパガンダを真に受けているからです。>実際はアメリカ人が個人主義なのではなくて、アメリカ人の理想が個人主義ということにすぎない。

自己の理想を明らかにすることが、協力者を増やす道ですね。現実生活においては、清濁併せのむ必要に迫られます。それが、人生の葛藤というものでしょう。中庸の徳を見つける努力が必要です。

>佐藤:だいたい、わが国では「個を確立しよう」と説く人ほど没個性的と相場が決まっている。>アメリカ化への同調を強いているのですから、当たり前の話です。

アメリカ化に同調すれば個の確立が得られないというのもおかしな話ですね。個の確立に同調すれば、個の確立が得られるのではないでしょうか。同調が没個性的というのではなく、没個性的な人も、同調する可能性があるということでしょう。

>中野:多様性が大事なら、みんなで「ダイバーシティ」なんて口をそろえて言うなということですよ。

口をそろえていったか、言わなかったかの問題ではなさそうですね。「ダイバーシティ」(非現実) の内容を現実の世界において実現できるか否かの問題だと思いますよ。考えは、個人個人で違っている。意思のない人たちは、現実生活で個性的になれませんね。

>そういうのを見ていると、施さんの本とは逆になるけれども、「日本人ってやっぱり流されやすいのかな」という気もしてしまうんです。

意思のない人たちは、没個性的です。「ダイバーシティ」は、日本人の単なる流行語ということになるのでしょうか。無哲学・能天気の人達は、時流に流されますね。

>柴山:集団主義という言葉はあいまいなところがありますね。>人と違うことをやるという意味での個性を認めるのが自由社会だというのがジョン・スチュアート・ミルの古典的な自由論でしたが、集団主義はその反対ということなのか。

ご唱和の世界の人々のことですかね。

>佐藤:福田恆存は「個性は強制と禁止によってしか生じない」と喝破しています。>いわく、人間は強制や禁止の下で初めて、何を強制されたり禁止されたりするのがいちばんつらいかを自覚する。

‘不自由を常と思えば不足なし’ でしょう。日本人は意思がないから、元来おとなしい。

>つまり本当にしたいことが見えてくるわけで、それこそが個性確立の出発点である、と。

日本人には意思がない。だから、本当にしたいことが見えてこない。理想がないので、本当にしたいこともわからないでしょう。無為無策でいる。この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。

>柴山:あえて禁止されていることを行うエキセントリックな人間を個性的と考えるわけですね。>しかし日本にも「数寄者」「傾奇者」というように、そういう人間を認める文化もありましたね。

人間固有の言語の効用を無視した、アニマルの次元の個性の話になりましたね。個性的とは非言語の世界の変わり者のことではないでしょう。考え・意見の違いのある持ち主の話でしょう。

(略)


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エアコンの自由

2018-11-25 10:53:21 | 文化



>アメリカ型個人主義の裏側
>柴山:ミシェル・フーコーが50年前に、近代社会は規律訓練型権力で成り立っていると指摘しましたが、アメリカを見ていると本当にそう思います。>表向きは自発的に行っているように見える行為でも、実際にはそうするよう強制され方向づけられている権力の働きは、たとえばアメリカの大学文化によく表れている。

それは、野球の試合に参加しているようなものでしょう。野球の規則がアメリカの文化をよく表しています。実際には、そうするように強制され方向づられています。

>授業の前に大量の文献を読ませ、出席を取り、レポートを提出させ、ゼミでは発言しないと点をやらないとか、こういう仕組みをよく思いつくなと感じますね。

文献を読まなければ、授業に出ても意味ないですね。何事にも自発性がなければ、勉強したことになりませんね。

>日本の大学は、もともとそういうシステムとは相性が悪い。>一昔前の京都大学が典型ですが、そもそも「大学に行くこと自体が格好悪い」という考え方がまかり通っていましたし、大学側にも「期末試験は知人のネットワークでノートを集めて対策を立てろ、あとは好きなことをやってくれ」という緩さがあった。

それは、授業料の無駄ということですね。序列社会においては、大学に自分の名前を連ねることに意義があるのでしょうね。日本人には意思がないのでアメリカのシステムには相性が悪いのでしょう。

>中野:日本型自由主義ですね(笑)。

日本人は、序列の虜になっているのでしょう。不自由を常と思えば不足なしか。

>柴山:その日本型自由主義は、アメリカ型の規律訓練型個人主義とはずいぶん違うんですよね。>その意味でも、個人主義や自由主義については表面だけではなく裏側を考えたほうがいい。

非個人主義や非自由主義はその裏側であり、序列制度はその裏の裏ですね。

>アメリカ型自由主義で秩序が成り立つのは、裏で権力装置が巧妙に働いているからです。日本を個人主義社会に変えるということは、日本人を徹底したパノプティコン(全展望監視)権力の下に作り直すということになりますが、はたしてそれが可能でしょうかね。

それは、無理でしょうね。日本人は、グランドデザイン・マスタープランの作成が苦手ですからね。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、非現実の内容を文章にすることができません。ですから、日本人には世界観 (非現実の三世界) がない。すると、過去・現在・未来の内容を脳裏に蓄えることができません。そして、権力装置を働かせることもできません。

>佐藤:社会的関係と言えば、アメリカはちょっとしたことでも必ず契約を交わします。しかもそれが細かい。条項に記されていないことは好きにやっていいはずですが、何も勝手にできないよう、思いつくかぎりの点をすべて明文化しておくんですね。

そうですね。問題が発生してから考えるのでは、’あとの祭り’ ですからね。何事も、想定内に置いた方が良いのです。想定することは、条項として明文化することを意味します。

>中野:みんながフェイスブックやインスタグラムで自由に発言しているように見えて、実はすべての書き込みがグーグルやフェイスブックの管理下に置かれている。

そうですね。情報は、貴重な財産ですからね。管理が必要です。

>佐藤:これを「エアコンの自由」と言います。つけるかどうかは任されているし、温度設定も好きに決めていい。ただし窓は開かないようになっている、という次第。

ちょうど、野球の試合に参加しているようなものですね。野球の規則は守らなくてはならない。それを容認すれば、規則内では個人は自由にできます。

>柴山:アメリカ人はそういう規律訓練装置を発明するのが抜群にうまいと思いますね。>個人的自由の裏側で、徹底した社会的訓育が行われている。近代的主体ってそういうことなんで、その意味でもアメリカは近代のフロントランナーです。

まったく同感です。

>中野:先の大戦で日本が負けた理由はそこですよ。しかもそれを個人主義だと周囲に思わせている。

個人的な発想は、すべての発展の源泉ですからね。個人主義は大切です。

>佐藤:国民の文化的バックグラウンドが多種多様なだけに、「どんなヤツでも制御できる規律」が必要になります。>行き着く先は「エアコンの自由」。>それを自己責任で選び取ったかのごとく構えるのが、アメリカの個人主義なのです。

気に入らなければ、出て行けと言うことでしょう。’出て行く・行かない’ は、個人の自由ですからね。


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自由奔放

2018-11-25 04:21:04 | 文化


(略)
>佐藤:「歌舞伎」は、「自由奔放に振る舞う」「異様な身なりをする」という意味の「かぶく」が語源です。個性を尊ぶ伝統は、わが国にもちゃんとあるわけですよ。

それは、考え (非現実) の内容に着目しての個性ではないようですね。アニマルと同じ次元の個性でしょう。

>中野:おそらく日米双方に「集団主義はカッコよくない。個人主義がカッコいい」というバイアスがあるんでしょうね。実際はどの国にも両方の側面があって、時々によって、どちらにより強いハイライトが当たっているかが違うだけでしょう。

日本人の場合は、徹底的に個人主義がないですね。個人主義は、利己主義の言い換えのように考えられているようでしたね。

>佐藤:『菊と刀』を理解するカギは、第2次大戦中の敵国研究として始まったことです。

そうですね。‘彼を知り己を知れば、百戦危うからず’ ですね。わが国にも敵国研究の成果はあったのでしょうかね。

>アメリカは当時すでに、日本占領を視野に入れていました。

彼らは、計画的ですからね。わが国のアメリカ占領計画の方は、どうなっていたのでしょうかね。

>全体主義に走った日本人を矯正するつもりだったのですが、そのためには条件があります。
>つまり日本人を「今のところは異質で『悪』だが、正しく導けばアメリカ的な『善』にめざめる存在」と位置づけること。

そうですね。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。

>すなわち、この点を矯正したら日本人もよくなるというターゲットを見つけだす(ないし、でっち上げる)ことが求められていたのです。

そうですね。合理的な努力ですね。

>ベネディクトはそれを「恥の文化」や集団主義として提示したのではないでしょうか。

そうでしょうね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断なしには、日本語を上手に話すことは難しい。だから、上下判断は、日本人について回ります。日本人の礼儀作法も世俗的な序列作法になっていて、下の者は敗者の作法を強いられることになっています。それで、敗者は日本人の恥である。負けじ魂が ‘恥の文化’ を作っている。生きて虜囚の辱めを受けず。
日本語は、写生画のための言語である。現実を表現するのに適している。現実は、頭の外にある。その内容は見ることができる。これに対して、非現実 (考え) は頭の中にある。内容は見ることができない。現実の内容は唯一であり、非現実の内容は個人の数だけある。
唯一の内容を真理として強調すれば、多数の個性的な内容は消えてなくなる。日本語文法には、非現実の内容を文章にして表現する構文 (時制を伴う) がないので、内容は唯一になる。だから、日本人は現実主義になり、集団主義 (個人差を抹殺する主義) になる。
国家の意見というものは、自然に聞こえてくるものではない。代表者が選ばれて、彼自身が責任をもって自己の意見を答えるから、国の意見は存在するのである。没個性で洗脳されている日本人は、代表者個人を尊重していない。日本人は、国の代表者を自分の代弁者だと思っている。だから、この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。責任の所在を意識していないからでしょう。だから、とかくこの世は無責任。泣き寝入りする。新しい一歩を踏み出すことが難しい。精力的ではあっても、計画的ではない。

(略)


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バカの壁

2018-11-24 10:35:56 | 教育


>人間には「バカの壁」がある、と指摘したのは、養老孟司氏だ。>あいつは俺より分かっていない、俺の方がずっと物事を深く考えている、と思うと、相手の知力や能力をバカにしたくなる。

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) というものがあって、序列 (順位) の判断なしでは過ごせませんからね。何しろわが国は序列社会ですから、天下の秀才が沢山います。

>すると、相手のやることなすこと話すこと、全部愚かしいものに見えて、聞くに値しないとみなしてしまい、相手から学ばなくなってしまう、という症状を表す言葉だ。

そうですね。日本人には、何事にも序列 (順位) の判断が先行しますね。

>こうした「バカの壁」は、社会のいたるところに発生している。

‘上とみるか・下とみるか’ の判定にこだわる序列の社会においては、バカの壁は国中のいたるところに発生していますね。

>もちろん、ビジネスの世界でも。>そして、「バカの壁」ができると、ビジネスでは致命的だ。>なにせ、人の話を聞かなくなってしまうわけだから。

なにしろ日本人の話は曖昧ですから、聞き手は忖度 (推察) を活用することが多いですね。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話し手には何の責任もありません。それで、対話は成り立ちません。とかく、この世は無責任。

>自分がバカにした人の意見は、たまによい意見だと思っても「たまたまだ」「誰かに入れ知恵されたんだろう」などと、バカにする理由を探すばかりで、まともに聞こうとしなくなる。

そうですね。思考停止と受け売りの多い社会になっていますね。

>けれど、これは大変もったいないことのように思う。>どんな人の、どんな言葉にも、新しいアイデアのヒントが秘められているかもしれないからだ

そうですね。新しいアイディアのヒントは、考える人のものですからね。思考停止では、どうにもなりませんね。日本語は、写生画 (現実) のための言語ですからね。考え (非現実) を文章にすることが難しい。

>○ 人気を集めたソクラテスの姿勢
>ソクラテスは、そういう意味では、歴史上に卓抜した存在のように思える。>この人には「バカの壁」が一切なかったように思われるからだ。

考える人には、バカな壁は不要ですね。

(略)
>その中に「メノン」というものがあり、なかなか興味深いシーンが描かれている。>数学の素養のないソクラテスが、これまた数学の知識がない人間に質問を重ねるうちに、それまで誰も発見したことがなかった図形の定理を見つけ出した、というエピソードだ。

それは、ハッピーな生活ですね。

>果たしてこれは実際にあったことなのか、プラトンの創作によるものなのか、はっきりしない。>しかし、ソクラテスが自分の得意技として考えていた技術を見事に表現した場面となっている。>ソクラテスの得意技、それは「産婆術」だ。

そうですね。産婆術は有名ですね。

>○ ソクラテスの「訊く」方法
>産婆術とは、文字通り読めば、赤ちゃんの出産を助ける助産師(産婆)の技術ということになる。>ソクラテスは、無知な者同士が語り合う中で新しい知を産みだす技術のことを産婆術と呼び、自分はそれが得意だと自認していた。

そうですね。

>では産婆術とは、どんなものだったのだろう? >端的に言えば、「訊く」ことだった。>「へえ、それはどういうこと?」「こういう面白い話があるんだけど、それと組み合わせて考えたらどうなるだろう?」と、質問を重ね、相手の思考を刺激し、発言を促す。>「聞く」とせずに「訊く」としたのは、相手の話をただ受け身で聞いているだけではなく、新しい情報を加えながら、質問を重ね、次から次へと思考の幅を広げながら話を聞く形だからだ。

訊問のことですね。

>このソクラテスの産婆術は、実は現代に蘇っている。>「コーチング」と名を変えて。>Yes/Noで答えるしかない質問ではなく、5W1H(What/Who/Where/When/Why/How)と呼ばれる「開かれた質問」(どう答えるかは、相手次第に任される)をすることで、会話を途切れさせず、次々と話題を展伸し、思考を深める技術だ。>カウンセリングでも「傾聴」が重視されている。>しかし傾聴するにも、ただ黙っているだけでは相手も話しにくい。>話すきっかけを与えるためにも、「訊く」ことが大切だ。

訊問が大切ですね。

>ソクラテスは、若い人と話すときには知恵の泉をどんどん発掘し、対話を楽しんだが、「俺は天才だ」という人と対話すると、不思議な現象が起こった。>天才たちはみな、怒り出したのだ。>原因は「天才」たちの知ったかぶりにあった。>プロタゴラスやゴルギアスといった、当代随一の天才と呼ばれた人たちは、ソクラテスから質問を受けると「ああそれはね、こういうことだよ」と、博識なところを見せつけた。

記憶力・暗記力の威力ですね。

>しかしソクラテスが質問を重ねると、さっきといまの発言の間に矛盾があることが浮き彫りになり、最後には「実は、その件はあまり知らないのだ」と白状する羽目となった。

矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾のある文章であっても、その矛盾を取り除けば正しい考えとなる。

>天才たちを次々と論破したこの様子に衝撃を受けた人たちが、のちに「弁証法」としかつめらしい名前を付け、ソクラテスの偉大さをたたえたのだけれど、私には、ソクラテスの真の偉大さはそこにはないように思う。>ソクラテスは、誰からも「知」を吸収しようとした。>ソクラテスはおそらく、プロタゴラスやゴルギアスからも学びたかったのではないか。

知の吸収は、大切ですね。哲学博士への道ですね。

>しかし「天才」たちが勝手に「バカの壁」を設け、知ったかぶりをしたがために、自滅しただけのことなのだ。

自分が知らないということを知っているだけでも、’大したもの’ でしょうけどね。

>ソクラテスは若者に話すときと同様、「訊く」ようにしただけだ。>若い人には「産婆術」として働き、新しい知の発見につながる技術が、自分は天才で他はバカ、と思っている人に対しては「弁証法」と呼ばれて、知ったかぶりであることを明らかにしてしまう技術になるのだから、興味深い。

産婆術は弁証法ですね。弁証法は、現代の学校教育の内容になっていますね。

>○「バカの壁」を乗り越える
>「バカの壁」を取り払った人の話をしてみよう。板画家として世界的に名高い棟方志功氏は、若いころ、大変傲慢で、自分を天才と考え、他の人の芸術をこき下ろすこともたびたびだったという。>しかしそのことで、棟方氏は自ら「バカの壁」を作っていたともいえる。

そうですか。棟方氏は、’お山の大将’ だったのですね。

>しかし転機が訪れる。>柳宗悦氏との出会いだ。>柳氏は、無学な農家、庶民が作った民芸品の美しさを「発見」した人だ。>芸術に何の知識もない人たちが作り出した、素朴な美の存在に気付いた棟方氏は衝撃を受けた。>以後、棟方氏は、どんな人からも教えを乞うようになったという。

学問は言語の産物ですね。だが、造形美術 (民芸品) は非言語の産物ですね。両者は領域を異にしていますから、造形美術に無学は関係ないですね。

>どんな人の片言隻句からもヒントを得、学ぶことができることを知ったからだ。>哲学は、向こうの言葉でフィロソフィア(フィロ=愛、ソフィア=知)と呼ばれる。>愛知県みたいな言葉だが、本来なら「愛知」と訳されて当然の言葉だ。

そうですね。’哲学’ にも ‘哲人’ にも関係のないわが国民に、’哲学’ の訳語を持ち込んだ人がいて、我々の頭の調子をくるわせてしまいましたね。’愛知’ が訳語なら、迷いも少なくて済んでいたでしょうにね。

>ソクラテスはまさに「愛知」の人であり、バカの壁を一切設けなかった。>柳宗悦氏に出会ってからの棟方志功氏も、「愛知」の人になったと言える。>バカの壁を自ら設けず、ありとあらゆる人から、芸術のためのヒントを得ようとしていたのだから。

それは、幸いなことでしたね。

>あなたは「知を愛している」だろうか?

私よりも子供の方が知を愛していますね。いつも、’どうして・どうして’ と尋ねて来ますね。

>もしそうなら、バカの壁を設けるのはもったいない。>自分の方が優れているといって優越感を感じようとするのは、バカの壁を建設し始めた証拠だ。

そうですね。バカは禁句ですね。超国家主義・国粋主義に酔いしれる人たちも危ないですね。’上とみるか・下とみるか’ のメンタリティ (考え方) では、バカの壁は避けと通れませんね。

>それよりは、「この人は、私にはない、何を持っているのだろう?」と興味を持ち、自分にないものを引き出すために「訊く」ようにしてみてはどうだろう。

それは良い方法ですね。

>あなた自身が知の誕生を支える産婆になるのだ。>ソクラテスは、「バカの壁」を設けず、知恵をどん欲に吸収するというロールモデルを見事に体現した人物だ。

彼は先進技術の模範になる人ですね。

>コーチング技術の発見(産婆術の再発見)が行われたことで、改めてソクラテスの偉大さが再認識されつつあるように思う。

彼は、昔から有名な人でしたからね。

>新しい事業を起こしたい、新しい発想の商品を生み出したいという人は、ソクラテスを見習い、バカの壁を設けず、あらゆる人から「訊く」ことで知を生み出す産婆術をマスターしていただきたい。

それが良いですね。事業発展への道になりますね。

>そうすれば、ビジネスの世界はもっとワクワクするような現場に変わるだろう。

そうなると良いですね。何しろ日本人の場合は、もっぱら思考停止と暗記力ですからね。暗記力は、受け売りのために利用されていますね。ですから、個人の確立には程遠いですね。

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