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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

意思と恣意

2018-08-01 20:39:16 | 教育
◆意思と恣意
日本人には意思がない。けれども、恣意 (私意・わがまま・身勝手) はある。これはアニマルと同じである。
意思は文章になる。未来時制の文章内容になる。文章になるものには意味がある。文章は理解されて、議論の対象になる。文章は地球上を駆け巡る。
恣意は文章にならない。ばらばらな単語のままである。文章にならないものには意味がない。単語は理解されることなく、無視される。単語の発声は周りの人にしか届かない。
意思が存在すれば、意思疎通もある。意思がなければ、意思疎通もない。それでも日本人は困らない。言外 (非言語: nonverbal) に知らせる手段を持つ。
日本人には恣意がある。だから、恣意疎通もある。これを ‘なーなー主義’ と呼ぶ。’阿吽の呼吸’ ・ ‘つうかあの仲’ ・ ’以心伝心’ などという言い方もある。この状態は、非言語の世界である。アニマルり世界である。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を含む文章は、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。
全ての人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 我々日本人の無哲学・能天気な状態は解消されなくてはならない。

恣意はどこの国でも認められていない。アメリカ人なら ‘恥を知れ’ (Shame on you!) の一喝で終わる。それをあれこれと問題視するのは日本人だけであろう。
日本人は、単語を活用する言語環境の中で生活している。これは、無言語生活といったようなものか。文章には理解があるが、単語ではどうにもならない。だが、日本人には忖度 (推測) がある。
忖度の題材は、単語である必要もない。蛙の鳴き声、鐘の音でもよい。とにかく、日本人は忖度 (推察) に熱中する性質がある。一億総歌詠みの習慣ようなものか。文章には議会であるが、忖度には談合がある。
忖度は、非言語の精神活動である。音楽・絵画・彫刻を鑑賞するようなものである。非言語活動には理解はなく、受け取る側の勝手な解釈である。だから、議論になじまない。
意味のある個人の表現は日本人にとって難しい。だが、意味のない個人差なら日本人にも表現可能である。’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という言い訳が成り立つからである。この活動は、言語による理解を超えている。

無意味な内容の存在に興味を持てば、非言語の活動にも熱がこもる。談合をしてお互いに、腹の探り合いをする。腹をくくって決着に至る。文章はないので、リーズン (理性・理由・適当) はない。ただ、決着だけがある。
西洋の神様は、自己の意思を示す。意思の内容は、聖書にも書き記されている。わが国の神様たちは、ノー・オピニオンである。出雲に集まって談合を開く。その内容は、わからない。

我が国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。だが、自分がどうであるかは、決して言わない。自分には、考えというものがないからである。だが、彼らの雄弁は止まらない。彼らは思考を停止して、他人の受け売りの専門家になっているからである。彼らは記憶力で勝負して飯を食う。幾ら尋ねても、彼らの方向は定まらない。

自己表現に価値がある。それは、建設的であり生産性がある。だが、わが国民は、自己表現が少ないので没個性的である。わが国は、只今人手不足であるが、頭脳不足であるとの話は聞いたことがない。頭は使っているのであるが、自己表現のために使ってはいない。自己がなくては、議論ができない。没個性では発展性がない。同じことの繰り返しになる。精神活動はほとんど停滞している。その結果は、ご唱和の世界の確認にしかならない。

◆現実と非現実
現実は頭の外にある。非現実 (考え) は頭の中にある。現実は見ることができる。非現実は見ることができない。考えは、ただの話であるから、聞き手の理解が必要になる。日本人の考えでは、現実の内容は ‘本当’ のこと。非現実は ‘嘘’ になる。
日本語は現実を語るための言葉である。だから、実況放送・現状報告の内容を語るために使われる。日本語で非現実内容を語れば、それは真っ赤なウソになる。
英語は、非現実の内容をも語ることのできる言語である。過去・現在・未来の三世界を個別に語ることができる。時制の一致 (the sequence of tenses) の文法が三世界の存在を保証する。だから、実学 (技術) のみならず、虚学? (哲学) をも成り立たせることができる。
恐竜の時代には、人は誰もこの地上に住んでいなかった。だのに学者たちは恐竜の生態について詳しく語る。まるで、見てきたような嘘をつく。これは、日本人流の解釈である。英語なら、これは許される。学問・哲学である。日本語ならば許されない。話の内容が現実離れしているので、信じることが難しい。これが知的活動に影響する。

現実内容は一つである。その内容に個人的な違いがあれば、事実関係調べが行われ、真実の発見に至る。
非現実 (考え) の内容は多数ある。人人により考えの内容は違っている。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。百花斉放となる。個人主義の発展により、個人の表現が可能になる。唯一の真実 (fact) ばかりを教えられた人間は、多数の真理 (truth) を受け入れることが難しい。そこで、英米人は、高等教育機関で英語の再教育を受ける。哲学を学んで、教養ある人に変身する。TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作った フランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の <不思議なインテリたち> の中で、日本人の知的未熟さについて、次のような見解を述べています。

、、、、どの大学に入れるか、それだけでなく、多くの点でこれからの全生活が、いかに「受験勉強」を突破するかによって決められかねない。しかしいったん、大学に入れば、控え目に表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学卒を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。(引用終り)

◆意思と責任
意思のない人には責任もない。日本人には意思がないから、仕事にも責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは、殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。
日本人の社会は序列社会である。世俗の序列ははっきりしていても、責任の序列は存在しない。上位の者は、意思がないので恣意に基づく命令を出す。上意下達であっても、命令者に責任観念はない。
意思があれば、加害者意識もある。罪の意識もあって、責任者は深い反省に陥ることも少なくない。意思がなければ、どんな犠牲をもためらわない。
それにも関わらず、日本人は責任が重いだの軽いだのと言っている。日本人の責任とは、義務の言い換えに過ぎないから、誰も責任は負いたくない。意思のないアニマル同様に、ただそこには義務だけがある。意思のないところに方法 (仕方) はない。だから、日本人の責任には牛馬の苦しみが付きまとう。だから、我々には、西洋人の猿真似は難しい。それぞれに文法が違うからである。英語と日本語の双方を学んで、言語の違いを理解しよう。さすれば、我々は国際人になれる。


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本来の教育

2018-08-01 00:35:01 | 教育


>私は日本の教育が「覚えろ、従え」に偏重していることが問題であることを指摘した。

これは、問題ですね。

>本来の教育は「考える、発言する」の力を「引き出す」ことにあるはずだが、日本の教育では、生徒が「考えること、発言すること」を逆に封殺することに力が注がれている。

そうですね。現実の内容は一つですからね。唯一の正解を生徒に答えさせるのが教育の目的ですね。

>人とは違う自分の考え方をもち、その考えを堂々と発表するような生徒は、日本の教育においては「問題児」とされる。

そうですね。現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話であるから、理解することが必要である。
理解を要するような課題は、日本人には荷が重すぎたのでしょう。

>上からの指示、命令に従い、自分の考えはもたず、従って、自分の考えなどは決して表明しない生徒が「優等生」として高く評価されるのである。

そうですね。牛馬のようなものですね。使用者に、都合の良い人間ですね。

>秋嶋氏は著書の設問のなかで、「日本の教育は文科省の役人が策定した「カリキュラム」であって本質的な学問ではない。>もうはっきり「愚民化プログラム」と言っていいでしょう」と指摘する。

学問には理解が必要ですね。愚民には、理解が難しい。

>秋嶋氏はさらにこう述べる。>「運営が極めて兵営的ですよね。>現に『放射能汚染が疑われる給食なんてたべたくない』なんていう口答えを絶対に許さない。>そうやって〈犠牲の分かち合い〉を強制している。>つまり戦時の軍国教育がそのまま今に生きている。>それはすなわち服従と無思考を絶対とする教条です。>国民はそれが身に染み付いているから、改憲にもまったく抵抗しない。>一部のインテリがことの重大性に気付いて騒いでいるだけですからね。」

理想の追求は、抑えられていますね。夢と希望のない国ですね。
‘戦地にいる兵隊さんのことを考えなさい’ということか。
皇民化教育ですか。洗脳教育ですか。
憲法は金科玉条ではないのですね。

>「僕の学生時代、とくに中学時代なんて収容所みたいなものでした。>たとえば校則を少しでも違反すれば体罰を喰らうんですよ。」

そうでしたね。軍隊式でしたね。

>『泥沼ニッポンの再生』の第9章「教育とメディア・リテラシー」で伊藤真氏は次の指摘を示している。>「富国強兵の下に均一的で画一的な公教育制度が敷かれてから、まだ100年ちょっとしか経っていない。>戦後の教育は大いに反省をして、本来この国にあった多様性に満ちた教育に戻ればよかったと思う。

日本人には意思がない。だから、加害者意識というものがない。罪の意識がないから、深い反省には陥らない。だから、根本的な改革はいつまでたっても行われないでしょうね。
個人の考えは、さまざまである。個人主義を認めなければ、多様性も現れない。

>けれども戦後の工業化社会を推し進めていくための教育という要請が産業界から強くきたこともあって、どうしても多様性に満ちた、そこへの配慮をした本来の教育に戻れなかった。」

現在の日本は、人手不足である。しかし、頭脳不足という話はついぞ聞いたことがない。頭を使わない国には、多様性は現れない。他に追従するばかりでは、新時代は築けない。各人に自己表現を求めましょう。個人の力が世界を動かす時代です。

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