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二人の巨匠

2019-06-08 21:15:07 | 学問

>346593 東洋と西洋 ~二人の巨匠の会話~ >HAYABUSA ( 40代 ) 19/06/08 AM00 【印刷用へ】
>実現塾で西欧科学の過ちを学んだ。>一神教の絶対観念を根底にもつ科学は、認識という意味では偏りがある。>ものの見方=認識。西と東では、180度異なる。>その事例として、インドの思想家:タゴールと、西欧科学の象徴:アインシュタインの会話を思い出した。
>―――――――――――――――――――――――――――――――――――
>【タゴール】 >この世界は人間の世界です >世界についての科学理論も所詮は科学者の見方に過ぎません

そうですね。科学者がいなければ、その理論もない。

>【アインシュタイン】 >しかし真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか? > 例えば私が見ていなくても月は確かにあるのです。

そうですね。月は現実であります。学者の理論とは無関係に存在します。

> 【タゴール】 >それはその通りです。>しかし月はあなたの意識になくても他の人間の意識にはあるのです。>人間の意識にしか月が存在しないことは同じです。

そうですね。人間の意識が万物の根源になりますね。

> 【アインシュタイン】 > 私は人間を超えた客観性が存在すると信じます。>ピタゴラスの定理は人間とは関係なく存在する真実です。

全ての考え (数式を含む) は、文章になる。文章にならないものは考えではない。言語 (文章) を使う動物は人間だけです。人間を超えた客観性は存在しないでしょう。

> 【タゴール】 >しかし科学は月も無数の原子の描く現象であることを証明したではありませんか。 >あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも無数の原子を見るのか、 人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

そうですね。この世界は、人間中心でできていますね。

>―――――――――――――――――――――――――――――――――――
>人間を超えたところに普遍的な真理が存在すると言うアインシュタイン。>事例としてピタゴラスの定理を出したが、タゴールは納得しない。>ピタゴラスの定理は、現実世界には存在しない。>数学の前提である「点」は目に見えるのに重さも面積も持たない=完全な理想状態として数学が組み立てられている。>つまり、完全理想状態を措定しうる人間のみが可能な概念がピタゴラスの定理であるのだから、人間がそうだと思わなくなれば、存在しないのと同じだ。>タゴールは「人間を超えたところに真理があると言いながら、あなたの思考は人間のみが可能な思考様式の枠から出ていません」と反論している。> 若い時分に読んだ時は全く意味が分からなかったが、少し分かった気がする。

それは、良かったですね。

> 参考 >リンク


池上彰氏・佐藤優氏

2019-06-08 11:02:46 | 教育

> 有名大学に入学したとたん、何をすればいいのか分からなくなる学生がいる。

それは、そうでしょう。学生は、序列競争の圧力に追いかけられてやっとここまで来たのだからですね。

>その原因は「学ぶ喜び」を奪う受験勉強の行き過ぎにあるのではないか。

序列競争の過熱化は、学ぶ喜びとは関係ありませんね。

>ジャーナリストの池上彰氏と作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が対談した――。
> 「地方の公立校の人間が非常に少ない」

地方の公立校は、処世術に後れをとっていますからね。

> 【池上】私は、今、東京工業大学で教えているのですが、いろんな意味で深刻だと思うのは、入ってくるのが圧倒的に首都圏の中高一貫私立校出身者で、地方の公立校の人間が非常に少ないことなんですよ。状況は、東京大学でも一橋大学のような大学でも同じでしょう。

首都圏には、世俗の処世術に長けた人間が非常に多いですからね。

> 【佐藤】学生たちが均質化している。

受験勉強は、同次元序列の争いですから、個性はあって無用なものとなる。その結果、学生たちに没個性・均質化が起こる。

> 【池上】そうです。 >彼や彼女たちは、基本的に恵まれた環境に育ち、子どもの頃から塾通いをし、偏差値の高い私立学校で学び、とずっと同種の人間たちばかりのコミュニティーで育ってきました。>頭はいいし性格も悪くないのだけれど、視野が狭い。

偏差値教育には、世界観が欠けている。

>難しい方程式をスラスラ解くことはできるのに、今世の中がどうなっているのかというようなことになると、全然知識がないのです。

彼や彼女たちは、処世術の方に磨きがかかっていますからね。

かつての東大には、地方の公立高校出身者が多数いて、野武士のような若者たちが梁山泊を形成して、天下国家についても侃々諤々(かんかんがくがく)やったわけでしょう。>今は、そんな雰囲気はまったくありません。

現代の学生に天下国家は関係ありませんね。

>当然、その環境は霞が関まで続いていて、そういう人間たちがごそっとそこに集まるわけですね。>これは恐ろしいことです。

そうですね。受け売り専門の天下の秀才ばかりでは、地球村はどうにもならない。

> 【佐藤】それに比べれば、私が同志社大学の神学部で教えている学生たちは、同質的ではありません。> 中略 > 日本の教育は「総崩れ」ではない 

苛烈な掃討作戦にも生き残りがいたのですね。

>【佐藤】だけど、教えた中学生の中には、大学レベルの授業に十分ついて来られる子もいて、驚きました。

そうでしょうね。個人の適性は、各種各様ですからね。

>しかも、生徒たちには、他人の気持ちになって考える共感力があった。>「受験刑務所」化していない証拠です。

そうですね。忖度 (推察) ・歌詠みは、日本人の得意芸ですからね。

> 先生と話していると、口には出さないけれども、受験には適性があるという思いが伝わってくるんですね。

序列競争のために、個人の適性を殺すことは残念なことですからね。

>「覚えて再現する」という試験にも向き不向きがあるから、1、2年間頑張って、向いていないと思ったら無理して難関大学を目指す必要はない。

そうですね。人には、向き・不向きがありますからね。

>受かる大学でしっかり勉強して、そこで上位層に食いこむほうが、よほど意味があるだろう、と。

得手に帆を揚げる人生を選ぶのですね。

>実際に生徒を教え、先生たちと話してみて、あそこの教育はグローバルスタンダードに耐えうるんじゃないかと、私は個人的に思いました。

没個性の旋風に耐える学校も例外的にあるのでしょうね。

>あえてそういう経験をお話しするのは、特定の学校を持ち上げることが目的ではありません。

そうですね。特定な学校にもいろいろありますからね。

>日本の教育が大変なことになっているのは確かなのだけれども、かといって「総崩れ」になっているわけではない。

そうですね。わが国は、昔から地道に教育をやってきましたからね。

>そこも正確に見ながら必要な改革を進めていくことが大事だ、と考えるからなのです。

大人による、子供の個性の見極めが必要ですね。思考停止の状態でありながら ’序列・序列’ で明け暮れるわが国の序列社会が間違っている。世俗の序列制度の廃止が必要な改革でしょうね。



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固定的・流動的

2019-06-08 06:06:41 | 社会

> 【世界の捉え方:「単純・固定的・分解」と「複雑・流動的・連続体」】
>西洋は、世界は固定的で単純な法則に分解できるもの、と捉えます。>なので世界を理解するには、どんどん細かいカテゴリーに分解していって、そのものが持つ変わらない属性を理解するというアプローチを取ります。>世界は固定されているので、「名詞」によって世界を体系的に記述します。

リンネ式植物分類法のようなものですね。

> 東洋は、世界は流動的であり、複合的な要因によっていろんな物事がおきる複雑なものと捉えます。

現実の世界は、千変万化していますね。

>常に変わりゆくものを区切ることはできないので、全ては一続きの連続体であり、物事はその文脈と関係性によって認識されます。>言葉としては「動詞」による体系となっていきます。

発言は、実況放送・現状報告の内容ばかりですね。

> 【人の特性:「個人主義・競争・目的達成」と「集団主義・協調・有機体」】
> 人や組織の捉え方や個性も、上に書いた世界の捉え方に則っています。> 西洋では、「固定的な属性」で世界を理解していたのと同じく、人も環境に左右されない「その人ならではの個性」を持っているという前提に立ちます。

そうですね。’つかみどころのない人間’ にはなりにくいですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>そのため、個人が自分自身の意思や主体性を発揮し、人よりも秀でることを目指すことが奨励されます。

個性の実現ですね。

>どんな行動をとったのかも、あくまで「その個人」の中にある特性に原因を求めがちです。

意思のある個人には、責任がある。責任者になることができる。

>組織も、その延長線上にあり、「目的達成のためのシステム」として捉えられる傾向が強いです。

‘我らはどこに向かうのか’ という哲学的な命題がありますね。

> 東洋では、「流動的で複雑な世界」の中に居る人も、関係性や状況の中に存在するものとして認識されます。

眼前の現実は、千変万化してとどまるところを知りません。

>個人ではなく集団の目標を重視し、そのための協調的な行動が奨励されます。

没個性的ですね。個人に属する考えの内容というものが存在しない。

>行動の原因も文脈の中にあると捉えられ、組織もそれ自体が有機体として存続することが重視されます。

日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。意思の無い個人には、責任もない。とかくこの世は、無責任。

> 【「固定的」から「流動的」への変化】
>こうやって整理して眺めると、いま多く見られている企業運営のコンセプトや考え方、そして当然それに基づいている仕組みや制度など、「西洋的」な特徴を色濃く反映しているのが良く分かります。> 最近、新しい組織運営のカタチが模索されていることは、「今の組織運営の抱える問題点を解決する」ということではなく、そもそも、「世界を“固定的”なものから“流動的”なものへと捉え直す」という大きな流れの中で起きている変化と捉える方が輪郭がはっきりしそうです。

印欧語族の考えの内容は、文法上の時制により独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来など) に分けられている。各々の世界は個人により独立した展開が可能である。
日本人の内容は、日本語の文法に時制がないから、眼前の現実しかない。そして、その現実は、千変万化する。その正解は、常に唯一つ存在する。印欧語族の非現実は個人の考えの内容になるが、日本人の眼前の現実は考え (非現実) にはならない。このことは、アニマルについてもいえることである。


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