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■「致知随想」ベストセレクション
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「人生図書館」
田中希代子(人生図書館館長)
『致知』2012年6月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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大阪・心斎橋の一角に私が館長を務める
「人生図書館」があります。
図書館といってもマンションの一部屋を改築した、
蔵書も154冊の小さな図書館です。
蔵書のすべては心ある方からの寄贈です。
しかも不要になった図書ではなく、ご自分にとって
「人生の一冊」といえる本にご自身のメッセージを添えて
お贈りいただいているのです。
昨年、印象的なご来館者がいました。
その女性は真夏なのにお帽子を被り、
館内でも脱がないのです。
声を掛けてみるとご職業は看護師さんで、
実はこれまで自身ががんの治療をされていたといいます。
お若いので進行も早く、いろいろ転移をしたけれども、
治療の甲斐あって職場復帰できるほど回復、
復職の前に「人生図書館」で本を読みたいと
思っていたそうです。
「看護師としてがんの患者さんをたくさん看てきましたが、
自分がその立場になって、いかに自分本位な
接し方だったかを知りました。
これからは同じ経験をした者として、
違う向き合い方ができると思います」
そんな、人生の転機や自分を見つめ直したい時に
訪ねたくなる場所、それが「人生図書館」だと思っています。
もともと私はこの図書館がある
マンションの持ち主であるねじ製造会社で、
ビル管理の仕事をしていました。
空き部屋が出たことをきっかけに、
そこを使って、誰もが立ち寄れて
コミュニケーションが図れる場をつくりたいと
いう思いが湧いてきました。
根底にあったのは弟の存在です。
私が10歳の時、2歳半だった弟は
交通事故で亡くなりました。
生きたかったけれども、生きられなかった命がある――。
自殺者や引きこもり、ニートの存在が
大きな社会問題になるにつれ、
私の中でそんな思いが膨らんでいきました。
もちろん、それで自殺者を減らせるとは思いませんが、
少しの間でも立ち止まり、人生を見つめ直す場所があれば
少しは違うのではないかと思うのです。
また、地域貢献にも繋がると思いました。
ねじ製造会社のオーナーに申し出ると、
賃料は無料、改築費は私が出資することで
了承をもらいました。
企画プランナーで、映画『おくりびと』の脚本家でも
知られる小山薫堂さんにもアドバイスをいただき、
「本を媒介に人生が交錯する場所」というコンセプトで
「人生図書館」はスタートしました。
オープンは2010年の6月30日。
その数日前に、1台に数百冊もダウンロードして持ち運べる
iPadが発売されたばかり。
全部で150数冊の小さな図書館なんて、
時代に逆行しているのではないかと
友人たちに心配されました。
確かに本の数ではiPadや書店、
普通の図書館には及びませんが、
当館の特徴の一つは、思いもよらない本に出合い、
寄贈された方の人生の一端に触れることだと思います。
当館に『いいからいいから』という絵本を
寄贈してくれたのは6歳の女の子です。
子供がいない私は長く絵本を手にすることは
ありませんでしたが、読み終えた時
「こういうピュアな気持ちを忘れてはいけないなぁ」と、
不思議と癒やされている自分に気がつきました。
逆にご高齢者から頂戴したご本とメッセージからは、
これから先の心構えをいただいたような気持ちになります。
数が少ないからこそ「こんな本があったんだ」と
普段なら素通りしていた本を手に取り、
寄贈者のメッセージを見て、
「そんなに感動する本なら読んでみよう」
というきっかけに繋がると思います。
そういう意味で、私が特に心に残っている一冊は
吉村昭さんの『漂流』という、史実を基にした小説です。
江戸時代、漂流した漁師たちは
なんの生活の手段もない無人島に辿りつきます。
仲間たちが次々と倒れていくなか、
長平という船乗りは12年間の苦闘の末、
ついに生還を果たす壮絶な物語です。
この本はある中年男性からの寄贈でした。
会社経営に失敗、工事現場で日雇いや
時給数百円のアルバイトをする自分が惨めで、
生きている価値はないと思っていた時、
古本屋で巡り合ったとメッセージにありました。
考えてみれば、自分には家族もいる。
質素だけれどもごはんにもありつける。
この本の長平はただ生きるために孤独に耐え、
食うや食わずで生き延びた。
「人間は水と空気と太陽があれば、生きられる。
そう気が付いた時、
“なんだ、自分は社長じゃなくなっただけだ”
と思えるようになった」
いまはそこから立ち上がり、個人事業主となって
仕事を頑張っているそうですが、
事務所にはこの『漂流』を置き、
折に触れて読み返しては、
初心を思い出していると教えてくださいました。
自分自身を振り返っても、
人生に大きく影響を与えた本を手にすると、
原点に帰り己を鼓舞することができるように感じます。
一方で、「あの時、こういう感動を覚えたんだ」
と自分を顧み、自己を肯定するきっかけになると思います。
いまたくさんの情報が氾濫していますが、
一番少ないのは自分に対する情報なのかもしれません。
「人生図書館」は本と出合い、寄贈者の思いに出合い、
そして自分が知らなかった自分に出合う。
一冊の本を通してそんな心のバトンを
繋いでいける場所にしたいと思っています
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■「致知随想」ベストセレクション
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「不可能を可能にする力」
救世忍者 乱丸
(女子プロレスラー、第21代TWF世界タッグ王者)
『致知』2011年11月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)という目のがんに罹り、
片目を摘出したのは私が3歳の時でした。
母は義眼となった娘の私を抱いたまま心中も考えたようですが、
当の私は別段そのことを気に病むこともありませんでした。
小学校4年の時、空手師範だった父の影響で空手を習い始めると、
他の道場へも出稽古に行くほどのめり込み
国際武道大学に進学して世界大会にも出場を果たしました。
ところが大学3年を迎えたある日、
なんとなしに観戦したプロレスに私はすっかり魅了され、
プロレスラーになりたいという思いが
抑えられなくなってしまったのです。
空手家として将来を期待していた父からは
「みっともない。頼むからやめてくれ」と
反対されたものの私の決意は変わらず、
すぐにオーディションを受けました。
厳しい実技試験を終え、手応えを感じていた私でしたが、
審査員の長与千種(ながよちぐさ)さんに声を掛けられました。
「ごめんね、傷つく言い方をするかもしれないけど、
その目はどうしたの? 空手をやっていたそうだけど、
プロレスはぶつかって初めて成るスポーツだから」
「大丈夫です。私、リングで死んでもいいと思ってますから」
「あなたはそれでいいと思うんだ。
でも対戦した相手はどうなるかな」。
優しい言い方で、言われていることは十分分かっていました。
私は返す言葉もなく、それでもやりたいと
泣き喚くことしかできませんでした。
一体どうすればプロレスラーになれるのだろう。
なんとか別のオーディションを探し出してみたものの、
やはり結果は同じ。
いくら頑張っても目が悪いだけで弾かれてしまうのか……。
悶々としていた時、偶然見つけたのが
アニマル浜口さんのプロレスラー養成ジムでした。
大学の講義を月火水にまとめて取ると、
そのまま浅草のジムへ行って泊まり込みで練習。
男子でさえ音を上げてしまう厳しいメニューを
同じようにこなすことができたのは、
プロレスラーになりたいという情熱以外の何ものでもありませんでした。
一年前とは見違えるような体つきに変化した頃、
ある出来事をきっかけに業界全体で門戸を広げることとなり、
私もあっさりオーディションに合格することができたのです。
ただ入団はしたものの、満足な仕事もできない私は怒られてばかり。
そのうち誰にも話し掛けてもらえなくなり、
マスクを外して素顔でリングに上がらされたり、
頭を坊主に剃られ、見世物のようにされるなど
惨めな思いを味わいました。
もうやめてしまおう。
あれほど憧れていたプロレスに終止符を打ち、
家業を手伝っていた私の元へ、ある日1本の電話が掛かってきました。
「あんた、まだプロレスやりたいでしょ。うちでやらない?」。
電話の主は吉本女子プロレスのスター選手だったジャガー横田さん。
将来この子が障碍者の方の希望になればという思いがあったそうで、
未練のあった私は「お願いします」と返事をし、
再デビューを果たすことができたのです。
入団後も先輩方の温かい指導のおかげでTWF世界タッグ王者になり、
各方面から試合のオファーもいただくようになりました。
原因不明の血尿が出るようになったのはそんな頃のことです。
ある日高熱に見舞われ、病院へ行くと集中治療室に入れさせられ、
緊急入院の指示を受けました。
「急速進行性糸球体腎炎(しきゅうたいじんえん)」という腎臓病で、
治療は安静が原則。運動は禁止でプロレスなどは論外です。
その上厳しい食事制限も課され、
こんな状態が一生続くのかと思うと絶望的な気持ちになりました。
そんな時お見舞いに来てくださったのが、
ジャガーさんと、ご主人で医師の木下博勝先生でした。
先生は私に病名を尋ねられ、
「なんだ。その病気だったら、時間はかかるかもしれないけど、
必ず治るよ。安心したよ」
と言われました。
あれ?
それまで主治医や看護師からは薬の副作用で
骨粗鬆症になるなどと説明を受けてきたため、
不思議な気もしましたが、それならば頑張ろうと
気持ちを入れ直しました。
そして密かにリング復帰の決意をし、
歩行訓練から始めて筋トレのメニューを少しずつ増やしていきながら、
その日を迎える準備を行いました。
2008年、約2年ぶりとなる復帰戦の舞台を用意してくださったのは、
ジャガーさんと先輩のライオネス飛鳥さんでした。
あれほど強く望んでいた復帰戦もいざリングを前にすると、
まさか本当にこの日が来るとは、と込み上げてくるものを
抑えることができませんでした。
無事試合を終えた夜、私は真っ先に
ジャガーさんと木下先生にお礼を言いに行きました。
「先生のあの時の言葉が凄く励みになったんです」
「いやぁ、実は病名を聞いた時、復帰できると思ってなかったんだよ。
可能性はゼロだと思ってたんだ」
世の中には不可能を可能にする力が存在すると私は思います。
一つには固い決意と粘り強さ。
プロレスラーになれなくて悩んでいた時も、
私は必死にもがいて行動し、絶対になるんだとしか考えていなかった。
入院生活中に復帰を決意した時もそう。
そして不可能を可能に変えるもう一つの力は、
周りにいる人がどんな言葉を与えるかではないでしょうか。
苦しい時を経ていまも憧れのリングに
立たせていただいていることの幸せを噛み締めながら、
私もいつかジャガーさんや木下先生のように、
困っている誰かに手を差し延べることのできる
存在になれたらと願っています。
※救世忍者 乱丸さんの公式ブログ
http://ameblo.jp/521ranmaru/entry-11247597403.html
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「鉄腕・稲尾和久投手の運命を拓いたもの」
藤尾秀昭 著『小さな経営論』より
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昔、プロ野球に西鉄ライオンズという球団があったんです。
そこに稲尾和久という大投手がいました。
稲尾さんと同期で二人のピッチャーが入ったそうです。
ところが、その二人と自分の扱い方がぜんぜん違うわけです。
彼らはピッチング練習をしているんだけれど、
自分はバッティングピッチャーしかやらせてもらえない。
おかしいなあと思って、稲尾さんはタイミングを見計らって
二人に聞くんですよ。
「僕は3万5000円の給料と契約金50万円で入ってきたんだけど、
君たちはいくらもらった?」
そうしたら二人は、契約金がそれぞれ500万と800万、
月給も10万と15万だったそうです。
球団の期待の度合いが全然違うわけです。
だから彼らはピッチャーの練習をしているのに、
自分はバッティングピッチャーばかりやらされるのか、
と稲尾さんは知るんですね。
普通ならみなさん、
「なんだ、馬鹿にするな、俺はもう辞める」というところです。
でも、稲尾さんはいわないんです。
どうすればいいか、じーっと見ていて考えるんです。
私はよくいうんですが、伸びていった人というのは
自分に与えられた環境、条件をすべて生かしきって成長していくんです。
わかりますか?
マイナスの条件もいっぱいあるんです。
そのマイナスの条件もすべて生かしきっていく人が成功するんです。
稲尾さんはまさにそうなんです。
彼は毎日バッティングピッチャーをやる。
だんだん嫌になってくる状況の中で、ハッと気づくわけです。
バッターというのはストライクばかり投げると嫌がるなって。
そりゃそうです。毎回毎回打っていたらしんどいでしょう。
3球ストライク投げて、1球外してやるとバッターが
一番嬉しそうにしている。
ボール球がきたら一球休憩できるからね。
そこに彼は目をつけるんです。
このボール球にする1球は俺だけのものだ。
この一球だけは別に相手を気づかわなくてもいい。
バッティングピッチャーだから3球はストライクを
投げなきゃいけないけれど、残りの1球はボールでいい。
だから、その1球は俺のものだ。
稲尾さんは、この1球で自分の練習をしようと決心するんです。
高め、低め、インコース、アウトコースと
ボール球を投げ分ける練習をしようと。
その結果、彼は名コントローラーといわれるピッチャーになるんです。
すごいと思いませんか。
普通の人間ならふて腐れる状況の中で、
1球のボールで練習しよう、と。
その一球だけは他の奴がピッチング練習するのと同じだと考えて、
高め、低め、アウトコース、インコースと投げ分けて
ピッチングの練習をしたんです。
1時間で480球投げたら、そのうちの120球は
自分のもんだと考えて練習を重ねて、
名コントローラーといわれるピッチャーになっていくんです。
そうやって自分の与えられた環境の中で
一心不乱に仕事をしていったから、
稲尾さんの人格が磨かれて、運命を招来していったんです。
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「吉田茂の最大の功績」
北康利(作家)
『致知』2012年6月号
特集「復興への道」より
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吉田茂の最大の功績は、なんといっても
早期講和を実現して日本の独立を取り戻したことであろう。
そして経済復興の道筋をつけ、
次代のリーダーを育てたことである。
サンフランシスコ講和条約に際しては、
吉田がアメリカとの部分講和を進めようとするのに対し、
ソ連や中国も加わった全面講和を主張する者たちから
強い反対にあった。
しかし米ソ冷戦が始まったばかりの当時、
ソ連と中国にアメリカと同じ方向を向かせて
講和に参加させることは至難の業であった。
先ほども述べたように吉田は、講和を早期締結し、
国民に独立心を植え付けなければと考えていた。
実際、マッカーサーがアメリカに帰る時、
人々は自分たちを占領した国の総司令官に対して
沿道から旗を振り、「ありがごうございました」
と口々に叫んで見送った。
吉田はそうした日本人の国民性を冷静に見据え、
占領を長引かせてはいけないと強く思っていたのである。
ゆえに時間のかかる全面講和ではなく、
部分講和を通じての早期独立の道を目指したわけである。
軍備にしても同様である。
再軍備を遅らせる結果を招いた軽武装、
経済優先の復興路線、いわゆる吉田ドクトリンの功罪が
しばしば論議されるが、軍隊のない国家など
あり得ないことを吉田は百も承知であった。
しかし百万人単位で餓死者が出るほどの窮状の中で、
まずは経済を優先すべきだとの彼の決断があったからこそ、
日本は早期復興を果たせたのである。
それができたのは、アメリカからの執拗な
軍備増強の要求を、新憲法の9条を盾に
懸命にかわしたからである。
新憲法はきわめて屈辱的な押しつけ憲法であった。
しかし吉田には転んでもただでは起きない粘り強さがあった。
制定に当たって日本側の要求がことごとく却下される中、
ともかくも国の拠り所である天皇制を死守した。
さらに、米ソ冷戦の始まりでアメリカが
手のひらを返したように日本に軍備増強を迫るのに対して、
不本意な憲法を逆手にとって拒否したのである。
リアリストの彼は、困難な目標に対しては
一直線に向かっていくのではなく、
いったん横に進んでも最終的に必ず成し遂げようとした。
その間も目標を見失うことなく、軸をブラさない。
ビジョンを明確に示していたため、
国民も彼が何をなそうとしているのかがよく理解できていた。
このように懸命に国を守ってきた吉田の思いを、
我われ日本国民は十分に汲み取っているだろうか。
彼がサンフランシスコ講和条約に
サインをした1951年9月8日、
あるいは条約が発効した翌年の4月28日は
日本にとって実に重要な意味を持つ。
にもかかわらず、祝日にしてそれを
顕彰しようという動きはなかった。
当然いまの国民にも、その両日についての認識が
ほとんどないことには忸怩(じくじ)たるものがある。
※その類い稀なるリーダーシップの源泉は何か?
人を惹きつけてやまない人間力の秘密とは?
詳しくは、『致知』6月号をご覧ください。
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「指揮官は絶対にうろたえてはいけない」
村井嘉浩(宮城県知事)
『致知』2012年6月号
特集「復興への道」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html
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私自身は今回の震災に際して心に決めていたことがあります。
こうした非常時には、大変ストレスがたまるものですけれども、
私は県のトップとして、自分のマイナスの感情を
絶対に外に出さないようにしようと決めておりました。
辛くて涙が出そうになる場面が何度もありましたけれども、
私が高ぶった感情をそのまま外に出してしまうと、
組織が混乱してしまいます。
私が防衛大学校にいた時の校長先生が
土田國保先生という元警視総監の方でした。
土田先生は警視庁の警務部長をされていた時、
贈り物を装って自宅に送られてきた
爆発物によって奥様が亡くなり、
息子さんも大怪我をされたことがあるんです。
土田先生が朝礼で部下からその報告を受けた時の
お話をなさったことがあるのですが、
私はそのお話がとても印象に残っているのです。
土田先生は、
「君たちはいずれ、部下や家族の突然の死というものに
直面する機会があるかもしれない。
また有事の際は自分の組織が全滅することもあるかもしれない。
その時に指揮官は絶対にうろたえてはいけない」
と前置きをされて、ご自身のご家族が
事件に巻き込まれた時のことをこのように話されました。
「自分がその報告を受けた時、正直、足がガクガクと震えた。
しかしここで自分が震えているところを見せたり、
うろたえたり、涙を流したりしていると、
部下がどう対応をしていいのか分からなくなってしまう。
だから自分はその時、お尻の穴をくっと締め、
下腹にぎゅっと力を入れて、大きく深呼吸をした。
そしてすっと立ち上がって、
これからどう捜査を進めるか指示を出した。
いざという時の参考にしてほしい」
と。お話を伺いながら私もお尻の穴をくっと締めて、
下腹に力を入れ、大きく深呼吸をしたことを
いまでもよく覚えています。
今回の震災では何度かそういう厳しい場面に直面しました。
その度に先生のお話を思い起こして実践したのですが、
不思議と心が落ち着いて冷静に対処できたんです。
そのことも含めて、私が防衛大、自衛隊に在籍して
訓練してきたことが震災では随分役立ちました。
若い時の苦労は買ってでもせよと言われますけれども、
厳しい訓練を受けてきて本当によかったと思います。
もう1つリーダーという立場の重要性を
実感させられた体験があります。
自衛隊の時に私は小さな部隊にいたんですけれども、
不思議なもので、指揮官が代わると
隊員は変わらないのに部隊の雰囲気がガラリと変わるんです。
暗い部隊だったのに急に明るくなったり、
前向きになったり、なんでも議論ばかりして
前に進まない組織になったり、
指揮官の性格がそのまま部隊に反映されるのです。
私はそれを見て、リーダーのあり方は
本当に重要だと実感しました。
※『致知』には毎号、あなたの人間力アップに役立つ記事が満載です。
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●『致知』6月号 特集テーマ「復興への道」
⇒ http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html
※『致知』は書店では販売しておりません。
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12年前に起きた17歳の少年によるバスジャック事件。
そのバスに同乗していた山口由美子さんは、
加害少年によって十数か所もの刺し傷を負われました。
その山口さんはいま、子供たちが安心して過ごせる
「居場所」づくりに尽力されています。
自らに起きた災いを受け止め、よき社会づくりへ
転換しようと努める山口さんの生き方をご紹介します。
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「バスジャック事件が教えたもの」
山口由美子(不登校を考える親の会「ほっとケーキ」代表)
『致知』2009年5月号
特集「執念」より
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2000年のゴールデンウイークの5月3日、
私は塚本達子先生と一緒にバスに乗っていました。
塚本先生は佐賀市内で幼児教育の教室を主宰され、
我が家の子どもたちがお世話になった先生です。
子どもたちは小学校に入る時点で
先生の教室は卒業しましたが、
人生に関する多くを学ばせていただいた私自身が
先生から卒業できず、交流を続けていました。
この日は一緒に福岡にクラシックのコンサートを
聴きにいく予定でした。
バスが高速に入ってしばらくすると、
一番前の座席に座っていた少年が突然立ち上がり、
牛刀を振りかざしてこう言いました。
「このバスを乗っ取る。
全員荷物を置いて後ろへ下がれ」
最初、私はこの少年が本気でバスを乗っ取ろうと
しているとは思いませんでした。
声にすごみはなく、まだ中学生くらいの
あどけない少年だったからです。
「何を言っているんでしょうね」
という感じで先生を見たら、意外にも大変驚いた様子で
固まっていらっしゃいました。
多くの子どもたちと接し、度胸もあって
信仰心も篤い先生は、こんなことで
たじろぐような方ではないのに……。
乗客は少年の言うことに従い、後部座席へ移動しました。
その時、1人だけ眠っていて
事態に気づいていない方がいました。
「おまえは俺の言うことを聞いていない!」
少年は逆上し、その人の首を刺したのです。
その時初めてこの子は本気なのだと気づきました。
しばらくすると、乗客の1人が
「トイレに行きたい」
と言い出し、少年はそれに応じて、
バスは道路の路肩に止まりました。
その方は1人で降りていかれましたが、
おそらく通報されたのでしょう、
バスの前に乗用車が何台か止まり始めました。
気づいた少年はさらに逆上し、
「あいつは裏切った。これは連帯責任です」
と言いながら、一番近くに座っていた私の顔を
牛刀で切りつけました。
とっさに両手で顔を覆うと、今度は手を切られ、
次は首、次は……。何か所刺されたかは分かりません。
あちこちを切りつけられ、
私は通路へ転がり落ちてしまいました。
しかし、その時私はこう思ったのです。
ああ、彼の心は、この私の傷と同じくらいに
傷ついていたのだ。
そんな少年を殺人者にするわけにはいかない――。
なぜ、そんな思いが湧いてきたのか、
それはいまだに私にも分かりません。
しかし、その思いが私の命を守ったのだと感じています。
* *
バスはどのくらい走ったのでしょうか。
うっすらとしか意識がないまま床に座り込み、
傷の浅かった右手で体を支え、
左手は心臓より高い位置にと思って
ひじ掛けに置いていました。
そうして数時間が経過した頃です。
バスの速度が落ちたのを見計らって、
2人の乗客が窓から飛び降りました。
すると少年は「連帯責任」という意味なのでしょう、
塚本先生を2回刺しました。
倒れ落ちる先生を見ながら、私は直感的に
「突っ伏したら死んでしまう」と思いました。
「先生、起きて!」と心の中で何度も叫びましたが、
自分の体もままならず、
どうすることもできませんでした。
広島に入り、パーキングエリアでバスは止まりました。
少年と警察とのやり取りが続いていましたが、
詳しくは分かりません。
しかし、怪我をしているということで
私は他の乗客の方よりも先に窓から救出されました。
助かった――。
その瞬間はそれしか思い浮かびませんでした。
極度の緊張感から解き放たれた私は
他の乗客の皆さんのことにも、
一緒にいた塚本先生のことにも思いが至りませんでした。
痛い、つらい、怖い、
そういうすべての感情が固まって押し寄せ、
訳が分からない状態です。
搬送される救急車の中で
「もう1人の方はダメだったみたいだなあ」
と職員同士の会話を聞いた時、
「そうか。塚本先生は亡くなったんだ……」
と、情報だけが体の中を通り過ぎていきました。
塚本先生との出会いは、一番上の息子が
4歳の時にさかのぼります。
小学校の教員だった先生は、偏差値教育や受験戦争など
現代の学校教育のあり方に疑問を感じて退職。
独自に幼児教室を主宰され、
「この世に生まれて初めて出会う教師は母親である」
という考えから、子どもたちとお母さんのための教育に
専心しておられました。
先生は常々
「子どもは自ら育つ力を持って生まれてくる。
大人はそれを援助するだけでいい」
とおっしゃっていましたが、
この教えが私の子育ての指針となり、
特に娘が不登校に苦しんでいた時代には
大きな支えになりました。
娘は小学校の時に不登校となり、
その後は通えたものの、
中学に入るとまた行けなくなってしまいました。
一番苦しいのは娘だと分かってはいるものの、
周囲から子育てが悪かったからこうなったと思われたり、
この子の将来はどうなるんだろうと不安になったりと、
親として娘を受け入れられない時期もありました。
しかし、
「子どもには自ら育つ力がある。
大人はそれを援助するだけ」
という塚本先生の教えがあったからこそ、
娘が自分で立ち上がるまで待つことが
できたのではないかと思うのです。
* *
事件から1か月半、私は広島の病院に入院し、
治療とリハビリに励みました。
結局、私は少年によって10数か所刺され、
場所によっては、あと少し傷が深かったら
死んでいたかもしれないとお医者様は言いました。
私自身、もしも床に倒れていたら、
間違いなく出血多量で死んでいたと思っています。
それゆえ、事件の直後は体のあちこちが
張り裂けるように痛く、あまりのきつさに、
いっそあの時死んでいればよかったと思うほどでした。
時間がたつにつれ、少しずつ加害少年の素性は
私にも伝えられました。
少年は娘と同じ17歳、高校は不登校の末、退学……。
「ああ、彼も苦しんでいたんだ」と思いました。
バスの中で、少年が最初に逆上して言ったあの
「俺の話を聞いていない!」という言葉。
きっと彼は十七年間、ずっと心の中で
「話を聞いてほしい」と訴えていたのでしょう。
しかし、それに耳を傾けなかった周囲の大人たち。
少年は事件によって加害者になりましたが、
それまではずっと大人社会の被害者だったのだと感じたのです。
………………………………………………………………
その後、山口さんは「彼にも居場所があったら、
こんなことにはならなかったかもしれないね」という
友人の言葉を聞いて、小学校に通えない子供や、
成人して引きこもってしまった人などのために、
親子の居場所づくりを目指す会を立ち上げられます。
………………………………………………………………
死後、塚本先生は私やご遺族に
1つの言葉を残されました。
「たとえ刃で刺されても恨むな。
恨みは我が身をも焦がす」
これは事故の直後に、先生のご子息が
「母の財布に入っていたおみくじの言葉です」と言って
教えてくれたものでした。
「母は遺された者たちの心のありようまで
示唆して逝ってくれました」
とおっしゃった時、あの日の先生の驚いた様子を思い出し、
もしかしたら先生はきょうここで、
ご自分の命が尽きることを察知したのかもしれない。
そう思いました。
少年によって深い傷を負い、
いまも傷あとや後遺症が残る私が、
恨むどころか、少年のほうが被害者だと主張するのを聞いて、
「山口さんは強い」とおっしゃる方もいます。
しかし「恨みは我が身をも焦がす」という言葉を思うと、
実は私は楽な生き方を選んだのではないかと思うのです。
そして、すべての出来事には意味がある。
事件もまた、私にとっては必要な出来事だったと受け止めています。
※『致知』には毎号、あなたの人間力アップに役立つ記事が満載です。
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●『致知』6月号 特集テーマ「復興への道」
⇒ http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html
※『致知』は書店では販売しておりません。
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101歳の天寿を全うするまで
仏の道を説き続けた禅の名僧、
松原泰道氏のお話をご紹介します。
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「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」
松原泰道(「南無の会」元会長)
『致知』2009年5月号
巻頭の言葉より
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中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚のもとに、
一人の修行僧が教えを請いにやって来ました。趙州和尚が、
「あなたはここへ初めて来たのか?」
と問うと、僧は答えて、
「はい、初めてまいりました」
すると趙州和尚は言いました。
「喫茶去」(きっさこ/お茶でも召し上がれ)
趙州和尚は、別の訪問僧にも同じことを尋ねました。
その僧は、
「いえ、以前にも伺ったことがあります」
と答えましたが、趙州和尚は同様に勧めます。
「喫茶去」
このやり取りを見て、不思議に思った寺の住職が
趙州和尚に尋ねます。
「老師は、初めて来た人にも、以前来たことがある人にも、
同じに『喫茶去』と言われました。これはどういうわけですか」
すると趙州和尚はまたしても、
「喫茶去」
と答えたのでした。
禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言葉)を
表面的に捉えると解釈を誤ります。
喫茶去というからお茶にとらわれてしまいますが、
趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、
以前ここへ来たことがあるのかと、
未来でも過去でもない、
「いま、ここ」を問題にしているのです。
「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。
お茶を飲むということは、日常のありふれた行為です。
しかしその日常の行為が、実は禅そのものなのです。
お茶を飲むことだけではありません。
ご飯を食べること、衣服を着ること、
そうした日常のすべてがそのまま禅なのです。
多忙な現代人は、食事もお茶も、
他のことをしながらいただいて
「ながら族」になりがちです。
しかし、何事も「ながら族」ではいけません。
お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹する。
ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、
ただそのこと一つに徹してすることによって、
人生の受け止め方も違ってくる。
喫茶去とは、そのことを説いているのです。
自分は回り道をしているとか、
自分の本当の仕事は別にあるとか、
何事も一時の腰掛けのつもりで手を抜いてやっていると、
必ず悔いが残ります。
しかし、どんな仕事であれ、
その時に全力を尽くしてやったことは、
後で必ずプラスになって返ってくるものです。
全力を尽くして取り組んでいる限り人生に無駄はない。
これは、私の長い人生から得た持論です。
※『致知』には毎号、あなたの人間力アップに役立つ記事が満載です。
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●『致知』6月号 特集テーマ「復興への道」
⇒ http://www.chichi.co.jp/monthly/201206_pickup.html
※『致知』は書店では販売しておりません。
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101歳の天寿を全うするまで
仏の道を説き続けた禅の名僧、
松原泰道氏のお話をご紹介します。
────────────────────────────────────
「出征の日に従弟が教えてくれたこと」
松原泰道(「南無の会」元会長)
『致知』2009年5月号
巻頭の言葉より
────────────────────────────────────
私の従弟は、縁あって私の寺で出家をし、
弟弟子になりました。
ところが、彼は私もお世話になった
岐阜の瑞龍寺で修行中に、陸軍の召集令状を受け取ったのです。
昭和19年秋、名古屋の師団から訪れた
従弟の出で立ちを一目見て、
私は彼がこれから出征することを悟りました。
果たして従弟が口にしたのは別れの挨拶でした。
「長い間お世話になりました。
これでお別れでございます。
どうか兄さん、お体を大事にしてください」
上京の途中で空襲がひどく、到着するまで
時間を費やしてしまったので、
すぐに帰隊しなければならないというのです。
それではあまりにも寂しい別れです。
たまたま彼がお茶好きだったことを思い出し、
「急いでもらい合わせの精茶の玉露を淹(い)れるから、
詰めていきなさい」
と、彼の水筒を引きよせようとしましたが、彼は
「結構です」
と言う。私は寂しくなり、
「兄弟がこれで別れるという時に、
遠慮なんかするものじゃない。
水筒を出しなさい」
と命じると、
「兄さん、自分は衛生兵です。
衛生兵の持つ水筒は、私用に飲むためではありません。
怪我や病気をした戦友のために預かっているのです。
傷病兵には冷たい水や濃い緑茶の類いは毒です。
いただけるのでしたら台所に残っている番茶を
お願いします」
と。それが今生の別れとなりました。
彼が出征したサイパンは、9月18日に玉砕したのです。
たとえ自分の持ち物でも、
自分のしあわせのためだけに使うのではなく、
人様と分かち合う。
そうしたたしなみが、かつての日本には
軍隊にまで浸透していました。
私たちも、こうした相手を思いやる気持ちを
持ちたいものです。
これは人にお茶を勧める時も同様です。
ただ形式的にするのではなく、
相手のしあわせを念じてお勧めしてこそ
意味があるのです。
※『致知』には毎号、あなたの人間力アップに役立つ記事が満載です。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「最期のときを共に過ごして」
日比野寿栄
(ひびの・すえ=管理栄養士・健康運動指導士)
『致知』1998年10月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
────────────────────────────────────
「大丈夫ですか」
車椅子の上で体勢を整えようとされた上妻由紀子先生に、
私は思わず尋ねた。
すると由紀子先生は、
私に向かって諭すようにこう言われた。
「『大丈夫ですか?』という言葉は、
安易にかけるものではありませんよ」
こういうことである。
体が不自由だからといって、
いつも人の手を借りなければいけない状態に
あるのかといえば、そうではない。
「大丈夫ですか」と問い掛けるのは、
かたわらで見ている側の心の不安の表れである。
由紀子先生は
「ちゃんと私の状態を把握していますか」
と問い掛けたかったに違いない。
私が栄養士として由紀子先生の身近で仕事をするようになって、
1か月ほど経ったときのことだったが、
いまにしてみればその思いがよくわかる。
由紀子先生との出会いは2年半ほど前のことだ。
新聞で腎臓病食専門の栄養士募集の広告を見て、
応募したのがきっかけである。
由紀子先生は精神科医で、東京の町田市にある上妻病院を開設され、
副院長を務められた方だ。
「この世の中から病気をなくすことはできない。
でも、病気で苦しむ人の心をなくしていきたい」
との志を掲げて病院を始められたのだが、
間もなくリウマチを患われた。
その後、2年半前には腎不全になり、
私が由紀子先生と過ごさせていただいたのは、
62歳で亡くなるまでの約一年半である。
20数年にも及ぶ闘病生活が辛く苦しくなかったはずはない。
それなのに
「病気によって苦しいのは、本人ではありません。
代わってあげることのできない周囲の人たちのほうが
よほど苦しいのです。地獄とはそういうことです」
と言って、決して弱音を吐かなかった。
いつも周りに気をつかって、笑顔で振る舞われる先生が
不思議で、尋ねたことがある。
「先生はどうしてそんなに強いのですか」
先生の答えはこうだった。
「それは多分、人間はとても弱い存在だということを、
知っているからだと思います。
例えば、この苦しみをだれか一人の人間に預けて、
もたれかかろうとしたとします。
そうしたら、その人はきっと私の重荷に耐えかねて、
つぶされてしまうのね。
それくらい人間は弱い生き物です。
だから、人間に絶対を求めてはいけません。
絶対なるものは、目に見えない、
神とも言うべき存在に求めるしかないのです」
先生は、いつも見えない神と対話しながら、
ご自身の弱さと闘ってこられたように思う。
そのような先生の姿勢から、私はさまざまなことを教えられた。
先生は仕事に対してことのほか厳しい方だった。
私が栄養計算をしてお出しした料理にしても、
1回目で口にしていただけることはほとんどなかった。
あるとき、食べやすいようにと、焼きなすの皮をむいて
食膳にお出ししたことがある。
「これではだめよ。
なすはアツアツの状態で、
自分で皮をむいて食べるようにしなければ」
と、作り直しを指示された。
先生は薬の瓶も決して捨てることはなく、
ものを大切にされる方だ。
それなのに、なぜ作り直しを指示されたのか。
「プロとして報酬をもらっている以上、
最高のものを提供しなければいけない。
妥協してこれでいいですよ、と言ってしまったら、
その人のためにはならない」
そう思って、苦言を呈してくださったのではないかと思う。
別の折、仕事の厳しさを説明するために、
次のような話をしてくださった。
「あなたがある人から1万円を借りたとしましょう。
『明日返しますから』と約束していたのに、
うっかりして返すことを忘れてしまいました。
『ごめんなさい、明日には必ずもってきますから』
と言えば、その人はきっと許してくれることでしょう。
でも、天の裁きというのは、
自分の言った言葉を守らなかった時点で下っているのですよ。
仕事も同じです。
自分が今日はこうしよう、と思って決めたことを
きちんと果たしているかどうか。
だれかが見ているからやるのではなく、
自分と交わした約束を守っているかどうか。
それが仕事の基本的な心構えなのですよ」
このように言われるのは、先生自身が仕事に対して、
真摯な姿勢で取り組まれてきたからにほかならない。
病院を設立する前、先生がある病院に
勤務されていたころのことである。
勤務時間が終わっても、
交代の医師が来ないことが度重なった。
そんなとき、由紀子先生はいつも表情一つ変えることなく、
何時間も待機されていたそうである。
院長先生が、そのような由紀子先生の働きぶりに感心して、
給料のほか、同額以上の別封を渡されたそうだ。
由紀子先生はこうも話されていた。
「大抵の人は、人生の花を咲かせるには、
耕された土地に、種をパッと蒔けばいいと
勘違いしているようです。
人生に花を咲かせるというのは、
コンクリートの上に花を咲かせるのと同じくらい
大変なことなのです。
考えてもごらんなさい。
コンクリートの上に咲いている花がどこにありますか。
でも、そのように苦心惨澹(さんたん)して咲かせた花は、
心の中にいつまでも咲かせ続けることができるのです。
私が病に苦しみながらも、心やすらかにいられるのは、
これまでに咲かせた花がいまも萎まずに
咲いてくれているからなのです」
先生が繰り返し繰り返し語られた言葉に、
「あなたはどれだけ損得なしに、
人のために尽くすことができますか」
というのがある。
だれかのために、惜しむことなく、身を呈す。
その瞬間にこそ、人は神に近づける――
という思いが、先生の根底にあった。
そして、惜しまれつつ召された
由紀子先生の生きざまを振り返れば、
限りなく神に近づこうと努力された方だったと改めて思う。
先生とは短い縁であったが、私もそのような生き方に
一歩でも近づきたいと願っている。
日本ハムの稲葉篤紀外野手が28日、
プロ野球史上39人目となる通算2000安打を達成。
かつての愛弟子の偉業に、野村克也氏は
「決して素質に恵まれた選手ではなく、努力の賜物」と称えた上で、
「稲葉とは本当に不思議な縁。これこそ、まさに人生」
と感慨深い表情を浮かべた。
出会いは94年5月。当時ヤクルト監督だった野村氏は、
東京六大学野球の明大に在籍していた息子・克則の応援で神宮球場を訪れた。
相手は法大。そこで本塁打を放ったのが稲葉だった。
さらに翌日。再び応援に行った時もまたも稲葉が一発。
「2回見に行って2回とも俺の目の前で本塁打。
しかも大学通算で6本しか打ってないそのうちの2本だからね、凄く縁を感じた」
同年のドラフトでヤクルトは即戦力の左打者の獲得を目指していたが、
その時点で稲葉の名前はリストアップもされていなかった。
プロとしては非力との編成部門の判断で、
稲葉にドラフト指名の可能性を伝えていたのも近鉄1球団だけ。
それでも野村氏は縁を大事に、
「一塁手としては細身で非力」とみていた編成サイドを
「外野で使う。採ってくれ」と押し切り、稲尾選手のプロ入りが決定。
この経緯を今朝のニュースで知りました。
偉大な業績も、初めの一歩がなければ決して成し得ることはできません。
この度弊社から発刊された野村克也著
【人生を勝利に導く金言】(定価1500円:税込)には、
「人間は言葉で生きています。人生において困難に直面したとき、
自分を支える言葉があれば、それに力を得て、困難を乗り越えられることも
あると思います。
本書は、私が折々に発した言葉を集めたものですが、
一つでも読者の皆様の心に届き、人生に役立つ言葉があれば嬉しく思います」
と、編集にあたって野村氏の思いを書き添えてくださいました。
ご自身もプロ野球選手を選んだ理由を以下のように述べられています。
「私がプロ野球の世界に飛び込んだのは1954年ですから、
今年で59年目を迎えることになります。
テスト生からプロ野球選手になった私が、まさかここまで長く野球界に
籍をおくことになろうとは思いもしませんでした。
3歳で父を戦争で亡くしたこともあって、
子どものころは半端でない貧乏生活を送りました。
母親頼みの生活でしたが、その母親は私が小学校2年生のときに
子宮がんで倒れ、その翌年には直腸がんにかかり、『助からない』と
宣告をうけましたが、子を思う一心からか、母はがんを克服したのです。
私と兄を育てるために、無理をして苦労しながら働いている姿をずっと見ていましたから、
絶対金持ちになって母を楽にしてあげたいという思いは人一倍でした。
金持ちになるために選んだ道がプロ野球選手だったのです」
この本の立ち読みページができましたので、
下記のアドレスから知将の名言集を是非ご覧くださいませ。
http://www.chichi.co.jp/book/nomura_jinsei_index.html
致知出版社 小笠原節子
「あなたをつくったのはあなた。あなたを変えるのはあなた」
岩井俊憲(ヒューマン・ギルド社長)
『致知』2012年4月号
特集「順逆をこえる」より
────────────────────────────────────
アドラー心理学の根幹となる理論について、
ここでは代表的な3つに絞ってご紹介しましょう。
1つには
「分割できない全体の立場から人間を捉えなければならない」
という「全体論」です。
医学や他の心理学では
意識―無意識、
理性―感情、
肉体―精神
という対立的な構図を考えますが、アドラーは
「パーソナリティーの統一性」
という言葉で、
これらが相補う関係にあると説きます。
2つには
「人間は、自分の行動を自分で決められる」
という「自己決定性」が挙げられます。
私がアドラー心理学に最も惹かれるのは
この部分なのですが、簡単に言えば
「あなたをつくったのはあなた。
あなたを変えるのはあなた」
という理論です。例えば、周囲の環境や肉体的な障害が
その人の心理状態に大きな影響を与えるのは確かです。
しかし、その状況を建設的にするか
破壊するかはその人次第だと考えるのです。
3つ目に「目的論」、
つまり人間の行動には必ず目的があるという考えです。
私は不登校の子供たちと向き合う中で
アドラー心理学と出合いました。
それまでの私は不登校児を抱えた母親と接する時
「お母さんのスキンシップが足りなかったのではないですか」
「夫婦仲はよかったのですか」
と常に過去に原因を探っていました。
そう問われると誰でも1つや2つは
思い当たる節があるものです。
自責の念に苦しむ親の姿も見てきました。
しかし大切なのは、変えられない過去(原因)に
目を奪われるのではなく、
これから何に向かって努力していくか(目標)を
考えることです。
その意味でアドラー心理学は未来志向といえます。
(中略)
弟子の一人から
「人間が性格を変えるのは、いつ頃まで可能なのですか」
と質問されたアドラーは
「死ぬ1日、2日前までは変えられる」
と答えています。
この言葉に大きな勇気と希望を
感じるのは私だけではないでしょう。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃
┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
┃□□□
┃□□□ 2012/4/15 致知出版社( 毎月15日配信)
┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
4月7日、桜が満を持したように一斉に咲き始めた日の早朝、
弊社の経営計画発表大会を開催しました。
『致知』を創刊して34周年を迎える今年、
社長発表の壇上に立つと、しみじみと湧いて来る思いがありましたので、
冒頭にその話をしました。
一つは、生まれた年も場所もまったく違う人間が
ここにこうして集まり、一緒に仕事をしている。
実に奇跡のようなことで、
不思議な縁に手を合わせたいような気持ちになる。
「古来聞き難きは道
天下得難きは同志なり」
とその昔、中江藤樹は共に道を学ぶ仲間のいることを大層喜んでいるが、
その気持ちがよくわかる、という話をしました。
2つ目は、坂村真民先生の言葉を最近よく思い出すということです。
初めてのインタビューの時、先生はこんな話をされたのです。
昔、先生が宇和島で高校の先生をされていた頃の話です。
ある時、生徒を連れて「泣き坂」という大変な坂を上ったことがある。
すると、後ろからついてきた高校3年生の女の子が、
「先生はどうしてこの坂を平気で上っていくんか。
私らは息もできん。
先生は上の方にすすきがきらきらと光っているといわれたが、
どんなに光っとっても、
私らは辛うて、そんなの、見えん」
といった。
先生はそれに対して、
「ああ、そうか。
それはこの山やら木やら坂やら、
そういうものに呼吸を合わせていくから、ちっとも無理をしない。
お前たちはむしゃくしゃしてるから余計、きついんや。
あらゆるものと呼吸を合わせていったら、どんなに苦しい時でも苦しくない。
これはちょっと難しいが、ぼくがいったことだけでも覚えておけ。
呼吸を合わせると、あらゆるものがスムーズにいく。
それを合わさずにいくから病気になったり、不幸になったり、
運命が逆転したりするんや。
鳥は呼吸を合わせていくから三千世界を飛べるんや。
魚も呼吸を合わせて泳いでいるんや」
と答えたといいます。
これは私たちが人生を生きていく上で、非常に大事な話です。
『致知』もあっちで呼吸を乱し、
こっちで呼吸を荒げていたら、34年も続いていません。
遠くまでいくものは静かにいく――といいますが、その通りだと思います。
呼吸が合っているから、静かにいけるのです。
「成功を邪魔するものは結局自分自身である。
世間は誰一人として邪魔はしない」
と松下幸之助氏はいっていますが、
これも同じことをいっているのだと思います。
あらゆるものに呼吸を合わせる、ということを忘れないでいたい。
最後に道元の言葉を紹介しました。
「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。
よき人に近づけば覚えざるによき人となるなり」
霧の中を歩んでいると、気がつかないうちに衣がしめっている。
すぐれた人に親しんでいると、
いつの間にか、自分も高められ、すぐれた人になっている、ということです。
この言葉は深く私の心に響いてくるものがあります。
浅学非才(せんがくひさい)の私どもが34年間歩んでこられましたのも、
よき人との出会いがあり、
その薫陶(くんとう)をいただけたおかげ以外の何物でもありません。
大事な原点を忘れず、全社員心を一つにして、
また新たな1年を歩み出したいと思います。
1950年、生みの親に捨てられた1歳の僕は、
今は亡き父、岩次郎にもらわれました。
父は青森県花巻市(現・黒岩市)で、貧農の末っ子として生まれ、
小学校しか出ていません。
18歳で上京し、公営バスなどの運転手で生計を立てます。
バスの車掌だった母のふみと結婚しますが、
東京都杉並区の住まいは、6畳二間と3畳とお勝手でしたが、
当初はお風呂もありませんでした。
ぼくが小学校に上がる前、母が心臓病を患い、入退院を繰り返していましたが、
貧しい人が高度な医療を受けるのは大変な時代でした。
父は、毎日15時間ほど働きましたが、ほとんどが母の入院費に消えていきました。
37歳の時でした。
旅券申請のために取り寄せた戸籍で、
父親の欄に別の名前を見た時、大きな衝撃が走りました。
血のつながっていない父が、ぼくを育ててくれていた・・・
心臓病の母を抱えた あの貧しい暮らしの中で、
「拾ってやった」 とか、恩着せがましい言葉を一度も口にせず、
泣き言も言わず、弱音も吐かず。
父は苦難から逃げませんでした。
苦しい時ほど、その苦しみを横に置いて、誰かのために生きようとしました。
頑張って頑張って、全力投球で、最後は個人タクシーの運転手を
70歳くらいまで務めました。
僕は子どもの頃、もしかしたら閉ざされていたかもしれない未来を
貧乏な父が拾ってくれたことで開くことができました。
ですから、僕も自分にできる範囲で子どもの未来をつなげてあげたいと思っています」
諏訪中央病院:鎌田實先生が語られる父親の人物像、
そして、困っている人を助ける医療の根底には、
「うちみたいな貧乏な家が医者にかかる時、どんな思いでいるか絶対に忘れるな。
弱い人たちを大切にする医者になれ」
といったお父さんの言葉が、強い使命感となり、現在に至っているそうです。
今月の木鶏本部例会には、「致知」2011年11月号にご登場いただきました
鎌田實先生をお迎えします。
「致知」4月号の127頁の誌面でもご紹介させていただいていますが、
ご紹介の場所が変わっており、お気づきでない方もおありでしたので
改めてご案内させていただきます。
【演題】「強くて、温かくて、優しい国、ニッポンを作ろう」
【日時】4月21日(土)14時 ~ 16時(13時30分受付開始)
【場所】京王プラザホテル44階「ハーモニー」
【会費】3,000円
お申込み、詳細は、下記のアドレスをご覧くださいませ。
http://www.chichi.co.jp/event_seminar/3316.html
「苦しい時に自分のことは脇に置いて、人のために何かをすることによって
逆に自分自身の生きる意味というものがみえてくる」
(「致知」2011年11月号:鎌田先生の言葉より)
────────────────────────────────────
「上の人にかわいがってもらうには?」
道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)
『致知』2012年4月号
特集「順逆をこえる」より
http://www.chichi.co.jp/feature/3321.html
────────────────────────────────────
その頃(15歳頃)は自分が料理人になるとは
夢にも思わなかったんですが、
僕が出入りしていた旅館のチーフに
「手に職をつけたほうがいい」と言われ、
当時流行っていた「東京ブギウギ」に誘われて東京へ出たんです。
十九歳の時でした。
家を出ていく時、母は
「六ちゃん、人にかわいがってもらえや」
と言いました。親として一番悲しいのはいじめに遭ったり、
人から嫌われたりすることだったんでしょう。
一方、親父は
「石の上にも三年だ。
行ったからには石に齧りついてでも我慢しろ。
決して音を上げるな」
と。また、両親は浄土真宗の信者でもあり、
幼い頃からこんな話をよく聞かせてくれました。
「おまえは自分の境涯を喜ばなければならない。
この世に生まれてきて、
目の見えない子や耳の聞こえない子もいる中で、
おまえには鼻はついている、耳はついている、
五体満足に全部揃っている。
それを喜ばずに何を喜ぶんだ」。
「辛いこと、苦しいことがあっても嘆いてはいけない。
逆境に遭ったら、それは神が与えた試練だと思って
受け止めなさい」
「たとえ逆境の中にいても喜びはある」。
そういう言葉の一つひとつが、
僕の人生において非常に支えになりましたね。
(料理の世界に入ってから)
僕は調理場でもなんでも、
いつもピカピカにしておくのが好きなんです。
例えば鍋が煮こぼれしてガスコンロに汚れがつく。
時間が経つと落とすのが大変だから、
その日のうちに綺麗にしてしまう。
そういうことを朝の三時、四時頃までかかっても必ずやりました。
それで、オヤジさんが来た時に
「お、綺麗やなぁ」と言ってもらえる。
その一言が聞きたくて、もうピカピカにしましたよ。
だからかわいがってもらえたんですね。
それと、毎日市場から魚が入ってくるんですが、
小さい店ですから鯛などは一枚しか回ってこない。
でも僕は若い衆が大勢いる中で、
その一枚を自分でパッと取って捌きました。
そうしないと、他の子に取られてしまいますから。
ただ最初のうちはそういうことを、
嫌だなぁと思っていたんです。
というのも、「いいものは他人様に譲りなさい」と
親に言われて育ってきましたから。
半年ぐらい随分悩んだんですが、
でもそんなことばかりをやっていたら、
自分は負け犬になってしまう。
だから僕も、まだ青いなりに
「仕事は別だ」って思ったんですよ。
仕事だけは鬼にならなけりゃダメだ、と。
そう思って、パッと気持ちを切り替えたんです。
結果的にそういう姿勢が先輩や親方からも認められ、
それからはもう、パッパ、パッパと仕事をやるようになりました。
* *
僕の若い頃には「軍人は要領を本分とすべし」
とよく言われたものです。
要領、要するに段取りでしょうな。
だから要領の悪い奴はダメなんですよ。
そうやって先輩に仕事を教えていただくようにすることが第一。
仕事場の人間関係でも一番大事なのは
人に好かれることで、もっと言えば
「使われやすい人間になれ」
ということでしょうね。
あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、
様々な仕事を経験でき、使われながら
引き立ててもらうこともできるんです。
普通の人がどんどんパソコンを使い、インターネットを使うようになった。
その結果、
子供たちは学校以外でも、さまざまなことが学べるようになった。
しかも、インターネットを通じて学ぶことのほうが、学校の授業よりずっと面白い。
こうなると、それまでの組織化された教育では通用しない部分も出てきます。
かつて教育は学校に任せていれば十分でしたが、
いまやテレビから強く影響を受けたり、インターネットからさまざまな知識が得られるなど、
教育と家庭が密接に結びつくようになった。
ある意味、家庭や社会の役割のほうが、教育にとって重要になっている。
そこで、問題になるのが、モラル。
モラルコントロールは本来、ボトムアップより中央集権、トップダウンのほうがやりやすい。モラルに反したら法律で罰したらいいからだ。
ところが、親の場合、子供を法律で罰する権利はありません。それでも子供を正しい方向に導かなければならないのですが、それが出来ない親も多い。だれがどのようにしてモラルを植えつけるかが大問題になっている。
(松下幸之助が描いた21世紀の日本 PHP)