さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(34)メンデルスゾーンの一族

2021-10-25 | ユダヤ人の旅

モーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)

 

16世紀頃から、ヨーロッパ各地のユダヤ人はゲットーに住まわされるようになってしまった。しかし、逞しいユダヤ人たちはその中でも生き抜き、偉大な功績を残した人たちもいた。作曲家で有名なメンデルスゾーンの一族もその仲間である。作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父であるモーゼス・メンデルスゾーンは哲学者として名を残している。

モーゼスはドイツのデッソウに貧しい聖書筆写師の子として生まれた。学校にも行けなかったが、聖書やタルムードは繰り返し読まされた。14歳の時ベルリンに移住したのだが、ユダヤ人は牛や豚が入る門からでないと通行が許されなかったという。独学で哲学、ラテン語、英語、フランス語を学んだモーゼスは21歳の時には家庭教師を頼まれる程の学力を身に着けた。絹織物工場で働きながら、カントとも文通で交流し、啓蒙思想家のレッシングと知り合った。劇作家でもあるレッシングはモーゼスをモデルとした劇作「賢者ナータン」を上演すると、称賛を浴びた。1763年のベルリン・アカデミー懸賞論文ではカントに競り勝ち、カント哲学を論難する人物として名を轟かせた。ユダヤ人の身分的解放にモーゼスの果たした役割は大きい。

 

Abraham Mendelssohn Bartholdy - Zeichnung von Wilhelm Hensel 1823.jpg

アブラハム・メンデルスゾーン(1776~1835)

モーゼスの息子・ヨーゼフとアブラハムがベルリンで生まれた時には一家は裕福な家庭になっていた。ユダヤ人はユダヤ文化とともにドイツの文化にも馴染まねばならないというのがモーゼスの教えであり、自由主義的な教育を受けさせた。長男ヨーゼフは銀行家として成功した。次男アブラハムは兄ヨーゼフに従い銀行家となるも、音楽にも関わり、合唱団ベルリン・シンクアカデミーの設立にも参加した。慈善事業にも関わり、ベルリン市議にも選出されている。

アブラハムの娘ファニーと息子フェリックスは幼いころから音楽の才能を見せ始めていた。邸宅ではしばしば演奏会が開かれ、ファニーとフェリックスが作曲した曲を披露する場となった。アブラハムは音楽はあくまで趣味として続けて行けば良いと考えていたが、余りに周囲がその才能に期待を寄せるので、ついに息子の音楽家への道を許すことにした。父から音楽家になることを許されたフェニックスが17歳の時発表した序曲「夏の世の夢」はまさに彼が神童であることを証明する作品となった。ドイツ各地から演奏会のオファーがあり、一躍音楽家としてのデビュー曲となる。


Mendelssohn Bartholdy.jpg

フェニックス・メンデルスゾーン(1809~1847)


20歳の時にはバッハの「マタイ受難曲」を指揮することで、バッハを復活させるとともにメンデルスゾーンの名はヨーロッパ中に轟くことになる。
26歳から約10年間ゲヴァントハウス管弦楽団にて常任指揮者を務め数々の改革を行う傍らで、次々と傑作を生み出していった。中でも最も親しまれているのが「メンコン」の愛称を持つ「ヴァイオリン協奏曲ホ単調」だろう。ベートーヴェン、ブラームスとともに3大ヴァイオリン協奏曲の一つである。メンデルスゾーン35歳の時の作品だが、メンデルスゾーンの代表曲でもあり、ヴァイオリン曲の代表曲でもある。

19世紀最大の作曲家と評価されていたが、19世紀後半になるとユダヤ人に対する排斥運動が激しくなるにつれその評価は下がる。さらに20世紀になると、ナチス政権下ではメンデルスゾーンの音楽は堕落芸術として演奏も禁止され、記念碑は無残にも破壊された。また、100年以上もドイツの代表的銀行であったメンデルスゾーン銀行はナチスにより消滅させられた。 作曲家メンデルスゾーンは近年ようやくその名誉は回復され、記念碑も2008年に生誕200年を記念して再建された。

 

~~さわやか易の見方~~

「地風升」の卦。升は伸びる、成長する。地の下にある芽が地上に出て、若木となり、天を目指して伸びていく。堅実に自信をもって進んでいくのである。実力のある若木はどんな困難にもその成長を止めることは出来ない。時を得ること。実力を養うこと。後援者を得ること。この三つが肝心である。そうすれば、大いに伸び栄える。

長い間、迫害に耐えてきた民族、ユダヤ民族はこうして本来の実力を発揮するのである。ローマ教皇の誤った判断により、ヨーロッパ人に敵愾心を持たれ、いわれなき罪を着せられ、塗炭の苦しみを味わされたユダヤ民族がようやく芽を出そうとしている。しかし、一度しみついた汚れが簡単に取れないように、民衆の誤解、偏見というものは中々取れない。18世紀からヨーロッパでは啓蒙思想が盛んになるのだが、それでも啓蒙されないのが人間の業なのだろうか。情けないことに、それからもユダヤ人への偏見は直らない。個人でもやっかみ、嫉妬というのが中々思うようにならない。人間の馬鹿さ加減はどこまで行っても直らないものだろうか。

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