>アメリカ型個人主義の裏側
>柴山:ミシェル・フーコーが50年前に、近代社会は規律訓練型権力で成り立っていると指摘しましたが、アメリカを見ていると本当にそう思います。>表向きは自発的に行っているように見える行為でも、実際にはそうするよう強制され方向づけられている権力の働きは、たとえばアメリカの大学文化によく表れている。
それは、野球の試合に参加しているようなものでしょう。野球の規則がアメリカの文化をよく表しています。実際には、そうするように強制され方向づられています。
>授業の前に大量の文献を読ませ、出席を取り、レポートを提出させ、ゼミでは発言しないと点をやらないとか、こういう仕組みをよく思いつくなと感じますね。
文献を読まなければ、授業に出ても意味ないですね。何事にも自発性がなければ、勉強したことになりませんね。
>日本の大学は、もともとそういうシステムとは相性が悪い。>一昔前の京都大学が典型ですが、そもそも「大学に行くこと自体が格好悪い」という考え方がまかり通っていましたし、大学側にも「期末試験は知人のネットワークでノートを集めて対策を立てろ、あとは好きなことをやってくれ」という緩さがあった。
それは、授業料の無駄ということですね。序列社会においては、大学に自分の名前を連ねることに意義があるのでしょうね。日本人には意思がないのでアメリカのシステムには相性が悪いのでしょう。
>中野:日本型自由主義ですね(笑)。
日本人は、序列の虜になっているのでしょう。不自由を常と思えば不足なしか。
>柴山:その日本型自由主義は、アメリカ型の規律訓練型個人主義とはずいぶん違うんですよね。>その意味でも、個人主義や自由主義については表面だけではなく裏側を考えたほうがいい。
非個人主義や非自由主義はその裏側であり、序列制度はその裏の裏ですね。
>アメリカ型自由主義で秩序が成り立つのは、裏で権力装置が巧妙に働いているからです。日本を個人主義社会に変えるということは、日本人を徹底したパノプティコン(全展望監視)権力の下に作り直すということになりますが、はたしてそれが可能でしょうかね。
それは、無理でしょうね。日本人は、グランドデザイン・マスタープランの作成が苦手ですからね。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、非現実の内容を文章にすることができません。ですから、日本人には世界観 (非現実の三世界) がない。すると、過去・現在・未来の内容を脳裏に蓄えることができません。そして、権力装置を働かせることもできません。
>佐藤:社会的関係と言えば、アメリカはちょっとしたことでも必ず契約を交わします。しかもそれが細かい。条項に記されていないことは好きにやっていいはずですが、何も勝手にできないよう、思いつくかぎりの点をすべて明文化しておくんですね。
そうですね。問題が発生してから考えるのでは、’あとの祭り’ ですからね。何事も、想定内に置いた方が良いのです。想定することは、条項として明文化することを意味します。
>中野:みんながフェイスブックやインスタグラムで自由に発言しているように見えて、実はすべての書き込みがグーグルやフェイスブックの管理下に置かれている。
そうですね。情報は、貴重な財産ですからね。管理が必要です。
>佐藤:これを「エアコンの自由」と言います。つけるかどうかは任されているし、温度設定も好きに決めていい。ただし窓は開かないようになっている、という次第。
ちょうど、野球の試合に参加しているようなものですね。野球の規則は守らなくてはならない。それを容認すれば、規則内では個人は自由にできます。
>柴山:アメリカ人はそういう規律訓練装置を発明するのが抜群にうまいと思いますね。>個人的自由の裏側で、徹底した社会的訓育が行われている。近代的主体ってそういうことなんで、その意味でもアメリカは近代のフロントランナーです。
まったく同感です。
>中野:先の大戦で日本が負けた理由はそこですよ。しかもそれを個人主義だと周囲に思わせている。
個人的な発想は、すべての発展の源泉ですからね。個人主義は大切です。
>佐藤:国民の文化的バックグラウンドが多種多様なだけに、「どんなヤツでも制御できる規律」が必要になります。>行き着く先は「エアコンの自由」。>それを自己責任で選び取ったかのごとく構えるのが、アメリカの個人主義なのです。
気に入らなければ、出て行けと言うことでしょう。’出て行く・行かない’ は、個人の自由ですからね。
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