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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

職業教育

2018-11-03 11:09:34 | 教育


>●その授業、ホントに価値ある
>就活に時間をとられると、学生が大学からいなくなります。

そうですね。大学は就活生の発進基地になっていますね。

>自分たちの食い扶持である「授業」の存在価値、もっと言えば自分たちの存在価値が怪しくなるわけですから、当然ながら大騒ぎします。>しかし彼らは、自分たちが提供している授業が学生の期待に応えていないことを考慮していません。

学生の期待は、授業内容ではありませんね。大卒というレッテルですね。そのレッテルを得るために四年間をキャンパスで遊んで暮らしています。

>大学の授業にたくさんの学びとそれに伴う成長があれば、学生はこぞって授業を受けに行くでしょう。

そうですね。無哲学・能天気の環境では、学生の大学での成長はありませんね。

>なにがしかの成長を果たせるなら、結果的に就活で内定に至ることは決して難しくないからです。
> ~中略~
>●大学が行わない職業教育は「就活」が担っている
>成長を伴う学びが少ない大学の授業に比べると、就職活動そのものが学生に成長をもたらす効果は大きいといえます。

職業教育は、専門学校で受けられますね。実学 (技術) は専門学校で、哲学 (虚学?) は大学で受けられます。実学で現実の内容を学び、哲学で非現実の内容を学びます。

>新入社員に話を聞くと「今思えば、就活が一番成長した実感がある」と答える学生は少なくありません。

実社会にある実学が日本人を成長させるのですね。

>私は就活に時間と労力を注ぐことが、職業観の醸成を図るうえでも必要だと考えています。

そうでしょうね。非現実の内容は、現実離れがした内容になるので、日本人には信じることが難しいです。

>私自身もそうだったのですが、ほとんどの学生は就職活動を通じて、初めて真剣に「どんな働き方をしたいのか?」「どんな仕事をしたいのか?」などと社会との関わり方を考え始めるのではないでしょうか。

我々は、考える人になる必要がありますね。

>そして「社会にはどんな仕事があるのだろうか?」と調べ始め、最初は有名企業を受けながらも徐々に様々な企業の存在を知り、社会の仕組みを知っていくのです。

わかりやすい社会学ですね。

>このプロセスそのものが、いまの大学生にとっては一番の職業教育になっていると私は思っています。

実学の内容は、見ればわかりますからね。哲学の内容は、見ることができない。理解しなければわからない。

>大学の出口を「就職」とすれば、本来ならこれらの教育も大学の役割なのかもしれませんが、大学はこういった役割を果たせていません。

そうですね。大学は、哲学 (非現実) の教育機関ですから、実学 (現実) の教育機関にはなりませんね。

>正直なところ、採用の仕事をしていて「この大学は学生の教育を本当にしっかりやっているなぁ」と思ったことが一度もないのです。

無哲学・能天気の日本社会では、大学教育はり立たないでしょう。

>●希望の仕事に就くために中退して中途採用を受ける人も
>大学があろうとなかろうと、立派な学生はいます。>彼ら彼女らの学びの深さ、考える力の豊かさに接すると「20歳そこそこの年齢で、本当に素晴らしいなぁ」と感服します。>しかし彼らが有する能力のうち、大学のカリキュラムによって培われたものと言えるものは、残念ながらあまりに少ないのです。

考え (非現実) の内容は、見ることができない。日本語で自己の考えを述べることは、見てきたような嘘をつくことになる。これは、日本語文法に時制 (tense) というものがないためです。時制があれば、非現実の三世界 (過去・現在・未来) は文章内容になります。考え (非現実) の内容は、脳裏に記憶としてとどめ置かれます。この種の日本人の嘘は、西洋人の学問になっています。この事実は、日本人の想像を絶するところです。

>偶然素晴らしい教員に出会い、開花する学生もいるでしょうが、それも大学教育のおかげというより一人の優秀な教育者の個人技に過ぎません。>大学がその個人技を活かせればいいのですが、少なくとも私はそういう取組みを聞いたことがありません。

個人的な接触は、英米系の大学でなされることですね。

>大学が教育機関として機能しなければ、大学を卒業することすら意味がなくなってきます。

日本の大学は、日本人の序列メンタリティを充足するために運営されています。そうした意味では、今でも機能しています。学卒のレッテルは、足の裏についた飯粒のようなものか。取らずにはいられない。

>実際、希望の仕事に就くために4年生でありながら航空会社の中途採用の選考を受け、中途退学で働き始めた人もいるくらいです。>卒業証書は、活躍する社会人の証明書ではありません。

大学卒のレッテルも、万能ではなくなったようですね。

>むしろ、一日も早く仕事を覚えることの方が明らかに有意義です。

大学にいても、他にすることもないですからね。

>今後も大学が教育機関として存在価値を示せずにいれば、このような形の採用も珍しくなくなるのかもしれません。

そうですね。大学という名前の専門学校になるのか。こうした羊頭狗肉はどこまでも日本人に必要なのか。



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斜めの人

2018-11-03 02:15:25 | 政治



> 近年「法律で決まっていないことなら、してもしなくても個人の自由」と言ったり、行動したりする人がいます。>そうすることで、自分が得をすれば、あるいはお金が儲かれば、その方が良いのだという発想のようです。

それは、処世術ですね。無哲学・能天気の人間のすることですね。

>しかし江戸時代までの日本では(というよりも戦前戦中までは)、そのようなことを言ったり、そのような振る舞いをする人は「斜めの人」と言われました。>「斜めの人」というのは、ものごとの見方や考え方や行動が歪んでいる人のことを言います。

‘その行いは適当ではないが、法律違反とまでは言えない’ という行為を特技として行う人たちがいますね。情けないことです。

>そしてそのような人こそ、「世間に後ろ指をさされる人」であり、親や祖先に顔向けできない不道徳な人とされていたのです。

今日でも、不道徳で失墜させられる政治家が跡を絶ちませんね。

>江戸時代は、身分による秩序については、たいへん厳しい時代です。

そうでしたね。序列作法の厳しい時代でしたね。

>しかし身分そのものは、流動的で少しも厳しくありません。>町民や農民の子でも、学力優秀であれば、藩の重臣として取り立てられてもいるのです。>実際、日本では、農民出身で武家になった者は多数います。>なかには家老職などにまで出世した人もたくさんいます。>また多くの武士たちの尊敬を集めた私塾の塾長が、もともとは農家の出であることもめずらしくありません。>もちろん商人から士分に取り立てられて、辣腕をふるった人もたくさんいます。

例外も大勢いましたね。

>福沢諭吉が、学問のススメの中で、次のように書いています。
>「およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。>知恵のない者は、恥さえも知らない。

日本は、恥の文化の国ですね。

>自分が馬鹿で貧窮に陥れば、>自分の非を認めるのではなく、>富める人を怨み徒党を組んで乱暴をはたらく。>恥を知らざるとや言わん。>法を恐れずとや言わん。

日本人には、意思がない。だから、とかくこの世は無責任になる。

> (中略)
>こういう愚民を支配するには、>とてもじゃないが道理をもって>諭(さと)そうとしても無駄なことである。>馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。

力は、正義ですね。Might is right. 強者の怒りは、抑止力となる。

>西洋のことわざに、>愚民の上に苛(から)き政府あり、>とはこのことである。

‘There is a severe government over ignorant people’. ですね。

>これは政府の問題ではない。>愚民がみずから招くわざわいである。」

彼らの政府は、権威主義 (authoritarianism) でしょうね。独裁政権ですね。

>学問というのは、単に知識の詰め込みや、学問のためにする学問のことではありません。

詰め込み教育は、良くないですね。応用力が養われない。

>高い道徳心を養い、物事の正邪をわきまえ、秩序正しい世の中を築こうという積極的な意思を養成する学問です。

各人に哲学が必要ですね。Everyone needs a philosophy.
ところが、日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語では、意思の内容は表せない。そして、日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。精神の鍛練を必要とする。

>思うに戦後の教育が陥った陥穽(かんせい)が、まさにここにあるのではないかと思います。>学問は、ただ、クイズの問題をいちはやく答えるためのものではありません。

そうですね。学問は、暗記力の競争ではありませんね。

>考える力、先を読む力を養い、自らを律して正しく生きるためのものです。

現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。現実の内容は、見ることができる。非現実 (考え) の内容は、見ることができない。
考える力は、非現実の内容を文章にする力ですね。
先を読む力は、非現実 (過去・現在・未来の三世界) の中の未来に関する内容を文章にする力ですね。
考える力、先を読む力を日本語により養うのは難しいですね。

>つまり修身こそ、学問の要(かなめ)です。

格物致知。修身斉家治国平天下。ですか。中国風ですか。

>恥を知らない。

日本人恥は、身分の低いこと。恥を雪ぐには、さらなる序列奉公が要請されることになります。
西洋人の恥は、理性のないこと。自己の行為に説明責任が取れなければ無責任と判定され、’恥を知れ’ と言われることになります。
東は東、西は西です。

>自分が馬鹿で貧窮に陥っても、それを政府の「せい」、他人の「せい」にする。

政府の ‘せい’ か、他人の ‘せい’ か、を見分ける能力が必要ですね。それにしても、日本人には、意思がないですからね。責任の所在がつかめない。だから、責任者を名指しできない。罪の意識はどこにもありませんね。

>日本人の愚民化は、早々に対策を講じていかなければならないことです。

意思がなければ、罪もない。日本語には時制がないが、英語はある。だから、我々日本人は、日本語と英語の双方に習熟し、日本語の弱点を補う努力をすることが必要でしょうね。無哲学・能天気の状態は、愚民化された状態と言えるでしょうね。


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