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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

集団主義・個人主義

2018-11-27 11:34:35 | 政治


>日本人は本当に集団主義的か
>中野:第2次世界大戦についてのベネディクトの主張は、「集団主義に個人主義が勝った」ということなんでしょうか。

集団主義は、’個人の構成員よりも集団に優先権を与える主義’ ですね。

>実際にはアメリカは物量で勝ったわけで、軍隊のマネジメントを考えても個人主義では成り立たない。

集団が存在するから物量がひとりでに集まるわけではないでしょう。個人の優れた考えがアメリカ軍に必要な物量を算出し集めた結果によるものでしょう。
わが国にも集団は存在したが、必要な物量は集まらなかった。有能な個人が存在しなかったからかな。

>アメリカは集団主義で勝ったに決まっていると思いますが。

集団の方向を決める個人の育成も大切だとおもいますが。

>佐藤:「全体主義に(自由)民主主義が勝った」と言えば、もっと的確でしょうね。

そうですね。それに間違いはありませんね。

>なるほど、外的な要因による影響をゼロと見なしてよいのであれば、協調性を重視する国民のほうが、集団主義や全体主義に走りやすい傾向を持つかもしれません。>しかし人も社会も、真空の中に存在するわけではない。>国民の気質が個人主義的なら社会システムは民主主義になるとか、協調重視なら集団主義や全体主義になるなどと、安易に断定はできません。

そうでしょうね。

>社会の置かれた具体的状況、およびその背後にひそむ歴史的な経緯や条件が、大きくかかわってくるのです。>特に重要なのが、19世紀後半以降の第2次産業革命。>これによって製造業を中心に「生産規模を拡大し、みんなで助け合うほど、効率よく豊かになれる」状況が成立します。>いわゆる「規模の経済」ですが、ならばどの国でも集団主義が魅力的に映るはず。>実際、流れ作業による自動車の大量生産を実現したのは、アメリカのヘンリー・フォードでした。

そうですね。アメリカの個人主義が集団主義の大量生産を実現させた個人を育てたのですね。

>柴山:資本主義の歴史は、個人企業の時代から大組織の時代へと移行してきたわけで、その中で「組織をどう運営していくか」が競い合われることになった。

「組織をどう運営していくか」は、経営者間の個人の争いですね。

>佐藤:往年のアメリカ自動車産業など、日本的経営をやっていたのか? という感じですからね。>ミシガン州にフリントという町がありますが、ここは住民の多くがゼネラル・モーターズ(GM)で働いていた。

企業城下町というのでしょうか。

>そのため1950年代には、GMに感謝するパレードを毎年開催しているんです。>パレードの横断幕いわく、「チームワークこそ栄光の秘訣、さらなる高みを目指して進もう」。>これが集団主義でなくて何なのか。

集団主義を盛り立てたのはGMの経営者ですからね。やはり、個人の発想は万物の源のようですね。


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斉藤社長

2018-11-27 10:07:52 | 教育
>日本式の個人主義とは 困っている人を放置 >インテカー社長 斉藤ウィリアム浩幸

>日本人は「集団主義」の国民性である、という自己認識はどうも誤解のようです。

そうでしょうね。日本人の主張する ‘組織優先’ は、いわゆる ‘建て前’ (口実・言い訳) であって、その中身は ‘本音’ (恣意) にあるのですからね。

>米国の文化の中で育った人間からすると、組織より個人を優先させる傾向は、欧米人より日本人の方が強いと感じることがあります。

そうでしょうね。本音の中身は、恣意 (私意・我儘・身勝手) ですからね。

>日本人の間に、「個人主義」という言葉が流行したと聞いて驚いたことがありました。

そうでしょうね。日本人の個人主義は、利益の配分単位が個人になるということでしょうね。個人タクシーのようなものか。

>その時の話の流れは確かこうです。>「日本人の残業が多いのはなぜ?」と私が聞き、ある日本人は「上司や同僚の仕事が終わらない間は帰りにくい雰囲気がある」と答えました。>私は重ねて聞きます。>「じゃあ先に仕事を終えた人がまだ終わってない人を手伝えば良いのでは?」と。>その日本人は「自分の割り当てではない仕事を手伝う例はほとんどない」と言いました。>なぜなら個人主義が浸透しているからで、しかもその個人主義の文化は「欧米にならって始まった」そうです。>私はいろいろおかしいぞ、と思いました。

そうでしょうね。おかしな事は、いっぱいありますね。’東は東、西は西’ ですからね。

>まず、欧米の職場には日本人が言うところの「個人主義」なんていうものは存在しません。>成功している組織では、先に仕事を終えた人間は自然と同僚を手伝います。>仕事の遅れには必ず原因があります。>仕事の分配量に誤りがあるか想定外のトラブルが発生しているかです。>当事者が解決できない問題であれば、周囲の人間が助けなければと考えるのが、チームワークを重視する欧米人の感覚なのでしょう。
>どうも日本人が使う「個人主義」は、困っている人を放置してそれで良しとする「selfish(利己的)」に意味合いが近いように感じられます。

そうでしょうね。日本人の個人主義は、受益の単位が個人であるということですからね。

>本来、英語で言う「個人主義(individualism)」の意味とは、集団に所属する一員としての役割や権利を相互に尊重しあう立場のことで、「私利」が「他利」に優先されるというワガママを容認してしまっては成り立たない概念です。

そうですね。恣意 (self-will) は ‘恥を知れ’ (Shame on you!) と一喝されますね。

>特に米国は、多民族の国です。>人種も違う。>宗教も習慣も、思考回路も違う人が職場に集まれば、最初に待っているのは混乱です。>しかし、だからこそ仲間に関心を持ち相互理解を深め、「他利」を「私利」に優先させなければ仕事にはならないのです。

米国人は、見上げた信念の持ち主ですね。

>対照的に日本人は互いの常識を「暗黙の了解」で共有できる極めて同質性の高い社会で生きてきた結果、コミュニケーション・コストを軽視してきた経緯があります。

そうですね。我々日本人は、長いこと慣れあって住んできましたからね。

>誤った解釈で輸入してしまった「個人主義」という言葉は隣の席で困っている同僚を助けることができないほどに個人を組織の中から孤立させてしまったのではないでしょうか。

自己利益の切り売りが盛んですね。

>一子相伝の技術を「目で盗み」、一人前になるまでに10~20年かかるのが当たり前だった時代は過ぎ去っています。
>グローバル社会を生き残るには「暗黙の了解」ではうかがい知れない様々の常識に耳を傾け、自らを改め続けなければなりません。
>日本式の個人主義はそんなとき、いかにも足かせになる概念です。

そうですね。日本人には世界観がない。’あるべき姿’ (非現実) のない現実においては自己利益を守ることは難しいからでしょう。

>さて、世間は新年度。チームに異なる常識を持つ新人が参加してくる季節です。>新しい仲間が何か相談してきたらどうしますか。

世話好きな人と、そうでない人では対応が違いますね。

>「自分でやってみろ」と突き放したり、「俺はもっと大変だったぞ」と苦労自慢したりするだけの応対は、仲間のためになるのでしょうか。チームのためになるのでしょうか。

浪花節調で話すのは、わが国の伝統・陋習ですね。

>私には、後進を育てる手間を嫌う、あるいは自らの職域を奪われることを避けるための利己的な応対に感じられてなりません。

そうですね。利己的な処世術を捨てて、建設的な努力を重ねましょう。


下とみられた

2018-11-27 02:50:36 | 教育


>西洋的統制と日本的統制
>施:教育史学者の江森一郎氏に『体罰の社会史』という本がありますが、それによると日本では昭和の初めごろ、軍事教練が学校に入ってくるまで体罰は決して一般的ではなかったそうです。>武士でも子どもを殴ったりはしなかったんです。

武道の稽古だけで十分でしたね。

>逆に西洋の小学校では、昔から教室の後ろにムチが置いてあった。

西洋では、小学生には調教が必要であると考えられていたのですね。小学生は、まだアニマルの段階ですね。

>なぜ日本では体罰なしで40人学級がうまく運営できるのか。>実は小学校の先生は生徒との間に心理的絆や一体感を最初にうまく作り、子どもたちが信頼を裏切るような行為をすると、その絆を切ってしまうぞ、と暗黙裡に半ば脅してやめさせているんです。

‘非国民’ とか ‘外人’ 呼ばわりされる時の恐ろしさですね。’村八分’では、ついてゆくしかない。

>たとえば、子どもたちがあまりにもいうことを聞かないとき、教師がよく使う手は、子どもたちに「もういい、勝手にしなさい」と言って職員室に引き上げてしまうというものです。>そうなると子どもたちは、徐々に不安になり、シュンとなって、「皆で先生に謝りに行こうよ」ということになる。

わかりやすいですね。理屈ではない。

>中野:天の岩戸だ。

昔からある話ですね。

>施:心理的な絆を先に作り、言うことを聞かないとその絆が損なわれますよと暗黙裡に語り、子どもを統制しようとするこのような手法は、日本ではよく見られます。

なあなあ主義 (なれ合い) ですね。

>どの世代の人にもそういう経験がある。

他に方法はありませんね。

>たとえば親は好き嫌いをする子に野菜を食べさせるために、「じゃあもう食べなくいい」とお皿を引き上げてしまう。>これも心理的絆を切るという脅しなんですね。

もたれあいの精神ですね。

>企業でも昭和の時代には「ノミニケーション」などといって、新人が来たらまず飲みに行き、先に親密な関係性を作ってから指導するというやり方をしてきた。>ただそういう手法は欧米人には理解しにくい。

なれ合いの手法ですね。

>「伝統的な技芸だ」とアメリカから来た教育学者が感心していました。

何事も伝統ですね。逸脱は許されていない。

>西洋の場合、法律や規則を作って外面的に統制するけれども、日本の場合は集団の和を大切にすることを教え、共感力を利用して内面的に統制しようとする。

法律や規則は考え (非現実) ですから、これは内面ですね。集団の和 (現実) は見ることができるから、これは外面でしょう。

>文化によって統制の手段が違うんです。>だから日本の教育においては「人の気持ちがわかるようになる」という共感能力、感情移入能力の獲得が第一の目標になっています。

そうですね。日本人の場合は、忖度 (推察) の活用ですね。

>中野:おっしゃるとおり、日本では人に共感する能力が高いことが、人格的に成長している証しとなっている。

高文脈文化 (high-context cultures) のメンタリティですね。世界における孤児になるのかな。

>その意味では日本的見方からすれば、日本人はほかの外国人より人として高い位置にあるはずなんですよね。

日本人は、’下とみられた’ ということですね。

>それなのに「日本人は遅れている。個が確立されていない」となぜ自分たちから言うのか、不思議ですね。

日本人は、自分の文化を卑下しているのでしょうかね。


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