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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

個の自分

2019-10-12 12:01:11 | 文化

(略)
>  ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。 >だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。 >「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。  

そうですね。

>  日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。 >それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人には、考えがない。だから考えの内容を理解することはできない。
日本人には、考えでないものがある。だから、察しが幅を利かせている。

>  これには宗教観も大きく影響している。  ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。>その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。

その内容は世界観ですから、間違っても人間ではありませんね。

>ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。

そうですね。’あるべき姿’ の内容は、自分の外側にありますね。

>  それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。 >だから身近にいろいろな神様がいる。 >中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。>仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。>僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。

そうですね。’人間はみな仏’ なのかもしれませんね。

>  このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。

そうですね。個の確立を願えば、小乗仏教の人になるでしょうね。

>ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。

そうですね。個の確立が我々の理想ですね。だが、日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人は仕方がないので、無為無策でいる。それで、精神修養の必要性が語られる。

>個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するためには、その文章内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は通常、理解というものを避けている。その代わりに、忖度 (推察) を利用する。だが、忖度は、理解とは似て非なるものである。忖度は、聞き手の勝手な解釈であって、現実直視になっていない。いうなれば、空想・妄想の類である。’現実直視になっていない’ ことを批判すると、当人は、’だって、本当にそう思っていたのだから仕方がないではないか’ と抗弁して譲らない。だから、いつまでも現実直視ができないでいる。お陰様で、わが国は、漫画アニメの大国になりました。  

>  もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。 >でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。

そうですね。わが国においては依然として、人もアニマルの如くに自然の中に溶け込んでいますね。

>人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。

そうですね。不自然ですね。それが日本人の結論です。日本人には、意思がない。意思がなければ、責任もない。日本人に災害の責任を問えば、それは牛馬の苦しみになる。とかく、この世は無責任。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

(略)