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考えないこと

2019-10-07 11:35:36 | 教育

> にほんブログ村 子育てブログへ  >以下(https://bllackz.com/?p=118)より引用します。
>—————————–
>■「よけいなことを考えるな」というメッセージ
> サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。

そうかもしれませんね。

>何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。

マニュアルは、マニュアル人間のための聖書ですね。

>マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。

そうですね。日本人のための作法のようなものですね。

>マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。

そうですね。ご唱和の世界の道具立てですね。

>しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。

そうですね。自分勝手な言動は許されませんね。その代わり、その実行には責任が伴わない。

>誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。 >マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。

そうですね。製品・サービスに個人的なばらつきは歓迎されませんからね。

>サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。 >それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。

そうですね。

>それもそうだ。 >考えるというのは、自分の意見を持つということだ。 >考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。

そうですね。個人主義ですね。わが国の社会では、敬遠されがちの主義主張ですね。

>サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。

それは、ノンマニュアル組の人間のすることでしょうね。責任者が責任をもって事に当たるのが正当ですね。

>だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。

そうですね。考えない教育は、日本人の特性に適合していますね。

>学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。 >そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。

そういう事になりますね。お陰様で、技術立国となり経済大国になった。

>■日本の教育では「考えさせない」ことが使命
>ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。

そうですね。しかし、考えることは、難しい。

>しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。

考えない事なら、日本人にもできる。

>教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。 >それには、次の5つによって、成し遂げられている。
> (1)暗記を押し付けて「考えさせない」

暗記は、現実の内容である。考えは、非現実の内容である。現実の内容は、日本人の頭の中にもよく入る。非現実の内容の想定は難しい。その理由は、非現実の内容を盛り込む枠組みが日本語には存在しない。

> (2)苦手を押し付けて「考えさせない」

苦手の事柄に関しては、個人的な発想が滞りがちですね。

> (3)制服を押し付けて「考えさせない」

制服は、没個性の表われですね。

> (4)規則を押し付けて「考えさせない」

規則の内容は、現実 (既成事実) である。考えの内容は、非現実である。現実の内容は、’本当’ のことである。非現実 (考え) の内容は、’嘘’ である。だから、考えの内容は、日本人の想定外になりがちである。

> (5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

団体行動中では、他への追従を余儀なくされますね。

(略)
>日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。

そういう事になりますね。

>あなたは考えているだろうか? 

私には、少々考えがあります。

>あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。

そうですね。受験テクニックは全て忘れました。

>ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。 > 下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。

そうですね。’生養生は、怪我のもと’ ですからね。

>—————————————
>従順なサラリーマンになるため16年間も思考停止の訓練を続けてきた。 >企業がそういう人材を求めていた時代ならそれも意味があったかもしれません。 >しかし時代は大きく変わり、自ら考え、追求できる人材がいなければ企業も存続していけません。

そうですね。

>学校教育の現実を知るとともに、これからの学校をどう変えていくか? >小学校から大学まで、その在り方を根本ヵら考え直す時なのだと思います。

そうですね。現在の学校は、日本人の特性を生かした教育をしていますね。その在り方を根本から考え直すと、日本語を根本から考えることになるのではないでしょうか。


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覚える・考える

2019-10-07 04:05:42 | 教育

> にほんブログ村 子育てブログへ  >以下(https://bllackz.com/?p=118)より引用します。
>—————————–
>多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

そうですね。

>・覚える。 >・考える。 >この2つは似ているようで、まったく違う。

そうですね。

>覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。 >しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。>それが「考える」というものだ。

そうですね。

>学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。 >しかし、考えさせているのだろうか。

学校は、考えさせてはいないでしょうね。

>日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。

そうですね。

>覚えさせても、考えさせないのである。

そうですね。

>「考える」という部分を軽視している。

考えるのは、難しいですからね。都合により省略しているのでしょう。

>なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。 >学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。

それは、そうですね。

>日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。

そうですね。それが、一番簡便な方法ですね。

>■教育とは子供を規格化するという側面がある
>学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。>子供を規格化するのだ。

そういう事になりそうですね。

>日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。

学校を出たら就職ですね。

>ここに問題がある。
>サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。

自分の頭で考えるのは、難しいことですからね。

>だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。

わが国の現状は、日本語の性質にも関係しているでしょうね。

>上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。 >あることに気づかないだろうか。 >「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動ばかりで能動がない。指示待ち人間になる。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

そうですね。つまり、無哲学・能天気だということですね。

>「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。

そうですね。上意下達の励行ですね。

>つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実・考えの内容は、時制のある文章になる。しかし、日本語の文法には、時制というものがない。だから、自己の考えを文章にすることは難しい。自分で考えないことは、楽ちんでもある。

>「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

そうですね。自分で考えない人には、作法の励行が便利ですね。

>「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

奴隷には、自由というものがない。自由は、意思の自由のことである。しかし、日本人には、意思がない。だから、自由にも意味がない。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、文章にならない。だから、意味も無い。議論にもならない。
意思 (will) の自由は認められても、恣意 (self-will) の自由は認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ と称されて、社会的に受け入れられない。だから、わが国においては、いまもなお ‘不自由を常と思えば不足なし’ となっている。

>「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。

そうですね。’個人の考えは通らない’ が通り相場となっています。考えは、人によりまちまちです。日本語には時制がないから、個人の意見の内容を識別することが難しい。だから、人々は、個性のある考えの内容に興味を持たず、没個性の社会になっている。個性の存在を認めなければ、優れた個人の選出もない。


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