交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

「“1万時間”をただ1つに懸ける」

2013-02-15 22:43:44 | 教育


┌───今日の注目記事───────────────────────┐

     「“1万時間”をただ1つに懸ける」
 
            山本益博(料理評論家)

                『致知』2013年2月号
                 連載「第一線で活躍する女性」より

└─────────────────────────────────┘


評論家には独自の観察眼が不可欠だが、
それを磨いていくには場数しかないと思っている。

マルコム・グラッドウェルの『天才』という本の中に、
「1万時間の法則」という話が出ている。

スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツ、ビートルズといった
成功者たちは皆、若い頃に寝る間も惜しんで1つのことに打ち込み、
その総数が1万時間を超えた人だという。

1日8時間を365日続ければ、2920時間。
約3年半で1万時間に到達する。
このような圧倒的な努力の先に成功はあるのだろう。

20代は、目標に向かっていくパッションと体力が
最も旺盛な時期である。

だからこそ、まずやりたいことを見つけ、脇目もふらず、
1つのことに徹する。
それはすぐには結果として出てこない。
何十年後かにようやく返ってくるものだと思う。


覚悟を決めない限り、何も得ない人生になります。

2013-02-15 21:54:28 | 徳育 人間力

覚悟を決めない限り、何も得ない人生になります。
覚悟を決めたら、あらゆる問題が
全部自分のほうに向かってくるんですね。
そういう覚悟を持って、
人間は仕事に打ち込んでいかなければいけない。

 

 

「人は何にしびれるか。
 何にしびれるかによって、その人は決まる。
 中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれていた。
 人間は本物にしびれなければならない」


王監督から学んだプロのあり方

2013-02-15 21:34:44 | 徳育 人間力

┌───今日の注目の人───────────────────────┐

     「王監督から学んだプロのあり方」
 
            小久保裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手)


                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より


└─────────────────────────────────┘


僕がプロで成功した一番の要因は
王監督との出会いだと思っています。

亡くなられた根本陸夫監督の後を引き継いで
ダイエーの監督に就任されたのは
僕がプロ二年目の時でした。

その出会いからトータルで十五年、
王監督の下でプレーさせてもらったんですけど、
僕はその教えを忠実に守ることを心掛けてきました。

王監督からは例えば「楽をするな」って教わったんですよ。
「練習の時に楽をするな。練習の時に苦しめ」と。

練習は普通センター返しが基本と言われていて
大方の選手はそうしているわけですけど、
僕の場合は王監督から

「ボールを遠くに飛ばせ。
それにはバットを振った時、
 背中がバキバキと鳴るくらい体を百二十%使え」


と言われました。

皆、練習の時は適当にやって、
試合で百%の力を発揮しようとするのですが、
これは間違いだということがいまはよく分かります。


王監督のことでは強く印象に残っていることがあります。
怒ったファンからバスに卵をぶつけられたことがありました。


忘れもしません、九六年五月の日生球場での
公式戦最終日です。

負けが続いていて、怒ったファンの方が
たくさんの生卵を僕たちのバスに投げつけられたんです。
卵が飛び散って外の景色が見えないくらいだったのですが、
そんな時でも王監督はどっしり構えて絶対に動じられなかった。

後ろをついていく人間としてリーダーが
ここまで頼もしく思えたことはなかったですね。

帰ってからのミーティングでも


「ああいうふうに怒ってくれるのが本当のファンだ。
 あの人たちを喜ばせるのが俺たちの仕事なんだ。
 それができなければプロではない」


とおっしゃいました。

僕はまだ人間が小さいですから
「あんなやつらに」とついつい思っていたのですが、
それだけに絶対に言い訳をしようとしない
監督の姿には学ばされました。


 幻の教科書『実語教』

2013-02-15 21:03:14 | 教育

┌───今日の注目記事───────────────────────┐



       幻の教科書『実語教』
 

              齋藤孝(明治大学教授) 


                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より


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「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」


――福沢諭吉『学問のすゝめ』の冒頭にある有名な言葉です。
諭吉はここで、人間はみな平等につくられていることを
高らかに宣言しています。

しかし、そのすぐ後に

「されども今広くこの人間世界を見渡すに、
 かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、
 富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、
 その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」

といって、この世の中に貧富や貴賤の差があることを
指摘しているのです。

なぜ平等に生まれたはずの人間に、差ができてしまうのか。
諭吉はその理由を次のようにいっています。


「『実語教』に、人学ばざれば智なし、
 智なき者は愚人なりとあり。

 されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに
 由て出来るものなり」


『実語教』に


「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」


という言葉があるように、賢い人と愚かな人の差は
学ぶか学ばないかによって決まるのだ、というわけです。

さらに、世の中には医者や学者や政府の役人や
経営者などの難しい仕事もあれば、
力仕事のような簡単な仕事もあるが、
難しい仕事にはどうしても学んでいる人がつき、
学んでいない人には簡単な仕事しか回ってこない、
と非常に具体的に述べています。

つまり、しっかりした仕事につきたいのならば、
一所懸命に勉強して智恵を身につけなくてはいけない。
それは『実語教』に書かれているとおりだ、というわけです。


日本の近代を開いた『学問のすゝめ』は、
『実語教』を下敷きとして書かれたものだったのです。


この『実語教』という本は、
平安時代の終わりにできたといわれます。

弘法大師の作という説もありますが、
本当のところは分かりません。

子供たちの教育に使われ、鎌倉時代に普及し、
江戸時代には寺子屋の教科書となりました。
なんと千年以上も受け継がれてきた子供の教科書なのです。


なぜ『実語教』がそれほど重宝されてきたかというと、
学びの大切さ、両親・先生・目上の人への礼儀、
兄弟・友達・後輩との付き合い方など、
人間が世の中で生きていく上で欠かせない
大切な智恵が詰まっていたからです。
そのいくつかを紹介してみましょう。



富は是一生の財、身滅すれば即ち共に滅す。
智は是万代の財、命終れば即ち随って行く。


(富は自分が生きている間は大切なものですが、
 死んでしまえば墓の中まで
 持っていけるものではありません。

 それに対して智恵は万代も後まで残るものです。
 自分が死んでも、子孫へと受け継がれていくものなのです)


「ローマ法王に米を食べさせた公務員」

2013-02-13 18:30:22 | 商い



┌───今日の注目の人───────────────────────┐



     「ローマ法王に米を食べさせた公務員」
 

            高野誠鮮(羽咋市役所ふるさと振興係)


                『致知』2013年3月号
                 特集「生き方」より


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私は日本人の気質や人間の心理というものを考えて、
いつも戦略を立てるんですね。

日本人ほど近い存在を過小評価する民族はいないんです。
近くに素晴らしい宝の原石があっても
遠くにあるもののほうが素晴らしいと評価する。

また、人は自分以外の人が持っているもの、
身に着けているもの、食べているものを欲しがるんです。
で、その相手の影響力が強ければ強いほど
メディアも取り上げるし、ブランド力が上がる。

要するに、誰がいつも食べていたら
消費者は勝手に神子原(みこはら)米を
ブランドだと思ってくれるかを考えました。

まずはここは日本ですから、天皇皇后両陛下です。
うちは「神子原」で、「皇」に「子」と書いて
「皇子」と読むからゴロもいい。

もう一つは、「神子原」を英語に訳すと
「the highlands where the son of God dwells」となって、
「イエス・キリストが住まう高原」となるんです。

ならば、キリスト教で最大の影響力のある人は
誰かといえば、ローマ法王だと。

で、最後にアメリカは漢字で書けば「米国」ですから、
アメリカ大統領に食べてもらうと、この三本柱を立てました。


まずは天皇皇后両陛下です。
羽咋市のある石川県は旧加賀藩になるわけですが、
宮内庁には加賀前田家十八代目にあたる
前田利佑さんがいらっしゃることを掴んでいました。

早速市長と一緒に宮内庁を訪ね、
前田さんに天皇皇后両陛下に神子原のお米を
定期的に食べていただけないかと直談判したんです。
山の水だけでつくった安全でおいしいお米ですと。

すると、あっさり
「いいですね。料理長にお願いしましょう」とおっしゃる。

いきなりOKですよ。

市役所に電話して「成功したぞ」と電話しまくって、
ホテルでどんちゃん騒ぎしていました。
もう私の頭の中には真ん中に金色の菊のご紋と
「天皇皇后陛下御用達米 神子原米」という昇り旗と
ポスターが完璧にでき上がっていたのですが、
部屋に戻ると伝言メッセージのランプが点滅している。

宮内庁からで「さっきの件はなかったことにしてくれ」と。


陛下が召し上がるのは「献穀田」からのお米だけと
決まっていて、そこに新たに加えることは難しいという理由でした。

まあ、一瞬はガクっときましたが、すぐに切り替えて、
次はバチカンのローマ法王様にお手紙を書いたんです。

「山の清水だけでつくったおいしいお米がありますが、
  召し上がっていただく可能性は一%もないですか」と。
 しかし一か月たっても音沙汰なし。二か月目も何もない。

ダメだ、ならば次に行こうと。
当時はブッシュ大統領の時代で、
テキサス州にあるパパブッシュの自宅住所は掴みました。
そこに届けてもらおうと、アメリカ大使館に頼みに行ったんですね。

ところがその交渉のさなかにローマ法王庁から連絡が入り、
「来なさい」と。
そこで今度は市長と町会長と三人で
四十五キロの米を担いで駆けつけました。

新米をお出しして、これを法王に
味わっていただきたいと申し上げると、大使は
「あなた方の神子原は五百人の小さな集落ですよね。
 私どもバチカンは八百人足らずの世界一小さな国です。
 小さな集落から小さな国への架け橋を、
 私たちがさせていただきます」とおっしゃったんです。

で、このことを地元の北國新聞と
カトリック新聞が取り上げたんです。
そうしたら二日後、聖イグナチオ教会のバザーの関係者と
名乗る品のいい奥様からオーダーのお電話があって、
ものすごい量の注文がありました。しかもこちらの言い値で。

ここから全国紙やテレビでも
「ローマ法王御用達米」として取り上げられ、
それまで一粒も売れていなかった神子原米は
一か月でなんと七百俵も売れたんです。


一方で、最も売れる時期に売らなかったことも
ブランド米になるための一つの戦略でした。


腰塚勇人(「命の授業」講演家)

2013-02-13 14:15:48 | 徳育 人間力

  首の骨を折る大けがにより、
  充実した教員生活から一転、
  人生の奈落に叩き落された腰塚勇人氏。
┌─────────────────────────────────┐
    
     「いつも笑顔でいよう
            いつも感謝をしよう
      周りの人々の幸せを願おう」
         
      腰塚勇人(「命の授業」講演家)

       『致知』2013年3月号    特集「生き方」より


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 実は怪我をするまで、僕は競争が大好きな人間でした。
「常勝」が信条で、人に負けない生き方を
 ずっと貫いていたんです。

 だから「助けて」なんて言葉は
 口が裂けても言えない性分でした。

 それが怪我ですべて人の手を借りなければ
 ならなくなりました。

 僕が一番したくない生き方でした。

 苦しいし、泣きわめきたいし、「助けてっ!」って
 言葉が口元まで出かかってくるけど、
 プライドが邪魔してそれを言わせない。

 ここで弱音を吐いたら、
 家族に余計に心配をかけてしまうと思うと、
 なおさら言えませんでした。

 皆に迷惑をかけた分、
 なんとかしたいって気持ちでいたんですが、
 そのプレッシャーや苦しさに
 押し潰されそうになってしまって……
 僕はとうとう舌を噛んだんです。


 自分の未来に絶望感でいっぱいでした。
 本当は死にたくなんてなかったんです。

 でも首から下の動かない人生、
 生き方が分からず苦しかったんです。

 だけど結局、死に切れなかった。

 あとには生きるという選択肢しかなくなりました。
 
 じゃあ明日から前向きに生きられるかといったら、
 それは無理です。

 自分を押し包む苦しさが
 なくなったわけではありませんからね。


 次にしたことは将来を手放すことでした。
 自分の将来に期待するから苦しむ。
 だったらその将来を手放してしまえばいい。
 周りに何を言われても無反応になりました。


 そんなある晩、苦しくて寝つけないでいると、
 看護師さんが声をかけてくれました。


「腰塚さん、寝ないと体がもちませんよ。
 睡眠剤が必要だったら言ってね」
 って。
 その言葉に僕の心が反応しちゃったんです。

 おまえに俺の気持ちが分かってたまるかって、
 無意識に彼女をグッと睨みつけていました。

 その看護師さんは素敵な方でね、
 僕の様子にハッと気づいてすぐに言ってくれたんです。

「腰塚さんごめんね。
 私、腰塚さんの気持ちを何も考えずに、
 ただ自分の思ったことを言ってたよね。

 でも腰塚さんには本当に少しでも
 よくなってもらいたいと思っているから……、
 なんでもいいから言ってほしいです。
 お願いだから何かさせてください」


 看護師さん、泣きながらそう言ってくれたんです。
 彼女が去った後、涙がブワッと溢れてきました。
 あぁ、この人俺の気持ちを分かろうとしてくれてる。
 この人にだったら俺、「助けて」って
 言えるかもしれないって思えたんです。


 それまで僕は周りからずっと
「頑張れ」って励まされていました。

 僕のことを思って言ってくれているのが
 分かるから決して言えなかったけど、
 心の中は張り裂けそうでした。

 俺、もう十分頑張っているんだよ……、
 これ以上頑張れないんだよって……。

 だから救われたんです。
 あの時以来、凄く思うんです。

 人の放つ一言が、人生をどうにでも
 変えてしまうんだなって。

 だから自分は言葉を丁寧に使おう。
 言葉をちゃんと選んで、丁寧に使おうって。


ザナルディ

2013-02-07 21:00:59 | 徳育 人間力


吉田松陰の言葉

2013-02-07 15:08:44 | 徳育 人間力

誠の一字、中庸尤も明かに之れを先発す。

 読んでその説を考ふるに、三大義あり。
 
 一に曰く実なり

 二に曰く一なり

 三に曰く久なり



吉田松陰の言葉である。

「誠」は『中庸』の中で明らかに言い尽くされている。
「誠」を実現するには、
実(実行)、一(専一)、久(持久)が大切である。
一つのことを久しく実行し続ける時に、
初めて「誠」の徳が発揚されてくる、というのである。
至言である。


「お母さんから命のバトンタッチ」鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)

2013-02-06 20:31:42 | 徳育 人間力


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       「お母さんから命のバトンタッチ」


              鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)

                 『致知』2012年7月号
                  読者の集いより

◇─────────────────────────────────◇

僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。


「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」


彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、


「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を母親として見てあげたい」


と言うんです。

9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。

でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。


奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。

こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。

おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。



さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。

でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。

僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。


「母は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」


と娘さんは言いました。

彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。

病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、


「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」


と言って送り出しました。


ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。


「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 そのおむすびを持って、学校に行きました。
 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」


お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。


でも、命は長さじゃないんですね。


お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。


人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。


矢崎節夫(金子みすゞ記念館館長・童謡詩人)

2013-02-06 20:25:02 | 徳育 人間力

(『致知』2010年4月号「致知随想」より)

昭和五年、二十六歳という若さで世を去った
童謡詩人がいました。
山口県・仙崎の地で生まれ育った金子みすゞです。

いまでこそ広く知られていますが、
その名は世間から長い間忘れ去られていました。

みすゞの名を初めて知ったのは、
小四の頃から志していた童謡詩人になるべく、
早稲田大学に通っている時のことでした。

ある日、通学時に読みふけっていた『日本童謡集』の中に、
有名な詩人に紛れて、聞いたことのない
童謡詩人の名前が目に留まりました。

読んだ瞬間、それまで味わったことのない
衝撃を受けたのです。

他の三百数十篇の詩が一瞬にして
頭から消え去るかのようでした。

  朝焼け小焼けだ
  大漁だ
  大羽鰮の
  大漁だ。

  浜は祭りの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰮のとむらい
  するだろう。

浜の喜びの一方で、目に見えない海の悲しみがある。
この詩は私の眼差しをいっぺんに変えてしまったのです。
世の中は常に二つに一つだというメッセージが、
この「大漁」という、わずか十行の詩の中に、
明確に収められていたのです。

この詩人の作品をもっと読みたい――。
その日、私は授業にも行かず、古本屋街を訪ね歩きました。

しかし、どこを探しても一向に見つかりません。
三十篇の詩と出合うことができたのは、
それから四年後のことでした。

他にもみすゞが遺した三冊の手帳が
あることは知りながらも、
手掛かりはまったくない状態です。

私は頭の片隅に常に金子みすゞを住まわせ、
思いを飛ばし続けました。必ず見つかると信じて。

結局、みすゞ探しの旅は、
初めての出会いから十六年の歳月を要しました。

手帳は、東京に住む弟さんが大切に保管していたのです。
本当のところ三十篇でも十分だと思っていました。
それだけに喜びもひとしおです。
さらに驚くことに初対面の私に、
手帳を貸してくださると弟さんが言ってくれたのです。

もし、この手帳がなくなれば、
金子みすゞは、完全に消えてしまう。
そう思うと、私は気が気ではありません。

寝る時は常に枕元に置き、外出する時は、家族に預け、
何かあれば必ず手帳だけは持って逃げなさいと
言い含めていました。

その一方で、私はほんの一行すら読むことが
できないでいました。
ページを開こうものなら壊れてしまうほど
手帳が劣化していたのです。
高揚感とは裏腹にもどかしさが募りました。

一週間後、弟さんから一通の手紙が届きました。
私がある賞を取ったことが新聞に掲載され、
それをたまたまご覧になったのです。

 
あなたの作品から、姉ととてもよく似た感性を
持っていることが伝わってきて、安堵しています、
とありました。早速受話器を掴み、
お礼かたがた、事情をお伝えしました。

壊れてもいいからぜひ見てください。
それが答えでした。

まず丁寧にコピーをとってから、
収められてある詩を数えはじめました。

短い創作期間の中で、遺した詩の数は
実に五百十二篇にも及んでいたのです。

その晩、私は一睡もできませんでした。
寝転がって読んでいたつもりが、
いつの間にか正座している自分がそこにいました。

明け方、興奮覚めやらぬ私を突き動かしたのは、
これは自分だけのものにしてはいけない、との思いでした。

すぐに全集の出版を思い描いた私は、
大手の出版社に次々と掛け合いました。

しかし、売れないものは出せないと、
ほとんど相手にされずじまい。

中には、何篇かを選んでみてはどうか
という話もありました。
しかし、私の思いは微塵も揺らぎませんでした。

一人の人間がその一生をかけて残した作品です。
五百十二篇の中には一篇たりとも
無用なものはないと固く信じていたのです。

自費での出版しか道がないかと思い至った時、
ジュラ出版局という小さな出版社と出合いました。

当時の編集長が「活字にすれば五十年残る」と、
詩に込められた価値をみごとに見抜かれたのです。
これで道が開けました。

それから四半世紀を経て、金子みすゞの詩は
世界十か国に訳されて親しまれるようになりました。

中国四川省で起きた大地震の後、
孤児となった子どもたちの心のケアとして
使われたのはみすゞの詩でした。

前のローマ法王もみすゞの詩にふれ、
涙をこぼされたといいます。
なぜこれほどまでに、みすゞの詩は人の心を動かすのでしょうか。

みすゞが書く詩には嫌な言葉がひとつもありません。
深い優しさと明るさが特徴です。

一方、実生活はといえば、
特に結婚後は放蕩無頼な夫との生活の中、
常に暗い陰が付きまといました。

最期は親権を楯に一人娘を奪おうとした夫に抗するため、
自らの命を絶って守り抜いたのです。

きっと彼女は言葉の力をよく知っていたのだと思います。
書き手の最大の読者は自分。

となれば苦しい時ほど、自分が嬉しくなることを
書き綴ろうとしたのです。

子供でも分かる言葉で書かれた詩は、
幼稚園児から百歳まで読め、
さらに人生が深まれば深まるほど
深く読み込むことができるのです。

私は、お経や『聖書』などを書き残した人と同じように、
金子みすゞは生きる上で一番大切なことを
書き残すためにこの世に存在したのではないかと
考えています。

童謡詩人・金子みすゞの詩を発信し続けていくこと、
これが天から与えられた私の大切な使命だと思っています。


子供は親を選んで生まれてきた

2013-02-01 13:50:34 | 教育

┌───今月の注目記事───────────────────────┐

   「あずさからのメッセージ」
   是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
       『致知』2013年2月号  致知随想より

└─────────────────────────────────┘


十数年前、障がいのある子がいじめに遭い、
多数の子から殴ったり蹴られたりして亡くなるという
痛ましい事件が起きました。

それを知った時、私は障がい児を持った親として、
また一人の教員として伝えていかなくては
ならないことがあると強く感じました。

そして平成十四年に、担任する小学五年生の学級で
初めて行ったのが「あずさからのメッセージ」という授業です。

梓は私の第三子でダウン症児として生まれました。

梓が大きくなっていくまでの過程を
子供たちへの質問も交えながら話していったところ、
ぜひ自分たちにも見せてほしいと
保護者から授業参観の要望がありました。

以降、他の学級や学校などにもどんどん広まっていき、
現在までに福岡市内六十校以上で
出前授業や講演会をする機会をいただきました。

梓が生まれたのは平成八年のことです。
私たち夫婦はもともと障がい児施設で
ボランティアをしていたことから、
我が子がダウン症であるという現実も
割に早く受け止めることができました。

迷ったのは上の二人の子たちにどう知らせるかということです。
私は梓と息子、娘と四人でお風呂に入りながら


「梓はダウン症で、これから先もずっと自分の名前も
書けないかもしれない」


と伝えました。
息子は黙って梓の顔を見つめていましたが、
しばらくしてこんなことを言いました。


さあ、なんと言ったでしょう?



という私の質問に、子供たちは



「僕が代わりに書いてあげる」


「私が教えてあげるから大丈夫」


と口々に答えます。
この問いかけによって、一人ひとりの持つ優しさが
グッと引き出されるように感じます。

実際に息子が言ったのは次の言葉でした。



「こんなに可愛いっちゃもん。
 いてくれるだけでいいやん。
 なんもできんでいい」。


この言葉を紹介した瞬間、
子供たちの障がいに対する認識が
少し変化するように思います。

自分が何かをしてあげなくちゃ、と考えていたのが、
いやここにいてくれるだけでいいのだと
価値観が揺さぶられるのでしょう。


さて次は上の娘の話です。

彼女が


「将来はたくさんの子供が欲しい。
 もしかすると私も障がいのある子を産むかもしれないね」


と言ってきたことがありました。私は


「もしそうだとしたらどうする?」


と尋ねました。

ここで再び子供たちに質問です。
さて娘はなんと答えたでしょう?


「どうしよう……私に育てられるかなぁ。お母さん助けてね」。


子供たちの不安はどれも深刻です。
しかし当の娘が言ったのは思いも掛けない言葉でした。



「そうだとしたら面白いね。
 だっていろいろな子がいたほうが楽しいから」。



子供たちは一瞬「えっ?」と息を呑むような表情を見せます。
そうか、障がい児って面白いんだ――。

いままでマイナスにばかり捉えていたものを
プラスの存在として見られるようになるのです。


逆に私自身が子供たちから教わることもたくさんあります。

授業の中で、梓が成長していくことに伴う
「親としての喜びと不安」には
どんなものがあるかを挙げてもらうくだりがあります。

黒板を上下半分に分けて横線を引き、上半分に喜びを、
下半分に不安に思われることを書き出していきます。

中学生になれば勉強が分からなくなって困るのではないか。
やんちゃな子たちからいじめられるのではないか……。

将来に対する不安が次々と挙げられる中、
こんなことを口にした子がいました。


「先生、真ん中の線はいらないんじゃない?」。


理由を尋ねると


「だって勉強が分からなくても周りの人に教えてもらい、
 分かるようになればそれが喜びになる。
 意地悪をされても、その人の優しい面に触れれば喜びに変わるから」。


これまで二つの感情を分けて考えていたことは
果たしてよかったのだろうかと
自分自身の教育観を大きく揺さぶられた出来事でした。

子供たちのほうでも授業を通して、
それぞれに何かを感じてくれているようです。


「もし将来僕に障がいのある子が生まれたら、
 きょうの授業を思い出してしっかり育てていきます」


と言った子。


「町で障がいのある人に出会ったら
 自分にできることはないか考えてみたい」


と言う子。


「私の妹は実は障がい児学級に通っています。
 凄くわがままな妹で、喧嘩ばかりしていました。
 でもきょう家に帰ったら一緒に遊ぼうと思います」


と打ち明けてくれた子。
その日の晩、ご家族の方から学校へ電話がありました。

「“お母さん、なんでこの子を産んだの?”と
 私はいつも責められてばかりでした。でもきょう、
 “梓ちゃんの授業を聞いて気持ちが変わったけん、
 ちょっとは優しくできるかもしれんよ”と、
 あの子が言ってくれたんです……」。


涙ながらに話してくださるお母さんの声を聞きながら
私も思わず胸がいっぱいになりました。


授業の最後に、私は決まって次の自作の詩を朗読します。



「あなたの息子は

 あなたの娘は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。

 生意気な僕を

 しっかり叱ってくれるから

 無視した私を

 諭してくれるから

 泣いている僕を

 じっと待っていてくれるから

 怒っている私の話を

 最後まで聞いてくれるから

 失敗したって

 平気、平気と笑ってくれるから

 そして一緒に泣いてくれるから

 一緒に笑ってくれるから

 おかあさん

 ぼくのおかあさんになる準備をしてくれていたんだね

 私のおかあさんになることがきまっていたんだね

 だから、ぼくは、私は、

 あなたの子どもになりたくて生まれてきました。」


上の娘から夫との馴初めを尋ねられ、
お互いに学生時代、障がい児施設で
ボランティアをしていたからと答えたところ


「あぁ、お母さんはずっと梓のお母さんになる
 準備をしていたんだね」


と言ってくれたことがきっかけで生まれた詩でした。


昨年より私は特別支援学級の担任となりましたが、
梓を育ててくる中で得た多くの学びが、
いままさにここで生かされているように思います。


「お母さん、準備をしていたんだね」
という娘の言葉が、より深く私の心に響いてきます。


「ジャンプする時は深くしゃがむこと」

2013-01-24 11:43:08 | 徳育 人間力

中山美穂、杏里、平原綾香の『Jupiter』など、
 作詞家として数々のヒット曲を手掛けてこられた、
 吉元由美さん。その数は実に1000曲以上にも上ります。

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

   「ジャンプする時は深くしゃがむこと」

       吉元由美(作詞家・作家)

        『致知』2013年2月号
        連載「第一線で活躍する女性」より
└─────────────────────────────────┘

私は子供の頃から、人はなんのために生きるんだろうと
ずっと考えていました。

そして人にはそれぞれ才能があって、
それを活かして生きることが幸せに繋がるのだろうと
だから自分にも絶対なんらかの才能があるって信じていたんです。

そういう意味では信じる力は強かったのですが(笑)、
中学、高校、大学でもこれといった才能を
見つけられませんでした。

いよいよ就職活動となった時、
自分自身が一番生かされる道はなんなのか
分からなかったんですね。

そこで知り合いが通っていた、算命占星術の
高尾義政先生をお訪ねしたんです。
受けようとしている業種をいくつか出した時、

「あなたはものを表現するお仕事が合っています」

と、広告代理店を第一志望にするよう
言ってくださったんです。


そして


「二十四歳で本当の仕事に出合います」



「二十六歳で一人暮らしをしてください」



「三十歳で自分の会社を持ってください」


と。


【記者:そんな先のことまで】



私、就職先も決まっていない大学生ですよ。

「ええ!?」って驚きましたが、もしも私に
そういう運気があるならそれにかけてみようと、
広告代理店に入りました。

そこでクリエイティブの先輩に
「作詞家になったら」と言われ、
「どうしたらなれますか」と聞いたら
「勉強すればいいんじゃない?」って。
その日から仕事が終わったら
ピューッと家に帰って猛勉強しました(笑)。


【記者:どういう勉強をなさったのですか?】


既にある歌に違う歌詞をつけるとか、
私は写経と呼んでいるのですが、
本を大量に読んでいいなと思った表現を
何度もひたすらノートに書いていくと(笑)。
そういうことを二年間やり続けました。

ただその間、突然の異動で
総務部の配属になった時期がありました。

すぐに高尾先生のところに行って


「私は総務部とは合いません。
  辞めてアルバイトをしながら
詞の勉強をしようと思います」

と言うと、先生はこうおっしゃいました。


「辞めてはいけません。
ジャンプする時はしゃがみますよね。
いましっかりしゃがんでください。

  自分の好きなことばかりやって、
いい運を掴もうというのは甘いです。
 嫌なこともやってください」


この言葉はいまでもちょっと辛いなと思う時、
思い出しますよね。

高尾先生からこの言葉をいただいていなかったら
傲慢な生き方をしていたかもしれないし、
忍耐力も持てず、作詞家にもなれなかったかもしれません。


心に強く念じ続けた映像は必ず具現化する

2013-01-24 11:35:46 | 商い

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

   「松下幸之助氏から教わった商売の神髄」

    中嶌武夫(ナカリングループ代表、
           メルセデス・ベンツ中央会長)

          『致知』2011年3月号
              特集「運とツキの法則」より
└─────────────────────────────────┘

しばらくして(バイク販売の)事業も
軌道に乗り始めたんですが、
しかし私にはどうしても納得できないことがあったんです。


私の実家は農家だったと申しましたが、
農民は春、田んぼに稲を植え、
それを育てるために夏は汗びっしょりになって草引きをする。

そして八十八の手を尽くして秋に米になり、
それを収穫してお金に換える。
そういう血と汗との結晶があるんですよね。

ところが、商売の世界に入ってみて
全然違っていたのはですね。

例えば百円で仕入れた物を百三十円で売る。
当たり前のことですよね。

でも私はその三十円に、
どれだけの血と汗の結晶があるのかと思うんです。

何とも納得のいかなかった私は、
松下幸之助さんが講演に見えた時に


「こんなことが罷り通っていいのですか」


と質問をしたんです。


【記者:それで、松下さんは何と?】


笑いながらね、


「あんた、それは違うよ」


と。


「お客様はね、あなたが勧めた自転車を、
  自分で有効に使われて事業などに役立てておられる。
 ものを欲しがっているお客様にその商品を届ける。

 嫌がっているものを押し付けるわけでは決してなく、
 お客様に喜びを差し上げている。
 商売とはそういうもんです。

 学校の先生であれ、商人であれ、
 人様のお役に立つこと、
 それが社会に貢献するということなんだ」


と。それを聞いて、胸の支えが
スッと取れたように思いました。


お金儲けというのは、
儲けよう儲けようとしてするものじゃない。
お客様に喜んでいただくことによって、
その代わりに給付を受け取り、
それが会社の利益にも繋がってくると。



*中嶌氏の信條

1、人間の両親は宇宙の大霊に直結する

2、心に強く念じ続けた映像は必ず具現化する

3、幸、不幸は我が心にあり


「あなたも日本人のようになりなさい」

2013-01-23 16:13:38 | 徳育 人間力

http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-1137.html

 

【ウズベキスタン】

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 ウズベキスタン共和国は、中央アジアに位置している。
 国境を二回越えないと海に出られないという、世界的にも珍しい二重内陸国である。

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 1991年、ソビエト連邦の解体とともに独立。
 平均月収は日本円にして、およそ2万5千円だという。

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 この国で最も有名な建物、それがナヴォイ劇場。
 中央アジアで最も格式の高い劇場として知られている。

 実はこの劇場に、日本が愛され続ける秘密が隠されていた。

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 1945年、日本は敗戦。
 ソ連は多くの日本人を捕虜にし、当時ソ連の一部だったウズベキスタンの強制労働所に送り込んだ。

 そこで日本軍捕虜たちを待っていたのは…

ソ連軍
「お前たちは捕虜として、この場所に劇場を造るんだ!」

 日本人捕虜たちに与えられた労働は、劇場の建築。

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 しかし、毎日6時に起床し、へとへとになるまで作業を続け、まともな休日もなかった。

 さらに、食事も粗末。
 半分腐ったジャガイモや、骨ばかりの羊の肉。小麦と水だけということもあった。

日本人捕虜A
「隊長、これ以上無理ですよ。みんな倒れてしまいます」
日本人捕虜B(隊長)
「我々は今まで戦争で多くの街を破壊してきた。今度は誰かの為に、新しいものをつくろう。いいか。日本人としての誇りを持って、この場所に世界一の劇場を造ってみせよう!」

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 日本人としての誇り。
 戦争に敗れはしたが、その誇りだけは失わない。
 彼らはひたすら働いた。

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 しばらくすると、地元の子供がパンや果物などを差し入れてくれるようになった。

 そんなある日…

ウズベク人の女の子
「何これ…」

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 いつもの場所に置かれた手作りのおもちゃ。
 強制労働で疲れ切った身体にもかかわらず、日本人は受けた恩に対して、精一杯の感謝を伝えようとした。

 しかし…。

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日本人捕虜C
「おい、大丈夫か!おい!」
日本人捕虜D
「桜が見たいなぁ…」
日本人捕虜C
「おい!しっかりしろ!」

 栄養失調と過労で、毎日誰かが倒れ、帰らぬ人となっていく。
 日本人捕虜たちの体力・気力は、すでに限界を超えていた。

 そして2年の月日が流れ…

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 ナヴォイ劇場が完成。

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 威風堂々とした外観、美しい模様や繊細な彫刻、苛酷な労働条件の中、館内の細部の装飾にまで、こだわり抜かれていた。

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 関わった日本人捕虜は500人。
 しかしそのうち、79人が建設途中で亡くなった。

日本人捕虜B(隊長)
「あいつらにも完成した劇場を見せてやりたかったな…」

 ……時は過ぎ、完成から20年後の1966年。

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 ウズベキスタンをマグニチュード8の大地震が襲った。
 街の建物は崩壊、辺り一面がれきの山に。

 しかし、そこでウズベキスタンの人々は、ひとつの奇跡を目の当たりにする。

 それは……

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 変わらぬ姿で凜と立つ、ナヴォイ劇場。

ウズベク人
「あの苛酷な状況でも日本人たちは…」

 日本人たちの仕事に彼らは敬意を表した。

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 そして1991年。
 ソ連が崩壊し、独立国家となった時には、この劇場に日本人たちの功績を称えるプレートを掲げた。

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 その際、カリモフ初代大統領は、「彼らは恩人だ。間違っても捕虜などと書くな」と指示したという。

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 プレートに記された「日本国民」という文字に、そんな思いが込められている。

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 あの強制労働で亡くなっていった日本人たちは、ウズベキスタンの地に眠っている。

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 そんな、故郷に帰ることのできなかった彼らのために、墓地の周りには、多くの桜の木が…。

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 ウズベキスタンの女性は、生まれてきた子供にこう教えるという。

 「日本人は、戦いに敗れても誇りを失うことなく、まじめに働いて立派な仕事をしたのよ。あなたも日本人のようになりなさい

 悲劇の中でも、素晴らしい仕事を成し遂げた日本人。
 その精神は、今も遠く離れたウズベキスタンの地で生きている。

※スタジオトークで白駒妃登美さん曰く……
 現在、ウズベキスタン国内にある13箇所の日本人墓地は、すべて地元の人々が管理してくれているそうです。
 実は、ソ連に支配されていた時代に、ソ連政府はウズベキスタンに対し、「日本人墓地を更地にしろ」という命令を発したのですが、ウズベキスタンの人たちは、「ここには日本人が眠っています。そんなことはできません」と断固として断って、お墓を守り通してくれたそうです。


ナヴォイ劇場

2013-01-23 15:39:24 | 徳育 人間力

第二次世界大戦で、

ソ連の捕虜になった日本人に強制労働として、

劇場の建設が課せられた。

長時間の労働に加え、

食事には腐ったものが出てくるなど劣悪な環境であった。

実際に作業に関わった500人のうち、

79人もの日本人が亡くなっている。

しかし、強制労働にもかかわらず妥協のない姿勢で建設に携わり、

細部の彫刻にまでこだわるなど完璧な出来であった。

1966年4月26日にタシュケントを襲った大地震では、

78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、

ナヴォイ劇場は無傷であった。

<エピソード>

  • 建設時、懸命に作業する日本人に対して地元子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった。

 

  • 1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した。その際の指示は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」というものであった。プレートには、「1945年から1646年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と日本語で書かれている。

引用先:Wikipedid

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E5%8A%87%E5%A0%B4