>>はなから言語化(マニュアル化)する事をあきらめるのではなく、その努力を止めてはいけない。> 意識と言葉にギャップを感じている若者(若者以外でも)が非常に多いようです。
新しい言葉 (単語) を作る必要がありますね。
> 大人たちが使う言葉は、古い言葉=旧観念がほとんどで、こういうもの、こうあるべき、こうするべき・・・というものがとても多い。
教えの中に書かれている単語の類ですね。
>かといって言葉(観念)は、みんなと共認(充足)するためのものだからなくては困ります。
そうですね。意思疎通は、大切ですね。
>>なるべく多くの人に自分の生み出した技を使ってもらい社会貢献するには言語化は必須なのだと思う。
考えを他に伝えるためには、文章が必要ですね。
> 多くの人と共認するため、使ってもらうために、意識や物事にフィットする言語化=新しい言葉(観念)を創ってゆくことは必要ですね。
そうですね。同感です。
> 以下になるほど~と想った記事を紹介します☆ >『変えよう!日本の学校システム』~言葉が意識を覆ってしまっていないこと~リンクより引用
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>谷川俊太郎の詩を題材にして、言葉と沈黙についてのレポート集があった。>ある女子生徒は、「愛、神といったものは形がなく言葉によって作りあげられたもの。 >非常に観念的で、人間が考えを変えればあっさりと壊れるものだ。」と言う。>しかしその形のないものたちは、言葉によって縁取られることにより、色濃く存在するのだと。
そうですね。考えは、存在しますね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
考え (非現実) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話を理解するためには、その文章を理解しなくてはならない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。その時制のある文章内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。かくして、人は世界観を持つことになる。
英語の文法には、時制というものがある。だから、英米人には、世界観がある。日本語には、時制がない。だから、日本人は、無哲学・能天気のままでいる。
現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。形がある。考える必要は無い。
>ある男子生徒は、「僕は言葉に染まりすぎている」と書く。>「本当の理解っていうのは、息を吸うのと同じようにとか、ジュースを飲んで身体の中に入っていくのとか、メロディーを覚えるのと近くて、スゴクすがすがしい感じの物さ」
それは、考え (非現実) ではないでしようね。気分・雰囲気のようなものでしょう。非言語の精神活動 (絵画・彫刻・音楽のようなもの) であり、歌詠みの題材になります。日本人の歌はバラバラな単語のままで存在し文章にならないから、意味をなさない。非言語の精神活動ですね。
>また別な男子生徒は、スポーツをしていて無我になった体験を書いている。>そして、「言葉があると、いろいろ考えるし、つらいことばっかだろう。>だけど、だからこそ言語がない世界にあこがれるんだろうなと思った」
‘私は、貝になりたい’ ということですか。
(略)
>受験勉強プレッシャーに屈し、70年の大学紛争に巻き込まれて、いつのまにか自分の思想、自分の言葉にしがみついていた。>孤独と不安がいつもつきまとい、言葉に慰安を求める人生になった。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
>自分の意識と言葉にギャップを感じている若者たちは、ほんとうは宝物である。>彼らが、個人の意識に、社会のあり方に新しいものをもたらしてくれる。
社会の在り方を語るには、世界観というものが必要ですね。だが、日本人には世界観がない。
>創造的なものというのは言葉に汚されていないもののことである。
非現実 (考え) の内容を現実の中で実現させたら、それは創造したことになりますね。
>研究者のデータと論文からも、シンクタンクのレポートからも、生まれるはずがない。>ほとんどの大人たちは、すでに言葉の罠にはまっている。
非現実・考えの内容は、頭の外にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解しなければならない。だから、考えなくてはならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容を文章にするには、時制 (tense) というものが必要である。英文法には時制があり、日本語文法には、それがない。
思春期になると言語能力が発達するので、人間は ‘考える人’ になる。高等教育への適齢期である。英語のような時制のある言語を使って高等教育を受けると、論理的な思考の獲得に能率が上がる。時制の無い日本語を使って大学教育を受けると、四年間を校内で遊ばなくてはならなくなる。
>その大人たちが、教育理念を作り、カリキュラムを作り、道徳を作っても、人間の生きる力そのものを捉えることはできない。
創造力が必要ですね。それには、非現実 (考え) の内容を文章として表現する技術が必要ですね。日本人には、それがない。我々日本人は、日本語と英語の両言語を学んで、時制の重要さを十分に理解して、自己の非現実の内容を世界に文章として示さなくてはならない。さすれば、自己実現の世界は拓けます。
>標語を掲げて満足できるような人間に、教育を任せるべきではない。
そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>とにかく、子どもと接してみたまえ。 >まだ言葉の壁ができていない若者と接してみたまえ。 >いかに、自分の理想や信念が無力であるか、実感できるはずだ。>子どもや若者のあるがままを感覚で捉えていることが、ものすごく重要なことなのだ。
そうですね。人手を介さない知識が貴重ですね。
(略)
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