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考えない子ども

2018-08-14 02:10:33 | 教育


>『考えない子ども』とはどんな子どもを指すのでしょうか。>それは、やりたいことがわからず、自分の人生に何の責任も持たない子どものこと。

日本語生活では、’考える人’ にはなりにくいですね。
日本語は、実況放送・現状報告のための言語です。’あるべき姿’ (things as they should be) の内容は、文章にできません。日本語は、現実描写のための言語で、’あるべき姿’ (非現実) の内容は、想定外になっています。
‘やりたいこと’ の内容は非現実の文章内容であるから、日本人にはその作文が難しい。

>日本で社会問題になっているニートの存在も、 『考えない子ども』の最たる例です。
>やりたいことがあるからニートになっている者もいるでしょうが、大半はやりたいことがみつからず、何をしていいのかわからないと答える人が多いようです。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
意思は未来時制の文章内容になる。日本語文法には時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。だから、日本人には意思がない。だが、日本人には恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。恣意はばらばらな単語のままで存在するから、意味がない。恣意の自由は、’自由の履き違え’ となって、容認されることはない。’不自由を常と思えば不足なし’ となる。

>「やりたいことがわからない」という若者が増えたと言われる昨今ですが、これはよく「みんな同じが大好きな日本社会」に起因していると指摘されます。

そうですね。やりたいことがわからないから、皆が同じになるのか。それとも、皆が同じになるために、やりたいことが不要になるのか。表裏一体となつているのか。

>日本社会で「立派な大人」、「まともな人間」として生きるには周りと同じでなければいけません。

立派な人・まともな人間は、没個性の鑑ですね。

>子どもの時からみんなと同じ制服を着せられ、みんなとどこか違う子はいじめられる。

みんなとどこか違う子は、万年 ‘みにくいアヒルの子’ のような境遇にすんでいる。

>そんなクラスの危うい和という社会では雰囲気やノリの良さが最重要項目であり、「自分の考え」を作り上げたり、述べることは歓迎されません。

‘雉も鳴かずば打たれまい’ といわれています。言論の不自由ですね。

>「出る杭は打たれる」ということわざからもあるように、集団のなかから目立つことは決していい結果をもたらさず、「当たり障りなく生きる」ことが日本社会で生きる人の“賢い生き方モデル”とも言えます。

それは、処世術というものですね。

>しかし、この日本社会を別の方向から捉えてみると、「みんなと同じように行動していれば何とかなる社会」だと言えます。>つまり、自分で考えなくていいのです。

そうですね。アニマルのようなものですね。

>生まれた時から、とりあえず周りと同じように生きればいい。>みんなと同じ制服を着て、みんなと同じような発言をして、みんなと同じモノを好きになればいい。>「異」を排除する社会では、みんな同じにしておけば問題は起きないのです。

その通りですね。

>みんな塾に通ってるから私も塾に行こう。>クラスのほとんどみんなが○○高校に行くから、自分もそこに行こう。>みんなが課外活動に入るというから私も何か部活に入ろう。>みんな大学に行くから、自分も大学に進学しよう。>このように、他の人のレールに合わせた生き方をすれば、世間では「常識的な人」と評価されるでしょう。

そうですね。可もなく不可もく過ごせます。

>しかし、社会にでる時になってその子は思うのです。>「私は一体何がしたいんだろう?」

何でも良いのではありませんか。それとも、何でも駄目か。つかみどころがない。

>これが個性が生まれにくい日本社会の弱点であり、日本では『考えない子どもが育つ』と言われる所以です。

そうですね。個性は考えの中にあります。
意思は、未来時制の文章内容である。英文法には、時制 (tense) というものがあるので、英米人には意思がある。
日本語文法には時制がないので、日本人には意思がない。だから、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。

>みんなに合わせることを徹底的に教え込まれる社会で育つと、自分というものが掴みにくくなってしまうのです。

そうですね。日本人には、自己表示がなく自己実現がない。それで、国力が低下している。
考え (非現実) の内容は、一人一人違っている。考えの無い人には、個性が見られない。

>反対にフランス社会では、みんなと同じ意見ばかり言っていれば周りの人になめられたり、馬鹿にされてしまいます。

彼らは、個人の個性に期待を寄せているからでしょう。

>子どもの時から、自分の考えを、自分の言葉で論理的に説明することを求められるフランス社会で育つ子どもとの差がここに表れるわけです。

彼らは常に文章を組み立てるでしょう。ですから、論理性が必要になるのではありませんか。日本人は、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) を使用して済ませることが多い。文章にならないものには、意味もなく矛盾も指摘できません。意思の疎通がなくて、恣意の疎通 (阿吽の呼吸) がある。人々は、忖度 (推察) を使って、生活しています。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、発言者には責任がありません。ですから、’とかくこの世は無責任’ となります。

>もちろんフランスも完璧な国ではないので、日本にはないフランス特有の問題を抱えていますが、日本は「自分で考える力」が育ちにくい社会であることは多くの海外を知る日本人が挙げることです。

そうでしょうね。現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。単なる話である。だから、その文章を理解しなくてはならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実の内容は、現実離れがしているので、日本人には信じることが難しい。
日本人の考えにしたがえば、見ることのできるもの (現実) は、'本当'のことであり、見えないもの (非現実) は '嘘' である。
誰もが嘘つきにはなりたくないから、非現実 (考え) の内容は話されることもなく想定外になっている。かくして、わが国は無哲学・能天気の社会になっている。’あるべき姿’ の指導性に欠けているので、国は時流に流される。

>小さいころ、クラスの劣等生として疎まれていた女の子がきちんと整列しなかったとき、先生に怒られてこんなことを言っていました。>「だって、みんなおにぎりみたいで面白くないもん。」> 今思えば「おにぎりみたいだ」と語ったその子こそ、個性があって自分で考える力があったのかもしれません。

そうですね。独自性のある発言でしたね。

>『考えない子どもが育つ』、ニッポンの社会で一番苦しんでいるのは「考えない子ども」そのものなのです。

そうですかね。考えるのは、難しいですね。恥の文化のある国とは言いながら、無哲学・能天気を恥じ入る人を見たこともない。



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