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罪と道徳

2019-02-28 21:59:26 | 言語


>■心が育たない環境を作っていませんか?
>心を育てる教育というと、学校での道徳教育を思い浮かべる人もいるかもしれません。 >道徳教育には、どんな心を育てるかという目標がいくつかあり、それを様々な方法で子供たちに教えていきます。 >でも、道徳教育さえしっかりとやっていれば、「思いやる心」や「感謝の心」などが身に付くのでしょうか。

‘身に付け’ と叫んでも身に付かないでしょうね。

>親御さんたちが幼い子供だった頃であれば、そんな道徳教育も、子供の心育てに一定の効果をもたらしていました。 >しかし現代は昔とは状況が変わっています。
>情報化や国際化が進み、技術はすごいスピードで進化しています。 >現代の子供たちはそのような中で過ごしています。 >昔と同じ教育のやり方で効果が上がるとはいい難いでしょう。

無為無策では、環境の変化に追いつきませんでしょうね。

>ただ単に「人に優しくしよう」「決まりを守ろう」と言葉で教えることで学ばせようとしても、子供の心に響くものではありません。 >大人たちがどんなに「人間らしい心をもった子供に育てたい」と思っていても、そんな心をもたない大人たちの姿が、子供たちの周りにはあふれています。

そうですね。子供の自立心が大切ですね。’人のふり見て我がふり直せ’ では心もとないですね。

>テレビをつければ、そんな大人たちが引き起こす、目をそむけたくなるような事件の報道ばかりが映し出されます。>東日本大震災の際には、福島第一原子力発電所に事故が発生しました。>テレビのニュースでは、電力会社や電子力安全保安院の代表者たちが情報隠蔽・情報操作する姿がさらされていました。>高齢者の方々を狙った汚い手口の詐欺は、ますますやり方が巧妙になり、弱い立場の人たちから平気で財産を奪う人間の姿が浮き彫りになっています。>特定の誰かに恨みをもって殺すのではない無差別殺人の類の事件も、次から次へと起こります。>自分の子を虐待する問題も、一向になくなりません。>最近では、殴ったりけったりという暴力による虐待だけではなく、面倒くさい、かわいくないなどという信じられない理由による、育児放棄という形の虐待のケースも増えています。

日本人には、罪を憎む心がないからでしょうね。

>自分勝手としか言いようのない大人たちによって、理解しがたいひどい事件が次々と引き起こされています。

‘建前 (言い訳・口実) と本音 (私意・我儘・身勝手)’ が幅を利かせる日本人の社会では、道徳を進めることは難しいようですね。

>こんな現実の中では、道徳教育をいくらやっても効果が低いと言えるでしょう。

そうですね。根本的な対策が抜けているようですね。それは、言語の問題です。

>命を大切にする心、思いやりの心といった精神は、学校で道徳教育を受けたり、大人から何度も聞かされたりすることによって育つ時代ではなくなってきています。>子供が生まれ育った環境や、子供の実体験によって自然と身に付いていく必要があります。

そうですね。我々は、実体験に基づいて考えることのできる人になる必要がありますね。

>子供の心を育てようと思ったら、健全な心が育つような環境を用意し、実体験を多く積ませてやらなければならないということです。

健全な心が育つような環境を用意している人の話は、聞いたことがないですね。

>人間であれば当然持っているはずの道徳心が身に付いていない子供たちは、そのような心が自然と育まれる環境にいないと言えるのです。

意思のある人は、加害者意識を経験する。’悪いことをした’ 、‘ああ、やらなければよかった’ と反省する実体験をもっている。反省が強い場合には、罪の意識になる。’どうかして、この罪を償いたい’ と考えるようになる。さらに深刻な場合には、本人の人生の方向すら変えるものになる。だから、意思のある人々の住む社会では、贖罪の宗教 (キリスト教) が力をもっている。
日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容として表現されるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制もない。それで、日本人には、意思がない。
大の大人でありながら、罪の意識のない人々を見るのは恨めしい。英文法には時制があり、英米人には意思がある。だから、’恨めしやー’ と言って化け物が出て来ることもない。
人々に意思のある社会では、罪の話が出てくる。心に突き刺さる深刻な話である。罪がなければ、我々は自由である。日本人の社会では、およそ罪の話は出てこない。罪の観念が無ければ、心から犯罪を抑えようとする使命感も出てこない。だから、我が国の道徳教育は ’百日の説法屁一つ’ になる。幾多の聖人と法王の下で凶悪犯罪が絶えないのは、罪の意識のない人間のいる事実の証明である。しかし、彼らは少数派であることにかわりない。


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