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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

エアコンの自由

2018-11-25 10:53:21 | 文化



>アメリカ型個人主義の裏側
>柴山:ミシェル・フーコーが50年前に、近代社会は規律訓練型権力で成り立っていると指摘しましたが、アメリカを見ていると本当にそう思います。>表向きは自発的に行っているように見える行為でも、実際にはそうするよう強制され方向づけられている権力の働きは、たとえばアメリカの大学文化によく表れている。

それは、野球の試合に参加しているようなものでしょう。野球の規則がアメリカの文化をよく表しています。実際には、そうするように強制され方向づられています。

>授業の前に大量の文献を読ませ、出席を取り、レポートを提出させ、ゼミでは発言しないと点をやらないとか、こういう仕組みをよく思いつくなと感じますね。

文献を読まなければ、授業に出ても意味ないですね。何事にも自発性がなければ、勉強したことになりませんね。

>日本の大学は、もともとそういうシステムとは相性が悪い。>一昔前の京都大学が典型ですが、そもそも「大学に行くこと自体が格好悪い」という考え方がまかり通っていましたし、大学側にも「期末試験は知人のネットワークでノートを集めて対策を立てろ、あとは好きなことをやってくれ」という緩さがあった。

それは、授業料の無駄ということですね。序列社会においては、大学に自分の名前を連ねることに意義があるのでしょうね。日本人には意思がないのでアメリカのシステムには相性が悪いのでしょう。

>中野:日本型自由主義ですね(笑)。

日本人は、序列の虜になっているのでしょう。不自由を常と思えば不足なしか。

>柴山:その日本型自由主義は、アメリカ型の規律訓練型個人主義とはずいぶん違うんですよね。>その意味でも、個人主義や自由主義については表面だけではなく裏側を考えたほうがいい。

非個人主義や非自由主義はその裏側であり、序列制度はその裏の裏ですね。

>アメリカ型自由主義で秩序が成り立つのは、裏で権力装置が巧妙に働いているからです。日本を個人主義社会に変えるということは、日本人を徹底したパノプティコン(全展望監視)権力の下に作り直すということになりますが、はたしてそれが可能でしょうかね。

それは、無理でしょうね。日本人は、グランドデザイン・マスタープランの作成が苦手ですからね。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、非現実の内容を文章にすることができません。ですから、日本人には世界観 (非現実の三世界) がない。すると、過去・現在・未来の内容を脳裏に蓄えることができません。そして、権力装置を働かせることもできません。

>佐藤:社会的関係と言えば、アメリカはちょっとしたことでも必ず契約を交わします。しかもそれが細かい。条項に記されていないことは好きにやっていいはずですが、何も勝手にできないよう、思いつくかぎりの点をすべて明文化しておくんですね。

そうですね。問題が発生してから考えるのでは、’あとの祭り’ ですからね。何事も、想定内に置いた方が良いのです。想定することは、条項として明文化することを意味します。

>中野:みんながフェイスブックやインスタグラムで自由に発言しているように見えて、実はすべての書き込みがグーグルやフェイスブックの管理下に置かれている。

そうですね。情報は、貴重な財産ですからね。管理が必要です。

>佐藤:これを「エアコンの自由」と言います。つけるかどうかは任されているし、温度設定も好きに決めていい。ただし窓は開かないようになっている、という次第。

ちょうど、野球の試合に参加しているようなものですね。野球の規則は守らなくてはならない。それを容認すれば、規則内では個人は自由にできます。

>柴山:アメリカ人はそういう規律訓練装置を発明するのが抜群にうまいと思いますね。>個人的自由の裏側で、徹底した社会的訓育が行われている。近代的主体ってそういうことなんで、その意味でもアメリカは近代のフロントランナーです。

まったく同感です。

>中野:先の大戦で日本が負けた理由はそこですよ。しかもそれを個人主義だと周囲に思わせている。

個人的な発想は、すべての発展の源泉ですからね。個人主義は大切です。

>佐藤:国民の文化的バックグラウンドが多種多様なだけに、「どんなヤツでも制御できる規律」が必要になります。>行き着く先は「エアコンの自由」。>それを自己責任で選び取ったかのごとく構えるのが、アメリカの個人主義なのです。

気に入らなければ、出て行けと言うことでしょう。’出て行く・行かない’ は、個人の自由ですからね。


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自由奔放

2018-11-25 04:21:04 | 文化


(略)
>佐藤:「歌舞伎」は、「自由奔放に振る舞う」「異様な身なりをする」という意味の「かぶく」が語源です。個性を尊ぶ伝統は、わが国にもちゃんとあるわけですよ。

それは、考え (非現実) の内容に着目しての個性ではないようですね。アニマルと同じ次元の個性でしょう。

>中野:おそらく日米双方に「集団主義はカッコよくない。個人主義がカッコいい」というバイアスがあるんでしょうね。実際はどの国にも両方の側面があって、時々によって、どちらにより強いハイライトが当たっているかが違うだけでしょう。

日本人の場合は、徹底的に個人主義がないですね。個人主義は、利己主義の言い換えのように考えられているようでしたね。

>佐藤:『菊と刀』を理解するカギは、第2次大戦中の敵国研究として始まったことです。

そうですね。‘彼を知り己を知れば、百戦危うからず’ ですね。わが国にも敵国研究の成果はあったのでしょうかね。

>アメリカは当時すでに、日本占領を視野に入れていました。

彼らは、計画的ですからね。わが国のアメリカ占領計画の方は、どうなっていたのでしょうかね。

>全体主義に走った日本人を矯正するつもりだったのですが、そのためには条件があります。
>つまり日本人を「今のところは異質で『悪』だが、正しく導けばアメリカ的な『善』にめざめる存在」と位置づけること。

そうですね。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。

>すなわち、この点を矯正したら日本人もよくなるというターゲットを見つけだす(ないし、でっち上げる)ことが求められていたのです。

そうですね。合理的な努力ですね。

>ベネディクトはそれを「恥の文化」や集団主義として提示したのではないでしょうか。

そうでしょうね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断なしには、日本語を上手に話すことは難しい。だから、上下判断は、日本人について回ります。日本人の礼儀作法も世俗的な序列作法になっていて、下の者は敗者の作法を強いられることになっています。それで、敗者は日本人の恥である。負けじ魂が ‘恥の文化’ を作っている。生きて虜囚の辱めを受けず。
日本語は、写生画のための言語である。現実を表現するのに適している。現実は、頭の外にある。その内容は見ることができる。これに対して、非現実 (考え) は頭の中にある。内容は見ることができない。現実の内容は唯一であり、非現実の内容は個人の数だけある。
唯一の内容を真理として強調すれば、多数の個性的な内容は消えてなくなる。日本語文法には、非現実の内容を文章にして表現する構文 (時制を伴う) がないので、内容は唯一になる。だから、日本人は現実主義になり、集団主義 (個人差を抹殺する主義) になる。
国家の意見というものは、自然に聞こえてくるものではない。代表者が選ばれて、彼自身が責任をもって自己の意見を答えるから、国の意見は存在するのである。没個性で洗脳されている日本人は、代表者個人を尊重していない。日本人は、国の代表者を自分の代弁者だと思っている。だから、この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。責任の所在を意識していないからでしょう。だから、とかくこの世は無責任。泣き寝入りする。新しい一歩を踏み出すことが難しい。精力的ではあっても、計画的ではない。

(略)


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