酒酒楽楽

酒酒落落という言葉があるらしいですが、私の場合は『酒酒楽楽』で、お酒と共に楽しい人生を送りたいと考えております。

「Nice to meet you!!」 デニスが我が家にやって来た!

2007-02-15 01:01:09 | 家族のこと
          
             お雛さま  ちょっと早いけど・・・・・




日系Ⅲ世のデニス。

昨春、ペルーから県費留学生として娘の大学の同じ研究室に入ってきました。

頭脳明晰、明るく社交的。笑顔がとっても可愛い女性です。

才色兼備とは彼女のための言葉ではないかと思います。

先日、もう一人、ブラジルからの留学生と共に日本文化の“盆踊り”を習うデニスの姿がニュースで流されました。

 
インタビューに答えて、

「ボンオドリ、ムズカシイデス。」と言ってました。

国際交流のためいろんなイベントに狩り出され、休む暇もなかったことでしょう。

3月14日には日本を発ちペルーへ帰ります。

せっかく日本に慣れてきたのに・・・でも、彼女にはまた日本へ来たいという夢があるようです。




昨年春に日本へ来た時には日本語が全然話せませんでした。心細かったそうです。

ところが、今では、母国のスペイン語と英語を上手く操り、その上日本語も上手になりました。

先日、日本語検定3級に見事合格したそうです。


「英語を学ぶにはいいチャンス」と思った我が家の娘でしたが、デニスの日本語上達の速さには敵わなかったようです。

「心さえ通い合っていれば、後はジェスチャーでカバーして何とか通じるものよ」なんて言ってます。

娘にとっては二度と経験することができない素敵なめぐり合いでした。

デニスを介して他の外国人(ニュージーランド、ブラジルなど)とも交流がもてたのです。




そう、今日は聖バレンタインデー。

しかも今日はデニスの誕生日なのです。

ロウソクは5本しかありませんでしたが・・・

「ワタシ、ツエンティーファイブ・・・」なんて笑顔で言ってましたが、実際は???

               




私たちはこの日のために数日前からデニスの喜びそうな献立を考え、材料を揃え、

昨日は隅々のおそうじ、そして料理の下ごしらえと、

デニスに会える喜びが大きく、結構楽しみながらやっていました。


娘のM子は「楽しい」を連発しながら散らし寿司とケーキ作りに精を出し、

そうそう、千葉の姉から送られてきた有機栽培のイチゴが上手い具合に間に合いました。

私はというと、ごぼうとレンコンのきんぴらや鶏のから揚げ、おすましそれに青菜の胡麻和えなどなど。

茶碗蒸しは、おばあの担当です。おばあにも出番を作ってあげました。




「ゴハン、オイシカッタ。オハナシ、タノシカッタ。プレゼント、イッパイモラッタ。」

デニスは嬉しそうでした。

誕生日を一人で過ごさなければならないのかと不安に思っていたので、誘われた時には嬉しかったそうです。


私の2005年8月26日の記事「Hello!! How are you?」があります。

私が外国人と話が出来たのは、英会話のコリン先生以来です。

片言ではありますが、久しぶりに英語を使うことができ大満足です。

むーさんのブログで目にしていた「I am very glad to see you 」も使わせてもらいましたよ。


午後9時過ぎにアパートに送って行く途中、

「英語で話したのはコリンが一人目、デニスは二番目よ」と言うと、

後ろの座席から「ワ~オ!!」と元気な声が返ってきました。


デニスも私たちも楽しい時間をすごすことが出来たし、

また、内輪での国際交流が出来て、思い出に残るバレンタインデーでした。


デニスとはこれからもSkypeで話そうと約束しました。



<追記> 2月16日

昨日降り続いた雪が止み穏やかな日を迎えました。この冬一番の雪を掲載いたします。

               





山茶花の咲くころに

2006-11-11 21:00:04 | 家族のこと


6日(月)の朝、千葉に住む二番目の姉から電話がありました。

長姉の様子がおかしいので見に行けないかと言うのです。

久しぶりに電話をしたら、いつも電話口に出るはずの長姉が出ないで替わりに病気療養中の義兄が出たこと、

その義兄の声に張りがないし、加えて、長姉は吐き気がしているようだとも言います。

     


24年前の悪夢が甦り、落ち着いてはいられなくなりました。

しかし、夫は会議のため出かけた後でした。そのため、私は家を離れられません。

実家のすぐ側に住み、長姉の家にも近い妹に連絡すると、風邪のため病院へ行ったとのことでした。

姪(姉の長女)の携帯に連絡すると、定休日ではあるが、これから講習会がありその会場へ向っているのだと。

OH!万事休す。なんていうことでしょう。



24年前の悪夢とは・・・・・
6月○日   父が脳血栓のため入院

8月○日   父外出の許可が出る

8月○日   父救急車で病院へ戻る  高校野球を見て血圧が上がったらしい

8月○日   くも膜下出血と診断され、兄弟全員が招集されました。

「1週間以内に手術をしなければならない。しかし、手術をしたとしても100パーセント生きられるかどうかは分からない等等。結局、手術をお願いすることとなり、輸血用の血液を集めなければならなくなりました。
親戚、知り合いにお願いしてどうにか手術当日10名の方に輸血のために病院へ来ていただくことが出来ました。

       
8月25日   父くも膜下の手術を受ける

10月19日   いっこんま、帝王切開で娘を出産

10月25日   父退院  私の入院していた産婦人科へ母と弟が寄り、赤子を見る

11月6日    いっこんま退院 実家へ寄り、両親に赤子を見せる

11月8日   仙台の友人二人が来郡

11月9日   母倒れる  頭がが~んと痛くなり、吐いた。

11月10日   くも膜下出血のため手術

11月18日   母死亡



くも膜下出血の初期症状として、「ハンマーで殴られたような頭痛」と「吐き気」があるそうです。

ですから、姉の「吐き気」は大変気になりました。





午前11時、夫が会議を抜け出して帰って来ました。お客様の葬儀に出席するためです。

「あたし、姉ちゃんとこに行ってみるね」

「ああ、いいよ」

携帯で連絡していたので、内容は大体知っています。

(しかし、なんてやさしい人でしょう。感謝してます。)


夫が急いで着替えて葬儀へ行っている間に、私も出かける用意をしました。

姪(姉の長女)と妹にも用事が済み次第、姉の家へ行くよう連絡をして・・・





さて、姉の家へ行くまでの間、私はどんなに心配したことでしょう。

『布団の中で意識がなくなっている姉』と『側でおろおろする義兄』

私の目に写るものは・・・この二つでした。


ところがです。

姉の家に着くと・・・

当の本人は、顔色は悪いが洗濯したり家の内外をうろうろしているではありませんか。


ええ~~っ?!?!


程なく、姪も妹も心配顔で到着しました。


とりあえず、かかりつけの内科で診て貰うことになり・・・・・姪が連れて行きました。



その間、残った3人でおしゃべりをしながらの昼食です。

義兄の日頃の不満を聞いてあげました。




姉の病名はといいますと・・・・・風邪からくる吐き気だということでした。

点滴をしてもらって気分が良くなったのか、ニコニコ顔で帰ってきたのでした。

一件落着です。

この4時間余りの間に心配したり泣いたり笑ったりと幾つもの心の変容がありました。

今は、皆ほっとしています。





24年前の今日、母は未だ眠ったままです。時折右腕と脚がぴくぴく動いていました。

10日間の脳死状態のまま、11月18日の夕方に母は旅立ちました。娘が生まれて一ヶ月後でした。

山茶花の季節になると思い出す悲しい出来事です。



もう一つ。

その頃、義父が孫の生誕記念にとピンクの山茶花を買って来て、鉢植えのそれを陽の当たる縁側において嬉しそうに眺めていました。

その義父も孫の成長を見届けないまま逝ってしまい・・・・・

その後、義父の書類を整理していた時に義父の綴った歌を見つけました。

母を亡くし、悲しみをこらえている嫁を気づかう歌でした。





11月12日の東日本女子駅伝の結果報告

1位 群馬県  2時間20分37秒

2位 福島県  2時間21分30秒
 
3位 茨城県  2時間22分26秒

4位 神奈川

5位 千葉

6位 宮城


3区から一位をキープしていた福島は、最終9区で群馬のアンカー芳賀麻里奈にかわされ、惜しくも優勝を逃しました。

芳賀麻里奈は福島県の出身です。故郷に錦を飾ることが出来、最高の笑顔でゴールテープを切りました。

渋井陽子を擁し優勝候補に挙げられていた東京は、一区で思わぬハプニングがあり、注目の渋井が5人抜きと健闘するも9位に終わりました。



丑の日に焼肉で一家団欒?

2006-07-23 23:00:11 | 家族のこと


今日は丑の日。

うなぎが高いというニュースを聞いたので、何も今日うなぎを食べなくても・・・ということで、

今日は数日前に東京の義妹の所から送られてきた「梅山豚(メイシャントン)」を食べることにした。

注1)梅山豚は林間放牧でそだてられているため、ストレスもなく健康に育まれています。豊かな自然の中でのびのびと育てた梅山豚は美味しく安全に召し上がっていただけるように、肥育方法にも飼料にも万全の注意を払って云々。


家族が全員集合する今日でなければこの肉は食べられない。


さて,解凍している間に「おいしいお召し上がり方」を読んでみると、

「肉料理の中でも一番の人気メニューは『焼き肉料理』です。おいしく簡単に食べられるのがなんといっても魅力です。大人気の焼肉でいつもの一家団欒が、もっともっと盛り上がります」

と書いてあるではないか。

それに、実家から貰ってきた玉ねぎ、人参、かぼちゃがある。



これらの消費拡大を図るにはやっぱり焼肉が一番?  冷しゃぶをやめて焼肉に決定!!

Rさんから戴いたナスもある。

きのうお客様のKさんからはキャベツを戴いた。

注2)Kさんは80歳を超えた元気なおばあちゃん。だんな様と毎日の晩酌を欠かさない。因みにお酒は日本酒の“きんぽう”である。



あとはしいたけ?と思いながら冷蔵庫を覗いたら、エリンギが一本だけ残っていた。

そして、丁度良いことに義母が畑から恐らく最後だとは思うが、

アスパラを5本ほどとってきた。

よし。これでOK。



あ、大事なお酒。

お酒はこのほど発売されたばかりの限定品「夏の穏 発泡うすにごり生」と、「きんぽうの冷たいあま酒」



準備が出来た。そろそろ娘の帰ってくる時間だ。

説明書を読むと、

「焼肉料理をされる20分位前に焼肉のタレによくなじむよう、つけこんでください」とある。


焼肉のタレにつけて、そろそろ野菜から焼き始めようとしたその瞬間、

娘からの電話が鳴った。



なんと、友達と夕食を済ませたらしい。

何故もっと早く連絡をしないのか?

この2時間弱を母は娘のためにだけ動いて娘のために・・・・・

全く、「親の心、子知らず」とはこのことか。

だがしかし、昨夜遅く、「明日は遅くなるかもしれない」と言っていたし、

久しぶりに会えた親友ならばいたしかたあるまい。

大人3人、特別な話題もなくテレビを見ながら静かに食べて・・・・・

一番おいしかったのは

tsukasaさんのブログで知ったきゅうりのビール漬け



という感想を持ったのは多分私だけではないだろう。

忙しい思いをして作ったはずのごぼうのサラダは誰も手をつけないし、



実家の弟からの北海道土産のズワイガニは冷蔵庫から出すことさえ忘れていた。




もうお腹がいっぱい。

お風呂に入るために裸になった夫のお腹を見れば、

ああ、ちょっと食べさせすぎたわね。

脳梗塞にでもなられたら大変大変。

でもまあいいか、野菜を沢山食べたことだし・・・






昨年の8月1日の記事「うなぎの思い出 父の思い出」

    どうぞお時間の許される方はご覧くださいませ。




夫が久々に颯爽と?登場

2006-04-25 14:07:53 | 家族のこと
 
 マウスオン プリーズ!!     
          (日大工学部本館前より正門を望む:撮影 4月22日  by M子 )



       


ねえ、いっこんまさん家は母子家庭?

なんて声が聞こえそうなので、久々に夫の登場を願うこととした。

私にも立派な(ではないけれど)夫が、一人だけいるのだ。

「たまにはお父さんにも出てもらわないとね~」と言うと、嬉しそうな顔つきを見せた。(めったにお父さんなんて言わないんだけど・・・)


『新酒を味わう会』と日を同じくして、消防関係の『無火災祈願』と『山火事防止パレード』が行われ、

その時の様子が地方紙に掲載された。



          ■
      マウスクリック プリーズ!! (マウスをクリックすると拡大写真が表示されます)
 
                法被姿で玉串奉天をしているのが我が愛する夫。
 
                拡大してもはっきり見えないところがミソなのだ。



     この日の夜の突然のお客様。

     お酒と乾き物の他には何にもない。
         
  
       だって、ほら、私はもう新酒を味わう会でおいしいものを食べて来たし・・・


この時デンワのためちょっと席を外していたら・・・期待させちゃったみたいで・・・あ、わり~わり~・・・・・作ってたんじゃないのよね~



宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・・」ではないけれど、

雨ニモカカワラズ
風ニモカカワラズ
雪ニモ夏ノ暑サニモカカワラズ
その上
勤務中ニモ睡眠中ニモカカワラズ

いつでもどんな時でも出動しなければならない彼らを大事に扱わなければならない。

(今度ね、今度おいでになった時には温かいものごちそうすっからね~)



夫の口癖は何事が起きても「しょうがねぇ」知らなくても「わがってる」最近では「やがましい」この3っつ。

これしか言葉を知らないのか?  と言いたくなる時もある。

娘が生まれた時、「ありがとう」も「おめでとう」も何もない。

二人目の子どもがなくなった時には、「しょうがねぇ」とただひと言。

そうね。色々言われて涙なんかこぼされたら、私、多分いつまでも立ち直れなかったかもしれない。

何も言わないのが夫の愛情表現、優しさなのだろう。

夫が何も言わなかったし、何事もなかったかのように動き回っていたから、私は思いのほか早く元気になれたのだ。



顎のところのクリクリが気になって、

「ねえ、あたし、ここにしこりがあるんだけど・・・癌かしらね。」

と訴えた時には、そのしこりを見もしない、触りもしないで

「大丈夫だ、心配すんな」と眠ってしまった。

でも、それだけでなんだか安心できたから不思議である。

結局、そのしこりは何のことはない運動不足によるただの“二重あご”だった。

その数日後、夫の同級生のN先生の診察で判明した。

因みにその“しこり”はいまだに増殖中である。



今朝の義母の言葉から、話は意外な方向に展開した。

義母「オマエのことをほめる人が多いよ。」

夫 「なんて?」

義母「働き者だってみんな言ってる」

私 「ええっ?ただ動き回ってるだけだよね。にんべんが多いんじゃないの?
働き者じゃなくて、動き者だよ」

夫 「そうだな、俺がやってんのは金になんねえ事ばっかりだもんな。」

私も言ってから「しまった」と思ったけれど、夫も変に納得して笑っていた。


夫は薬害ではなく『役害』に犯されている。

『役害』とは夫が考えた言葉で、沢山の役を持っているために休む暇もないということ。

夫が書き込んでいるカレンダーには殆ど○印が付いている。(○印は会議などの予定があるという印)



先日私がお世話になっている指圧の先生に

「旦那さんは相変わらず忙しいんでしょ」と聞かれ、

「そうなんです。おそらくコロッといくでしょうね。でもせめて義祖父や義父と同じ年齢まで頑張ってほしい」と私。

すると先生が

「大丈夫ですよ。86歳まで生きられますよ」と嬉しいことを言って下さった。


5月には二人で胃カメラ等の検査を受けることになっている。

O先生から太鼓判を押されたんだから「異常なし」は間違いない。

これからも二人揃って元気で長生きしよう!!




        お口直しの“胡山醤(ごさんしょ)チキン”
           (娘の作品)

          (注:ごさんしょとは胡麻、山椒、醤油で味付けされたもの)


        我が家の枝垂桜
           
               (角度を変えて見る)


     三春滝桜 今日の滝桜の様子を見ることが出来ます。


     日本大学工学部の桜2006 ライブ配信中




「HIROKOさん、乳がんに勝つ。」同級会で江ノ島への巻

2005-09-26 21:25:06 | 家族のこと
「死んだ方がいい」なんて、弱音を吐くようになったHIROKOさんだが、

話をちょっと前に戻したい。

*癌を告知された時のHIROKOさんの思いはどんなだったのか?
「乳房あるなしは問題ではない。1月に1歳になる孫(次女の長男)の世話をすることを楽しみにしていたので、その楽しみを奪われたという悔しさでいっぱいだった」

*乳房の全摘手術を終えて、家族代表の長女の話
「お母さんは、肉が多すぎるからもう片方も一緒に切り取ってもらえばよかった」

まあ、何とも楽観的な家族ではないか。

だがしかし、一応手術を終えてホッとした時の感想であることを付け加えたい。


そして、約半年間にも及ぶ抗がん剤の投与が始まった。

手足のしびれ、体のだるさ。前編に書いたように自分の体でなくなるのだ。

気分のいい時にスーパーへ行くと、近所の主婦に会い、

「あーら、HIROKOさん、手術したって聞いたけど右?左?」なんて聞かれて愕然とした。

心身ともに七転八倒の苦しみ。


あれから1年半。我が家に前記の干物が届いた。

中学校の同級会が思い出の地江ノ島で開かれ、HIROKOさんも参加したのだ。

参加者の中に、静岡で干物を扱う店を持つ友人がいたので、注文したという。

旅館では、一部の同級生に自分が癌の手術をしたことを告白し、

また、少しの迷いもなく大浴場に入れたという。

このことは、HIROKOさんが、身も心もすっかり元気になった証拠である。

私が干物を受け取って喜んだ訳はここにあった。


さて、今、HHIROKOさんは始めたばかりのハワイアンダンスに夢中で、

11月には旦那様と二人で本場ハワイのフラダンスを見るために旅行を計画中という。

また、もうすぐ次女に二人目の子供が生まれる予定である。

乳がんを克服し、新しい人生を歩み始めた私の実姉HIROKOさん、

諦めないで良かった、生きてて良かったね。


  


(写真:キンモクセイ  いい香りに誘われて辿っていきましたら蔵の前のキンモ            クセイが咲いていました。)

「HIROKOさん、乳がんに勝つ。」 セカンドオピ二ヨンの巻

2005-09-25 23:00:20 | 家族のこと


HIROKOさんから静岡産の干物が届いたのは今月半ばだった。

4人家族で食べきれないほどの干物に驚き、いや、驚きより嬉しさの方が大きかった。

その嬉しさは干物の美味しさゆえではなく、別に理由があった。


HIROKOさんが体の異常に気づいたのは、2003年の11月のこと。

それまで、定期検査を欠かさず受けていたのだが、

この年は孫達との海外旅行もあり、忙しさでついうっかりしていた。

近くの病院で検査を受け、ほぼ乳がんと判明。

乳がんの経験のある友達に相談すると、東京の癌研究会付属病院での受診を勧められた。

次の検査の時、恐る恐る主治医にそのことを話すと、

ありがたい返事が返ってきて、その上、紹介状まで戴いた。

これぞ正しく「セカンドオピにヨン」である。


東京の癌研に入院・手術をしたのは2004年の3月。

麻酔から醒めて私に電話があった。病人とは思えないほど明るい声だった。

同じような患者がいる病室は、まるでホテルにでもいるような雰囲気だそう。


その後3月末に、郡山駅前で癌のシンポジュームがあり、主治医の癌研のK先生(乳がんの権威)もパネラーとして来られた。

それを知った私も友達数人を誘って出席した。

休憩時間に先生に御礼を言いたいと、絶対に言わねばと思っていたが、私が入る余地などあるはずがなかった。

先生のかつての患者と思われる女性達が笑顔で先生を取り巻いていたのだ。


明るい気分で退院したHIROKOさんではあったが、抗がん剤を使い始めると苦しくなり、

自分の体であって自分の体でないような、癌との壮絶な闘いが始まった。

「こんなに苦しい思いをするのなら死んだ方がいい」と思い始めた。

          つづく

我が家の昔乙女は80歳

2005-09-19 20:36:07 | 家族のこと
我が家の義母は今年6月に満80歳になり、今でも元気に畑仕事をしている。

今日は敬老の日、それでも畑へ行った。

本人は、2.3年前から年齢を聞かれると「80歳」と答えていた。

「えっ? 若いですねー」と言われるのが快感となっていたらしい。

この手は私も使ってみたいと思う。

娘から愛情を込めて「おばあ」と呼ばれるようになったのは、

国中涼子演ずる「ちゅらさん」を見てからだ。

そのおばあは、平成8年2月に大病をしている。

それまでも冬になるとちょこちょこと寝込む事が多いので、

義父に「あんた、南国で出稼ぎしたらいいんでないのがい」とよく言われていた。

無事手術が成功し、3日目くらいに歩けるようになると、

「これ、私の腸なんです」と静かな声で言いながら、

同室の一人一人に挨拶代わりに切り取った腸の写真を見せて歩いて、義父をやきもきさせた。

手術時には恐怖感が全くなかったと言う。

病名を知らされたのは約一ヵ月後の退院の日で、それでも動揺する様子が見られなかった。

あれから9年経った今、医者の診察を全然受けていない。

初めのうち定期的に検査を受けていたが、「もうよっぱら」になり、

自分で作る「無農薬野菜」と「焼酎漬け」と「ウコン」など色々と、

そして、みのもんたの番組とだけが頼りなのだろうか。

ある時、「こんなにいろいろ呑んで、何が効いでっかわかんね」だの

「みんないなくなって、最後に一人になったらどうすっぺ」なんて心配したりで

私達家族の笑いをとっているが、一人残されることは?これはなんとも言えない。

私が先に逝くことだけはないことにしよう。

「父ちゃんが先に死んだら、この写真を見て笑うんだ」と、

旅先で大きな口を開いて何かをほおばる義父の写真を見てよく笑っていたが、

その義父が急逝して早や7年が経過したが、未だその写真を使ったことがない。

数あるアルバムの中から捜すのも容易でないので、この写真を見てもらいたい。



また、横浜に住む従兄のYさんが来て3人で話をしていた時のこと。

Yさんがお酒を呑みながら、

「おばちゃんはさあ、若い頃月に一度くらい具合が悪くて寝ていたんだよね」

と、確かにこう言った。

ん、ん、ん?なに? 一瞬、空気が淀んだとでも言おうか。静かになった。

嫁の私にそんな過去のみっともない事知られたくないのか?

私は隣に座っている義母の顔は見えないけれど、空気を察して静かに席を立った。



これは、きのうの敬老会で写したもの。

しわを気にしている風なので、

「80歳なんだから、しわがなかったらへんでしょう?」と言ったら、

「いや、これではありすぎる」と。確かにありすぎだ。

手術前、40数キロあった体重が38キロに減り、今夏は35キロまで激減した。

その結果がこの顔のしわに・・・・。

我が娘に「おばあは、顔だけ神経質だね」とよく言われている。

今朝は「おばあの後姿、歩く姿は、お母さんより若くみえるよ!!」と。

だけど、この間、近くで一人暮らしのおばさんがちょっと壊れたかのようなので、

「Nおばさん、最近ちょっと変だわね」と言ったら、

「私も1週間ぐらい前からなんだか変なんだよ。」

畑に行くのにフラフラしたと言うので、お医者さんに行く事を薦めると、

口にコップを運ぶ仕草をしてすましている。

全く、いつもそうなの。当たり前でしょう、お酒を呑めばフラフラするよ。


義父が叙勲の栄誉に輝いた時、義母は入院していた。

宮城まで行かなければならないし、和服も色留袖(?)と指定されているので、

外出してデパートへ行き、着物を買ってきた。勿論私が連れまわした。

天皇に謁見した時の顔は病気上がりのためむくんでいるので、

せっかく着物を新調しても肝心の顔が気に入っていないようだ。記念写真も押入れの中に隠してある。

いよいよ最後は今年の梅干で〆にしよう。

100キロもの梅を一人でもいで、なんと一人で漬けたのだ。

オニ嫁とも言える私は、一切手を出さないで相変わらず食べるだけの人となった。



このようにして親戚や知り合いに配っている。喜んでもらえるのが生きがいなのでしょう。
おひとつ如何ですか?



*新幹線で岩手花泉へ旅立つおばあ 8月20日*



元気はつらつ 73歳!!

2005-08-24 10:14:53 | 家族のこと
20日、21日の岩手県花巻市のウォーキング大会(ツーデーウォーク)に参加し

この暑さの中にも関わらず、

2日間とも20キロの道のりをみごとに完歩した大阪の叔父。

22日に花泉の義姉の家で我が家のおばあちゃんと合流し、

昨日二人一緒に帰ってきた。

そして、今朝、次の大会に参加するため今度は上越に向けて出発した。

今夜の宿は会津若松だという。明日は新潟、そして上越へ。



平成11年秋に最愛の妻が58歳の若さで病死した時、周囲の皆が心配した。

3人の娘は既に嫁いでいるため、叔父は一人になってしまったからだ。

会社に行っているうちはいい。退職後がもっと心配。この時66歳になっていた。

しかし、叔父は気持ちがしっかりしていた。じめじめしていない。

叔母の衣類の始末、家のリフォーム、お墓の建立と永代供養のことまで

当然ながら全部一人でやった。

そして、退職後がすごい!!! 

全国のウォーキング大会参加など年間の予定がびっしり。

南は沖縄から北は北海道まで。北海道もほぼ制覇。

しかも、現地入りはいつも自家用車で。



今年4月は福島の花見山ツーデーウォーク。

6月に安中(現安積高)の友人といわきに行き、その足で国道6号線を北上。

松島のウォーキング大会参加。

7月は秋田、田沢湖の大会に参加。この時は、歯が痛くなり、

急遽、歯の治療のため、鶴岡、酒田の宿をキャンセルして我が家へたどり着いた。

そして痛みが止んだ翌日、群馬草津へと行ったのだった。

イギリスにも行って来た。あの事件が起きる前に。



「叔父さん、ITやってみませんか。メールもブログも楽しいですよ」

「私は、家を開ける事が多いからね。ま、歩けなくなったらやりますわ」

そんなことを言っていた叔父が、今回、携帯電話を買い換えた。

古いのは、デンワだけだが、8月15日に買い換えたのは、カメラ付き。

勿論、メールも出来る。が、操作が難しい。

18日と22日の夜、我が家で特訓。

娘さんにメールを送ったら、早速返事が届いて大喜び。「おーーーー」





車の中には、常時、着替えが5日分くらい用意してあるし、

靴も、ウォーキング用、長距離運転用、短距離運転用そしてサンダル。

そう言えば、来るたびに変わっていった。

最初はスーツにネクタイ。次にラフなアダルトファッション。

今はウォーキングスタイル。

髪型も朝30分ぐらい鏡の前に立っていたのに、今、短くして5分くらい。


昔から几帳面な事では知られている。宿に着くとその日の整理。そして洗濯。

我が家の家系図も手書きで書いてくれた。

27日28日と上越のウォーキングに参加。

28日にはゴールしたらそのまま大阪へ帰るという。予定では午後9時着だそう。

ここから777メートル 一気に帰ったこともあるから大丈夫。



見送った後、タオルケット、シーツなどを洗濯するために客間を覗くと

きちんとベッドメイキングがしてあり驚いた。

まだまだ元気な73歳の車大好き叔父さんでした。

私達も負けてはいられません。足腰を鍛えなければ・・・・・・


うなぎの思い出 父の思い出

2005-08-01 16:52:38 | 家族のこと
今頃うなぎの話題で恐縮です。

今は亡き父の喜寿の祝いをしようということで、
兄弟姉妹6人の家族が、那須の貸し別荘(コテ-ジ)に集合した時のことです。
2棟借りたので、子供たちは大はしゃぎで行ったり来たり、
早めにお風呂に入る者あり、2階のベッドから下を見下ろして手を降る者ありで
大変賑やかでした。
大人達はみんなで食材を持ち寄り、手巻き寿司の準備です。
成田の近くに住む姉夫婦が市場でネタを仕入れて来ました。
その間、すでに身体が不自由になっていた父はソファにもたれて、
子供たち、孫達がクルクル動き回るのを満足気に黙って見ていました。

準備が出来て、みんなでテーブルを囲み、さあ、祝う会の始まりです。
司会やお祝いの言葉、乾杯の音頭など手分けして、
堅苦しい事は慣れていないので、上手ではありません。
まあ、そこそこに済ませました。
お腹がすいていたので、みんな我先にと食べ始めました。
すると、父も
「どれ、うなぎ、食ってみっかナ」
「?」
「むがしっからうなぎはすぎだったんだ」
「えっ?ええっ?」

私だけでなく、大人はみんな驚いたと思います。
「じいちゃん、いつうなぎ食べてたの?」

そうです。
私達が子供の頃は、大家族だったので、
うなぎなんて高級なものは食べさせてもらえなかったのです。
町のいくつかの役をしていた父は、研修であちこち旅行をしました。
会合もたびたびありましたし、その間、母は1人で、時には私達を上手く使いながら、もくもくと働いていました。
あ、そうなんだと納得した私達です。
父は外で(私達の知らないところで)美味しいものを食べていたのです。

楽しい宴会とおしゃべりは夜中まで続き、
翌日、那須のファミリー牧場などを回ってそれぞれの家路に着きました。
父と一緒の写真は常に目につくところにあります。
ファミリー牧場で写した写真は、右半身が不自由なので、杖を持っています。
帽子を被っていい顔をしています。
うなぎを食べると思い出す父との思い出。

今日は8月1日。
もうすぐ14回目のお盆になります。

(写真)
先日のノウゼンカズラが、台風のために倒れてしまいました。
これは、その前日に写したものですが、しとしとと雨に打たれています。
悲しいかな最後の1枚になりました。