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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

比較の問題 2/2

2019-10-13 05:50:35 | 教育

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。これは、楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章の理解が必要になる。これは、骨が折れる作業である。だから、通常日本人は理解をしないで済ませている。その代わりに、忖度 (推察) を使う。
忖度は、理解に似ているが全く別の代物である。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。現実直視になっていない。だから、その内容には、発言者は責任がない。だから、議論にもならない。独りよがりは、どうすることもできない。現実直視が欠けていることを指摘すれば、’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という答えが返ってくる。だから、事態は改善しない。ちょうど、戦時中に ‘日本は必ずこの戦争に勝つ’ と言う人の発言を聞いているようなものである。わが国は、理性判断不在の世界である。このような状態であるから、外国人に対して有効な説得力を持たない。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

、、、ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章により表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) により表される。これら三世界の内容は、果てしなく展開が可能である。だから、その人の世界観になる。
人生のはじめには、非現実の世界は白紙の状態である。だが、この白紙の状態は、誰しも気になることである。だから、各人が少しずつその内容を蓄えて行く。
思春期になれば、言語能力が飛躍的に伸びるので、英米人は考える人になる。高等教育を受ける適齢期になる。彼らは、自分の哲学を作る為に大学に進学する。他人の哲学を手に入れるために大学に進学するのではない。かくして、彼らは、学士・修士・博士の称号を得る。自分自身の非現実 (考え) の内容を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 私は、’哲学とは何ですか’ と何回も日本人のインテリから尋ねられた。だが、英米人からそのような質問を受けたことはない。哲学とは、’考え’ のことである。歴史に関する考えは、歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学、科学に関する考えは科学哲学、人生に関する考えは人生哲学、などなど。 日本人と英米人には、哲学 (考え) に対する親しみやすさに違いがある。この違いが、わが国の英米流高等教育発展への大きな妨げになっている。その上、わが国特有の序列競争の激しさが加わって学問の本筋への熱意がそがれている。
時制は、英文法にあって、日本語の文法にはない。だから、日本人には非現実の内容が無く、批判精神がない。そして、英米流の高等教育への進学にも意味がない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)



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比較の問題 1/2

2019-10-13 05:02:47 | 教育

>今年春の4年制大学進学率(18歳人口ベース、浪人込み)は53.7%と報告されている。 >この世代の半分が大学に行くことの数値的な表現だ。 >これは世界有数の高さで、日本が教育大国と言われるゆえんでもある。

そうですね。しかし、残念なことに、わが国においては教育が人間序列形成の手段に使われていますね。これは、序列人間の性によるものでしょうね。

> 大学の上には大学院が置かれる。 >目的は「学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、又は高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与すること」だ(学校教育法第99条)。 >研究者だけでなく、高度専門職業人の養成も担うとある。 

大学院は、我が国民の要望に応えて設立された教育機関でないでしょうね。

>そのため、能力ある優秀な若者の入学が期待されるが、日本の生徒の大学院進学志望率は低い。

日本人の能力は、序列争いのための能力ですからね。限りなく世俗的 (現実) であって、学問的 (非現実) ではありませんね。

>さらに、中学校2年生の4年制大学進学志望率は56%と高いが、大学院になると3%まで激減する。

一旦人間の序列が大学入試で定まれば、日本人としてそれ以上に望むことは何もありませんからね。これは、当然の結果でしょうね。

> 大学院とは何たるものかを知らないのかもしれないが、一番に大学院へ行っても恩恵はない、行き場がなくなることを早くして心得ているのかもしれない。

そうですね。わが国は、無哲学・能天気の人間の住むところですからね。学問をしたら行き場がなくなることは目に見えています。外国留学をして帰ってきたら就職先に困るようなものでしょう。

>この危機的教育の現場を通して子供たちは潜在的に感じているのだろう。

日本人は、何が危機であるのかも本質的なところを理解していないでしょうね。子供たちは、それを雰囲気として感じ取っているのでしょう。

>もう今の教育、学校は終わっている。

そうですね。終わりがあって、始まりがない。それが我々の本質的な問題でしょうね。
わが国は、序列判断の国である。世俗的な序列順位により判断をするので、心底満足のゆく価値観が教育機関から得られない。
何事も比較の問題である。だが、日本人には、非現実 (考え) の内容がない。だから、現実対現実の内容の比較オンリーになる。それで、終わりである。興奮して得意になっても、’それでどうした’ (So, what? ) という英米人の問いには答えが出ない。だから、結局人生は空しい。
この種の問いに答えるためには、非現実 (考え) の内容対現実の内容の比較が必要である。それのない比較は、浅はかでありつまらない。思慮深い相手を満足させることができない。


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