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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学ぶこと

2019-04-17 21:20:05 | 学問

>僕は学習にはそもそも二つの種類があるのだと思っていて、「学ぶ」と「勉強する」をここではあえて使い分けていきたいと思います。 >先に区分けを明確にするために、この2つの言葉の勝手な定義からしてみると、 > 学ぶこと = 自分が深掘りしたい問いについて、主体的に探求すること >勉強すること = すでに誰かが知っている正解について、早く理解すること。

そういうことでしょうね。同感です。

>私たちはつい「学習」という言葉が使われるとき、勉強のイメージがつき過ぎていて、つまらなそう、いっぱい暗記しなきゃ、間違うと恥をかく、といったシーンばかり思い出してしまうのではないでしょうか? 

学校で、恥をかくことも多かったですね。

>でもちょっと立ち止まってみると、小さい頃に「あれなーに?」「どうして海はしょっぱいの?」といった質問攻めをして親から「そんなことより静かにして」と言われたことが誰でも一度はあると思います。>人はそもそもとても好奇心の強い生き物なのだと。

子供の頃は、皆さん好奇心が強いですからね。

>このように、人がここまで発展してきたのはこの知的好奇心を元に「学習」しまくった結果なのだと思うと、何かを知りたい、学びたいという欲は、人の根幹なのだとも僕は思っています。

我々は、’考える人’ になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

>人間の好奇心は、どうしてなくなるのか? >『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』を書いた作家、ミヒャエル・エンデの問いに「なぜ言葉を理解していない赤子が、言葉を覚えれるようになるのか?(そこに意味を見いだせるようになるのか)」というものがあるのですが、犬も赤ちゃんも、言葉が話せないという点では同じなのに、なぜ人間だけが言葉を、その奥にある意味を理解できるのかは本当に不思議です。

それは、不思議ですね。

>この違いは人間の「好奇心」が桁外れに強いことにあるのだと思うのです。

言語の発声は、のどの構造に大きく左右されるでしょうね。

>(犬もとても賢いと思いますよ!)ではなぜ僕らは大人になるにつれて、そんな好奇心をなくしてしまうのか? >それは「自分の問い(不思議に思うこと)について学ぶことよりも、他者の期待に応えるために、他人から迫られて勉強ばかりに時間を奪われてしまう」からだと思うのです。

そうでしょうね。

>「学習性無力感」という言葉があります。>例えば2m飛べるノミを高さ50cmの透明な箱の中にいれて、ずっと天井に頭を打ち続けると、箱から出した時に50cmしか飛べなくなるという実験がありますが、これはノミが「50cm以上飛ぶとよくないことが起こる、または自分は50cmしか飛べない」ということを学習した結果というのです。

そういうこともあるでしょうね。

>僕たちは大学まで含めると20年くらいの時間、ずっと「自分で問いを持つことは時間の無駄」であって「早く暗記して、なぜ勉強するのかの問いを持つよりも単語を一つでも覚えること」ばかり学習していきます。

そうですね。他者の要求に追われてばかりいましたね。

>自分で問いを探求するということに対して、僕らは無力感を覚え、無駄だという感覚ばかりを学習してきてしまっているのです。

それは、処世術に毒されているからでしょうね。

> 心を伴う知、知性 >現在AIの話などが盛んで「人工知能」という言葉があります。 >しかし人工知性とは言いません。 >知性と知能の違いはなんでしょう? > それは「知性」は心を伴う知であるのに対して、知能は心を伴わないあくまで機能でしかないということです。

そうかもしれませんね。知性は、個人的な価値観の問題ですね。

>エクセルの計算などは知能が進化していけばできるようになっていきます。>しかしながらあなたにとって価値ある人生とはなにか、といった問題については、知性を磨かないといけない。

そうですね。エクセルでは、哲学的な、しかも個人的な問題に答えを出すのは難しいでしょうね。

>自分の内側、自分の心がどう感じるかを理解するためにこそ、僕らは他者であったり外界と接点を持ち、そこから学習するのです。

そうですね。毎日が学習ですね。

>僕のおじいちゃんは仏師(仏像を彫る人)だったのですが、仏像を彫るという行為は、木から仏を取り出す行為だそうです。

それは、よく言われていることですね。

>僕は人も同じように、「自分のしたいこと」や「好きなこと」というのはほっといても内側から湧き出てくるというよりも、たくさんの社会や他者に触れて自身を削ってみて初めて内側に現れてくるものというイメージが強いのです。

そうでしょうね。

>学ぶということはまさに、自分の内側にいる自分を、自分で掘り出していく作業のように捉えています。>だからぜひ、まだ好きなことやしたいことがない人、おぼろげだという人、自分にとって豊かな人生とはないかを探求してみたい人は、学び続けてほしいと思っていますし、そういう人と話すことで僕自身ももっと学びたいといつも思っています。

そうですね。Education (教育) とは、’能力を導き出す’ ことでしょう。生涯教育ですね。


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ヘウレーカ

2019-04-17 15:15:55 | 学問

>「教育において伝えられるべき価値は何か」という最初の問題に話を戻すと、それはまさに「今自分が学習している内容や、学習している という行為それ自体が確かに貴いものだという 手ごたえ」であるべきだと思う。

それは、必要なことですね。

>言葉を換えれ ば、「本当に素晴らしい真理を知ったという喜び」「自ら真理に到達しようとしている充実感」こそ、学習者が手にすべき価値なのである。

そうですね。

>その点では、教授者は様々な知識の伝達者という役 目を超えて、この「喜び、興奮」の媒介者でな ければならない。

それは、日本人にとって難しいことですね。
現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。
ところが、非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するのには、その文章を理解しなくてはならない。それで、文法が必要になる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。ところが、日本語文法には、時制というものがない。だから、非現実 (考え) の内容を日本人は、文章として発表することができない。この状態は、とりもなおさず思考停止の状態である。このような事情により、日本人は、無哲学・能天気の状態に置かれていると考えることができる。だから、話による ‘喜び・興奮’ の媒介者になることは難しい。

>「創価教育学」を創始した牧口 常三郎先生はかつて「教育は知識の切り売りや 注入ではない。

そうですね。知識の ‘切り売り・注入’ は、思考を停止している人々の日常的な作業になっていますね。

>自分の力で学ぶことを会得させ ること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。」と述べた。

子供の頃は、毎日が新発見ばかりでしたけれどもね。

>まさに「本質的議論」であると思う。

そうですね。日本語は、写生画の言葉である。見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることのできないものは、’嘘’ である。誰も ‘見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の非現実 (考え) を語ることはしない。現実離れのした話は、常に想定外になっている。だから、無哲学・能天気でいるより仕方がない。

>アルキメデスは当時の国王から、「王冠が純金製なのか銀が混ぜられているのか、壊さないで判定する方法を考えよ」と命じられたが、自分の体が浮かぶ風呂の中で浮力に関する「アルキメデスの原理」を発見し、見事にこの難題を解決して見せた。

彼は、幸運でしたね。

>この原理をふろの中で発見したとき、アルキメデスは「ヘウレーカ(見つけたぞ)!」と叫びながら裸で街中を走り回ったと伝えられている。>これはさすがに作り話のように思えるが、まさに人類の文化の推進力は、この「ヘウレーカ!」にある。

そうですね。

>「真理への好奇心」と「真理発見の感動」によって、人類は新しい理論や技術を生み出し発展してきたのである。

そうですね。日の下に新しきものなし。されど、人は自らの考えを改めることができる。だから、学問は、永遠に進歩する。

>学校でいろいろな教科を学習する児童や生徒 も、この「ヘウレーカ!」の主人公であってほ しい。>どんなに難しい理論を扱ったとしても、 この感動が伝わらなければ教育の価値は半減す る。

そうですね。詰め込み教育は良くないですね。

>自らを超える明日のニュートンの誕生を願 い、子どもたちに感動を伝えるために、自らも新しい感動を求めて真理の探究に励むことこそ、教師のあるべき姿である。>大学での自らの授業を振り返るとき、理想と現実の落差に暗澹とさせられるが、学問探求を目指して大学の門をくぐった学生たちの学習活動が「ヘウレーカ!」に満ちたものであることを期待し、自らも一層の努力を期したいと思う。

他力本願・神頼みですか。
日本語だけで囲まれていては、無哲学・能天気の世界を脱出できませんでしょう。我々日本人も、英語にある時制を使って、自らの非現実 (考え) の内容を文章にして語るべきですね。そうすれば、現在の詰め込み教育の地獄からの脱出して真理の探究が可能になります。


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何になりたい

2019-04-17 05:08:10 | 政治
>○学生たちは何者になりたいのか?
>2020年3月卒業予定の大学3年生に「就職したい企業・業種」を調査した結果をリスクモンスター社が2019年2月に報告している。>これによると、今の大学生たちの「ある傾向」が目をひく。

新傾向が出て来たのですか。

>いろんな夢や希望を持った学生たちは、社会に出て「何になりたい」と思っているのか。>1位:地方公務員 31.6% >2位:国家公務員 18.0% >この2つを合わせると49.6%であり、事実上「公務員になりたいが半分」であるということがわかる。

そうですね。リストラがないのが、何よりの魅力でしょうね。

>3位は外資IT系の「グーグル」なのだが、これが6.1%である。>そう考えると、「公務員になりたい」と考えている若者たちが圧倒的であるというのが結果から見て取れる。

何よりも、安全第一ですね。交通ルールのようなものか。

>○なぜ安定志向に入ったのか?
>若者の半分が「公務員になりたい」と考えているというのであれば、今の若者は将来の日本に対して「ワクワクしたものを感じていない」ということになる。

胸をときめかせるものは、無いですね。

>2019年1月の有効求人倍率は1.61倍である。>この「1.61倍」というのは、仕事を探す人100人に対して「161人分の仕事がある」ということを意味しているので、数字だけを見ると「仕事は満ち溢れている」時期だ。

‘大学は出たけれど、、、、’ ということではありませんね。

>多くの企業が「うちで働ける人は来てくれ」と言っている。>にも関わらず、若者たちは嬉々として民間に向かうわけではなく、ひたすら「安定している」という点を重視して公務員になりたいと願う。

そうですね。日本人は、何処にも行かない。ただ、待っている。

>(中略)
>「少子高齢化によって停滞懸念が高まっている」>日本の少子高齢化……。>これこそが、公務員を志向する若者の「隠されたキーワード」だったのである。

そういうことになるでしょうね。

>少子高齢化の萌芽は「平成」の時代から始まっている。>平成の政治家は「誰も」この少子高齢化という時限爆弾を本気で解決しようとしなかった。

そうですね。難しい問題ですね。日本人には、答えが出ない。
現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するためには、その文章を理解する必要があります。
非現実 (考え) の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制は、日本語にはないが、英語にはある。
時制のある文章内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を示すことができる。だから、英米人は、未来に関する内容を自己の考えとして述べることができる。
当然のことながら、’あるべき姿’ の内容も自己の考えとして述べることができる。英米の政治家は、国民を唱道できる。日本の政治家には、無理でしょうね。

>日本人もまたこの問題を深く憂慮してこなかった。>そのツケは、新しい時代「令和」に回される。

先送りですね。‘そのうち何とかなるだろう’ ということですね。未来の内容は、常に想定外となっている。

>人手不足で日本は停滞し、高齢化で日本は活気を失い、少子化で日本はイノベーションも失う。

日本人には、意思がない。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 仕方がないから、無為無策でいる。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>この問題はもう解決されないかもしれない。

そうですね。適当な方法を使わないと、回復不可能ですね。それには、我々が日本語と英語の両言語を熱心に学ぶ必要が足りますね。そして、時制の果たす役割をよく理解する必要があります。さすれば、日本人も ‘あるべき姿’ を語ることができます。これが、無哲学・能天気の状態を脱する方法です。

>完全に手遅れになるまで放置されるかもしれない。

これは、先の大戦の結末のようなものか。日本人に勇気があるわけではない。ただ能力がないだけである。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

>だから、若者たちはせめて自分だけでも、そんな停滞した社会でも心配なく生きられるような職を求めている。>それが「公務員」だったということだ。

そうですね。自分だけが生き残ろうとしても無理でしょうね。処世術 (現実の方策) ではなくて、哲学 (非現実の内容) が必要です。


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