我が国は、自由主義国家グループの一員である。自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になるので何処に行っても認められない。だから、’日本人は、不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
民主主義についてのチャーチルの名言は ‘民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。’ である。
民主主義に対抗する権威主義は、個人の多様性を認めない。権威主義者の考え以外の考えは裏切りとなる。権威主義者が裏切りを防ぐ手段は粛正である。粛正により人権が無視される。それで権威主義者は評判を落とす。
中国とロシヤの政府は人権無視が甚だしい。人権とは、'全ての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利' である。大量虐殺の手はもう古い。
国民がこぞって叫んだ ’日本は必ず勝つ’ というシナリオは本当に存在したのか。それとも、たとえ負けてもアメリカとの戦争だけは何が何でもやりたいという動機が存在したのであったのか。その政治の責任者は誰であったのか。敗戦後の戦争責任の追及はどうなったのか。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
頭の不自由な人は何処の国にもいる。しかし、わが国においては国家の最高責任者が選りによって頭の不自由な人であったらしい。おかげさまで国民は奈落の底に落とされて塗炭の苦しみを味わうことになった。国民は政治責任者の言動を監視して阻止できていなかったのがくやまれる。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
政治には未来の内容が必要である。未来を先取りする作業が政治である。ところが日本人には未来の内容を考えることができない。日本語文法には時制というものがないので、未来時制もない。だから、未来の内容を文章にすることはできない。未来の考えは成り立たない。日本人の未来の内容は夢幻のようなとりとめのない発言になる。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。日本語には未来時制がない。だから、日本人の考えには未来の内容がない。既成事実の追認と他人・他国の後追いばかりになる。これでは先進国にはなれない。
日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、責任追及の手段にならない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬にも浅薄さが付きまとう。
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