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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

幸福度

2018-05-07 21:58:52 | 文化
(略)
>私たち日本人は程度の差こそあれ、物質的には豊かな生活を送っていますよね。>にもかかわらず国民の幸福度は先進国下から2番目です。(略) >経済危機が起こったギリシャが先進国最下位なのはまだわかります。>でも、日本は43点で下から2番目ですからね。(略) >しかし、それを差し引いても日本だけがずば抜けて異常だと思うのは私だけでしょうか?>ほかにもこの手のデータを見るといつも日本のデータは低いですしね。>これは何かがおかしいと思ってしまっても不思議ではありませんよね。

本当におかしいですね。

> 1.日本人を不幸にしている原因とは?>では、何が日本人をこれほどまで不幸にさせてしまっているのか?>私は今の経済優先の社会システムと和をもって尊しとする日本人のお人よしさがマッチしていないのではないかなーと思っています。

経済優先で社会システムが変化したのでしょうね。日本人の精神的な変化は、それに追いついて行けない。

>みんながよりよい生活になるよう国民一丸となって頑張っていた高度経済成長期は日本人のポテンシャルを最大限に引き出しました。>まさに和をもって尊しです。>みんなで困難を乗り切っていこうぜって感じですね。

高度経済成長は、まさに序列協力のたまものですね。

>一方、不景気になり終身雇用制度も崩れ、個人の力により力点が置かれるようになった今の社会では日本人の全体としてのポテンシャルは抑え込まれてしまったように感じます。

そうですね。序列協力の成果ではなく、個人の能力が試されるような仕組みになったのでしょうね。

>結局、ひとりひとりが明確な目標もなく何のために働いているかが分からない。>極論を言えば今の日本のシステムでは個人の存在意義を見いだせていけないのだと思います。

そうですね。正しい個人主義の理解が必要ですね。

>食べるためには働かなきゃって感じですかね。

社会が、個人の能力の自発的な出現を期待しているのでしょうね。序列関係の保証なしですね。

> 2.日本における社会システムの崩壊 >仕事だけではありません。 >ひと昔前までは地域がコミュニティとしての役割を持っていました。>地域全体がひとつの共同体として健全に作用していたのです。>まさに和をもって尊しです。

序列社会制度の営みですね。序列の考えの矛盾を解消しなければ、和を保つことは難しいでしょうね。

>しかし、いつのころか、隣人の顔すらもわからないような殺伐とした社会に突入していきました。

日本人が、外国に移民として働きに出かけたようなものですね。心身ともに疲れ果てます。

>この環境の変化は、終身雇用制度が崩壊した時期と重なります。>このような状況下では、物質的に豊かになっても精神状態は予想がつきます。

‘人はパンのみにて生くるものに非ず’ ですね。人間には、精神的なよりどころが必要です。日本人は、序列関係を頼りにしています。

>人間は一人では生きていけません。>にも関わらず、周りが敵か味方かもわからない状態では気苦労が増す一方です。

そうですね。その点、序列制度は ‘敵か味方か’ わかりやすいですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか、下とみるか’ の判断を人間関係に当てはめて延長して行くと、縦に連なる序列が出来ます。序列内の人は、’うちの人’、そうでない人は ‘他所の人’・’外人’・’非国民’ です。’うちの人’ は味方、’よその人’ は信頼が薄いのであります。

>とはいえ、長い年月をかけて変化してきたシステムをもとに戻すことは難しいでしょう。

そうですね。歴史を戻すことは難しいです。

>では、どうすればいいのか? >私は私たち一人一人の意識を変えていくしかないと思います。

そうですね。意識改革ですね。

>私たちの生活環境を見直し、どのように幸福度を上げて行くかをしっかりと考えることが大切だと考えています。

考えが大切ですね。

>そのためには、私たちが持っている従来の考え方や価値観を今一度、取捨選択していく必要があります。

序列の価値観を捨てることですね。

>Ⅱ.アドラー心理学における幸福度 > 一方、アドラーは「人間の悩みはすべて人間関係にある」とも言っています。 >人は共同体の中で自分の存在価値を感じ続けるために生きているのに、その人間の悩みはすべて人間関係にあるのです。 >この相反する心理を持つ人間が幸福になるためには、「共同体感」を持つことが大切だとアドラーは考えました。>「共同体感覚」とはこれら一見矛盾する価値観の中で人がしあわせに生きるために必要となる感覚です。>簡単に言えば、和をもって尊しとなす日本のよき文化そのものです。>協和、協調を重んじることこそが人が共同体の中でしあわせに生きていける方法だということです。

和の貴さを前面に出して、序列の矛盾には目をつむることですね。

>日本人の幸福度が低いのは、長い間機能していた終身雇用制度や、地域のコミュニティがある時をさかいに急激にしぼんで行ってしまったからだと私は考えています。>和をもって尊しとなす日本の古き良き文化が崩れていったことで、私たちは共同体感覚を感じにくくなってきたのではないでしょうか。

私達の序列社会 (縦社会) への郷愁ですね。

>もしかしたら、アドラー心理学の共同体感覚には日本人の幸福度を上げるヒントが隠されているのかも知れません。

そうかもしれませんね。

>なので、もう少し共同体感覚について詳しく掘り下げていきますね。> 共同体感覚には大きく分けて3つがあります。> 他者信頼 > 他者貢献 > 自己受容 >上記3つそれぞれが相互的に作用しています。

他者信頼は ‘上位の下位に対する惻隠’、他者貢献は ‘下位の上位に対する忖度’、自己受容は ‘身分相応という諦観’ ですか。これらは、私の勝手な解釈ですけれどもね。いずれも上下社会の枠組みの中で生きている共同体感覚ですね。

>2.私的理論で生きる弊害>共同体感覚とは真逆に属するのが私的理論です。

‘我利我利亡者’ の話ですね。

>これは自分さえよければいいという考え方です。

それは成り立たない考えでしょうね。自分は、各人により実体が異なりますからね。皆が議論しても話が合わないでしょうね。間違った考えということでしょうね。

>おおげさに言ってしまえば、自分一人がしあわせならほかの全ての人が不幸でもいいという利己的な考え方ですね。

自分の意味する実体が各人で異なるから、普遍的な考えとしては成り立ちませんね。

>このような考え方では幸福度をあげることは出来ません。

そうですね。

>しかし、地域のコミュニティーの崩壊や、終身雇用制度の崩壊を経験した日本人は私的理論で生きる人たちが増えてきているような気がします。

無哲学・能天気では、困りますね。皆に通じるような内容を確立する必要がありますね。





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集団教育

2018-05-07 11:41:03 | 教育

>少子時代になり、家庭、地域には子どもを取り巻く社会が希薄になりはじめています。>また、子どもたちは、地域で、家庭で子ども集団で遊ぶことをこのまなくなっています。>その中で、子どもたちにとって学校は、友達がたくさんいるところです。>それは、昔の寺子屋でもそうだったでしょう。

そうでしょうね。

>田中さんが、コラムの中で、寺子屋の様子を書いています。>「渡辺崋山その他によって描かれた寺子屋(手習い)の絵がたくさん残っている。>絵を見て驚くのは、寺子屋は、そもそも学級崩壊しているという事実だ。>いや「学級のまとまり」という概念がないのだから、崩壊もない。>なにしろ子供たちは先生を見ていない。>今の学校のように机を整然と並べて全員が黒板と教師に顔を向けている、などという事例は皆無。>子供たちは入学時に持ってきた自分の机を自分の好きなところに置き、めちゃくちゃふざけながら勉強している。>とても楽しそうだ。」

‘皆で、楽しく考えろ’ ということですね。

>寺子屋へは、家から机も持ち込んで好きな所に置いていたこともあったようです。>残っている絵では、机を丸く輪にして並べている姿も描かれているものがあります。>子どもたちはあちらこちらを向いていますし、顔に墨をつけあっている子もいます。>全員が前を向いて、先生の話を聞いている図はありませんし、ましてや、先生が姿勢がどうの、聴く態度がどうのと注意している姿は見られず、確かに楽しそうです。

日本式の礼儀作法の教育は、行われていなかったのですかね。

>その教授の姿を田中さんはこう書いています。>「教科書は往来ものや算術など何種類かあり、それらを個々の生徒ごとに組み合わせる。>つまり寺子屋教育とは個人教育なのだ。

そうですね。マイ・ペイスの勉強の様ですね。

>個人教育が集団教育に変わってゆくのは、近代の学校制度になってからである。

そうですね。輸入された教育制度によるものでしょうね。

>教壇に教師が立ち生徒が教師の方に顔を向ける教室の配置、行進の練習、集団生活を身につける修学旅行などは、日本人の「近代化」のために作られた。

列強に ‘追いつけ・追い越せ’ の政策によるものですね。

>江戸の日本人は他人と歩調を合わせて歩いたり、同じ態度を統一的にとることなどできなかったのである。

そうでしょうね。序列作法の方が重要でしたからね。上と下とでは、態度が同じにはならない。

>「日本人の集団性」は国家戦略として作られた性質なのだ。」

そうですね。富国強兵の為ですね。

>これを読んだときに、私は果たして寺子屋が個人教育で、一斉に生徒が先生の方に顔を向けて授業をするのが集団教育なのだろうかと思いました。>一斉に先生の方を向いて話を聞くというのは、先生と生徒との関係しかなく、一斉の個人授業の気がします。

生徒の個性を認めない個人教育ということになりますね。

>先生の考えが一人一人の個人に伝えられる教育です。

そうですね。詰め込み教育ですね。

>集団教育とは、集団を活用することなので、子ども同士が話し合い、意見を交換しながら授業を進めていくことを言うのではないかと思います。

そういう考え方も、成り立ちますね。新しい集団教育ですね。

>いわゆるグループ学習です。>学び合いです。

戦後の流行り教育ですね。考えるための教育ですね。我が国では、言語の関係で定着しないでしょうね。

>江戸時代の寺子屋や塾は、少数で議論を重ね自分の言葉を磨いてゆく授業だったのです。

そうでしょうね。現実的な議論をしていたのでしょうね。

>間違っていた教育は、集団教育ではなく、みんな同じことをするという間違った集団性である一斉個人教育だったような気がするのですが。

そういう考え方も成り立ちますね。思考停止の一斉訓練ということでしょうね。我々日本人は、考える人になる必要がありますね。
考えるとは、世界観の内容を充実させること。過去・現在・未来の三世界の内容を自分なりに考えることでしょうね。
考えの内容は非現実であるので、実学 (技術) と処世術から成り立つ日本人の教育とは次元を異にしますね。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現することに成功したならば、それは人間だけが持つ創造力を発揮したことになりますね。
その目的の為には、我々に英米流の高等教育が必要です。我が国のように、子供から大人に至るまで一本調子の考え方では、現実以外の内容には注意が払われませんね。

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受験勉強

2018-05-07 02:17:22 | 教育

>大学受験。>自分にとっては40年以上も前のことになります。>受験勉強が嫌いだった。>ほんとに、ほんとに、嫌いだった。理屈抜き。

いやですね。単なる手段として要求される励みですからね。

>学びというのはあらゆる不純な動機づけを見抜くことそのものである。>プレッシャーによる学びに屈することは、真実を求める心の自殺である。

日本人は、もともと真実とは縁のない民族ですからね。日本人の励みは、最初から最後まで処世術獲得の手段ですからね。

>なんて今だったらカッコよく言うんですけど、17歳や18歳ではなにがなにやらわかりません。>勉強していると遊びが気になる、遊んでいると勉強が気になる。最悪ですね。

不安定な心理状態ですね。受験生は、皆さんそのようになるようですね。

>大学受験は、徴兵制の一種なのだと思っていました。>でも、脱走する勇気はなかった。>親が勉強にうるさかったら反抗できたかもしれないけれど、親は成績のよい息子が嬉しいだけだから、私は期待に応えてしまう。>ほんとうに、進学しか価値観のない時代でもありました。

立身出世の世の中ですね。教養などというものは、縁のない時代でしたね。

>でも勉強は嫌いだから、「難しいところに入ってみせりゃ、それでいいんでしょ」。>それだけになってしまいました。

曲芸師の様なものかな。

>東大に入るつもりだったら、学生争乱のためにその年の東大入試がなくなってしまい、京大に行きました。>別になんの勉強がしたかったわけでもない。

それは、残念なことでしたね。

>どうせ、自分の人生なんか持ちようがないのさ、みたいに精神的にグレています。>グレると、ろくなことがないですね。

建設的な態度になれないですね。

>70年の学園紛争のまっただ中でした。>一切の既存の価値観を疑おう、ということには賛同できました。

それは、大切なことですね。

>どんな権威も認めなくなった。

あなたは、お山の大将ですね。

>そうしたら、授業は理解できなくなり、失恋し、学生運動に巻き込まれ、いつも不安の塊。>付き合っている仲間が全共闘派だから、仲間とつきあっていたい一心で革命用語を覚える。

烏合の衆への仲間入りですね。詰め込み教育が役に立ちましたね。

>いろんな本を読みあさり、仲間に対してひけらかす。

見栄と外聞の世の中ですね。いかにも日本人らしいですね。

>ほんとうは、愛されたかっただけなんですけどね。>その正反対のことばかりする。

なかなか素直にはなれないものですね。

>学生時代に仲間に流されたのがいやだったから、もう集団に流されるまいと思いました。

無哲学・能天気では、時流に流されますね。

>会社勤めしても、資本主義に染まってなるかと自分の思想を固めて突っ張った。>そうしたら集団に入り込めない、いわゆる「空気読めない」になりました。>6年近くも頑張った。でもつらくて、辞めました。

適職ではなかったのですね。空気を読んで、泳いで渡るのが、日本人の流儀ですかね。

>ほんとうは怖くてしょうがなかっただけなのに、思想で固めて強いふりをする。

他人の考えの受け売りですね。昔の勉強が役に立ちましたね。

>そういう他人にはうんざりするけれど、自分でやってみないとその心境はわからないものです。

権威に成り代わった気持ちがするのでしょうね。自己欺瞞というものか。

>頑張っているうちに、自分の心も他人の心も感じられないモンスターになるんです。

自己が無い。心がすさんだのですね。

>会社を辞めてぶらぶらして、いわゆる自分探しをやります。>生きることの充実はどこにあるのか。>そんなの、探して見つかるようなものじゃありません。

そうですね。生きていれば、それはわかる。

>だって、生きるエネルギーは自己欺瞞がないところにやって来るんです。>本に書いてあることや誰かの言ったことを真似していること自体が、空虚感や恐怖から逃げ回っているんです。

そうですね。日本人の勉強は受け売りの勉強ですからね。我々は、’考える人’ になる必要がありますね。

>そうこうしているうちに、親戚や知人の子どもの勉強を見るようになり、こちらは自然にうまくいきます。

あなたは、勉強好きなのですね。

>集団に入り込めないつらさを知っているもので、不登校の人たちを援助していたら、これもうまくいきます。

それは、良かったですね。貴方は、希少価値の持ち主ですね。

>いつのまにか、教育をやるようになっていました。>失敗も多いけれど、教育だと原因究明に熱心になれます。>どうも、天職だったみたいです。

めでたし、めでたし。自分探しに成功したのですね。



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