さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

もう一人の独裁者F・ルーズベルト(1)

2017-05-29 | 20世紀からの世界史
F・ルーズベルト(1882~1945)
 
ナチスドイツを率いるヒトラーの大暴走によって第二次世界大戦は始まったのだが、イギリスのチャーチルは独ソ戦でドイツとソ連双方が共倒れすることを画策した。それにはアメリカの参戦が必須で、そのためには日本を追い詰めアメリカを攻撃させる必要があった。チャーチルの作戦は現実となり、アメリカ、日本も参戦し世界中が戦争の渦に巻き込まれていった。
 
しかしアメリカは世界大恐慌の反省から国民は戦争反対のモンロー主義が根強く、ルーズベルト大統領も参戦はしないと公約していた。一方の日本も基本的には親英親米であり、首脳たちは日米の実力差を知っていたのでアメリカとの戦争は考えてもいなかった。ではどうして日本とアメリカは戦争をしたのだろうか。チャーチルの作戦にはめられただけだろうか。
 
 
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妻エレノア(1884~1962)
 
 
1929年に始まった世界恐慌の後を受けて32年の選挙で大統領になったフランクリン・ルーズベルトはノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズベルト(1858~1919)とは遠縁にあたり、妻エレノアはセオドアの姪にあたる。エレノアは5男1女の母として家庭を守る傍ら、度々の夫の不倫を受け入れ、夫の病気による車いす生活を支えた女傑だった。(夫の死後は国連代表、婦人運動家、文筆家として活躍した。)ルーズベルトは妻には頭が上がらなかった。
 
 
 
またルーズベルトの母方の祖父が中国とのアヘン貿易で財を為したこともあり、中国には同情と愛着を持つ中国贔屓だった。中国を侵略しようとする日本に対しては脅威とともに敵愾心を抱いていた。日本人に対しては異常な偏見を持っており、「日本人の頭蓋骨は白人より約2000年発達が遅れている。」とまで言って差別意識を抱いていた。
 
 
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宋美齢(1897~2003)
 
 
チャーチルより先にアメリカに助けを求めたのが中国国民党の蒋介石夫人・宋美齢である。1936年に西安事件が起き、国民党の蒋介石は中国共産党から日本と戦うことを強要される。現場に立ち会い、夫に方針転換を同意させたのが宋美齢だった。宋財閥の娘であり、アメリカ留学経験が長く英語は堪能だった。宋美齢はルーズベルトと夫人エレノアとも親密な関係をつくり対日政策に影響を与える。日中戦争が始まるとルーズベルトのバックアップを得て全米を巡回し抗日戦への援助を訴え続けた。
 
 
 
ルーズベルトは日本の侵略を断罪し、「平和と自由が一部の侵略国により脅かされようとしている。疾病が広がろうとする時は健康を守るため病人を隔離する必要がある。」という隔離演説を唱えた。ヨーロッパのナチスドイツとともにアジアの日本を恐るべきファシズムとして抹殺すべき非道国家として糾弾する。一方でスターリンには親しみを感じてソ連によるフィンランド、ポーランド、バルト三国侵略については黙認している。ルーズベルトは参戦のタイミングを見計らい戦後の世界覇権を描いていた。
 
 
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チャーチル(1874~1965)
 
1940年は大統領選挙の年だったが三選を目指すルーズベルトは「アメリカは参戦しない。」と公約し選挙に勝利する。そこにドイツを迎え撃ち窮地に立つイギリスのチャーチルからアメリカの参戦を要請してきた。41年8月、戦艦プリンス・オブ・ウェールズでの会談で日本に対する経済封鎖を約束した。我慢の限界を超えると爆発する日本人の国民性を知った上での経済封鎖強化であり、開戦準備は出来ていた。さらに11月には「今すぐ中国から撤兵せよ!」と最後の挑発「ハル・ノート」を突き付ける。
 
12月8日、ついに日本軍は真珠湾攻撃を決行、戦争が勃発した。ルーズベルトの思惑通りだったが、「日本軍が卑劣なだまし討ちを行った。我が国の屈辱の日である。アメリカ国民は立ち上がる。パールハーバーを忘れるな!」と演説した。ルーズベルトは日本人に対する人種差別的感情をむき出しにする。妻エレノアの反対も押しのけて、アメリカ国内、ブラジル、メキシコ、ペルーなどの日系人を拘束し財産を放棄させ強制収容する。ヒトラーのユダヤ人強制収容所に習ったものである。
 
 
 
 
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 ハーバート・フーヴァー(1874~1964)

アメリカが参戦すると、ルーズベルトは個人的特使や軍事顧問と相談するだけで国務省はルーズベルトが描いている戦争の遂行、集結についての構想を全く知らされなかった。チャーチル、蒋介石夫妻とのカイロ会議やチャーチル、スターリンとのテヘラン会議でも戦後体制を米、英、ソ、中の「4人の警察官」とするルーズベルトの提案にはチャーチルは驚かされる。国家の体制も定まらない中国と共産主義を拡大しようとするソ連をどうして警察官にするのか百戦錬磨のチャーチルには理解が出来なかったという。
 
日本を強引に追い詰め参戦させた「ハル・ノート」については明るみになった後で非難する米国政治家は多かった。ルーズベルトの前の大統領であるハーバート・フーヴァーは自著「裏切られた自由」において、「日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人・ルーズベルトの欲望だった。」と厳しい批判を述べている。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は天
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***   *** 下卦は雷
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「天雷无妄」の卦。无妄(むぼう)とは思いもしないことが起ること。人生には良いことも悪いことも思いがけない流れで起こるものである。何が起こっても不思議ではないのである。計画を立て、目標に向かって努力することは大切ではあるが、例え計画通りに行かなくとも自暴自棄になるのは賢明ではない。天の配剤は不思議なもので、後になってみるとその方が良かったということがある。神のみぞ知るということが常にある。
 
戦前にアメリカとの戦争を予想していた日本人は殆どいない。軍国主義の日本が戦争に突き進んだという定説は後から作られたものである。満州国建設、二二六事件、確かに陸軍の暴走は目に余る。それでも大半の日本人は良識があった。政府内でも良識派が大半だったと思う。それでも大国の政治勢力の流れに巻き込まれてしまえば良識も役には立たない。
 
ルーズベルトの人種差別はいかがなものだろうか。どんなに優秀な政治家といえども権力の座につくと人の本性が顔を出すのだろうか。ヒトラー然りスターリン然り、アメリカという巨大国家のトップともなればやはり本性が顔を出すのも無理はないのかも知れない。その本性が日本嫌いとは日本人にとっては不幸なことだった。
 

チャーチルが守った大英帝国のプライド

2017-05-18 | 20世紀からの世界史

チャーチル(1874~1965)

 
英仏の首脳たちは再び大戦争が繰り返されればヨーロッパそのものが終焉するという恐怖からナチスドイツにも宥和政策をとり戦争を避けていた。その宥和政策につけ込みヒトラーは戦争を開始した。1940年4月からのドイツ軍の圧倒的電撃作戦に、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーがあっという間に占領された。
 
イギリスでは宥和政策のチェンバレンに変わり対独強硬派のチャーチルが首相についた。そのチャーチルの就任間もない5月15日早朝、同盟国のフランス首相レノーから「我が国は敗北しました。」との電話があった。信じられない事態に翌日パリに飛ぶとそれは紛れもない事実だった。フランス軍は既に存在していない。ヒトラーが次の攻撃目標はイギリスであることは明白だった。チャーチルの首相生活は絶体絶命から始まった。
 
大英帝国を守るチャーチル
 
幸いにも全滅をも覚悟したダンケルクに取り残された派遣軍33万人を本土へ撤退させることに成功した。6月になるとフランスの首相になったペタン元帥は独仏休戦協定を結んでドイツとの戦争から離脱した。ヨーロッパ各国は殆どがドイツの衛星国家になり、頼みのアメリカはモンロー主義が根強くルーズベルト大統領も選挙を前に戦争はしないと国民に公約していた。
 
戦争準備をする政府にドイツから和平交渉がある。「英独が戦争をする理由はない。共通の敵はソ連であるから反共連合として手を結ぼう。」 ヒトラーと手を結ぶ選択を支持する和平派の声も強かった。しかしチャーチルは断固反対する。「大英帝国の誇りにかけてもヒトラーの風下に立つことは出来ない。何があっても世界の中心は英国でなければならない。」 1940年の夏、イギリスは独力でドイツ軍の攻撃を待つしかなく、破滅の一歩手前に立たされた。「最後の審判の時が来た。」 チャーチルは覚悟した。
 
 
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爆撃をするドイツ爆撃機
 
ドイツ軍の空襲は8月10日から始まった。双方の爆撃機を撃墜しあう「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空の激闘は工業力をかける消耗戦となる。チャーチルは軍事施設を攻撃されるよりむしろロンドン空襲をさせるため、1000機の爆撃機でベルリン空襲を命じ敢行する。その復讐としてドイツ軍はロンドンを空襲する。この作戦によりイギリス軍機に撃墜されるドイツ軍機が急増した。失われたパイロットと航空機の損失にはドイツ軍も動揺した。
 
チャーチルは爆撃された街を葉巻をくわえながら視察して歩いた。「決して、屈するな!」 Vサインを繰り返すチャーチルの国民的人気は高まった。反対派の声は次第に弱まり独裁的地位を確立していく。戦局は地中海にも拡大し、チャーチルもヒトラーも空中戦を先延ばしすることになった。1940年11月にアメリカ大統領選挙で三選されたルーズベルトも「イギリスが負ければ、全ヨーロッパはヒトラーに征服され人類の自由と幸福は失われるだろう。」と公然とイギリス支持を打ち出す。イギリスに光が差して来た。
 
 
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F・ルーズベルト(1882~1945)
 
1941年6月、ヒトラーはイギリスを後回しにして本命であるソ連を攻撃する。敵の敵は味方である。チャーチルはスターリンに「無条件で協力する。」と電報を送るが、本心では独ソが互いに消耗することを望んでいた。チャーチルにとっても共産勢力に勝たせる訳にはいかない。スターリンからフランスへ軍隊を送るよう要請されるが体よく断っている。それよりチャーチルの期待はアメリカを参戦させることだった。
 
1941年8月、カナダ・ニューファンドランド島沖にて戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上でチャーチルはルーズベルトと会談する。アメリカの参戦を要請したが、ルーズベルトも強かだった。ルーズベルトは参戦によって、イギリスに替わって世界の中心になることを目論んでいた。戦争は勝った後に何を得て何を失うかが問題だ。参戦する大義名分とタイミングも重要である。チャーチルはアメリカに参戦させるには日本を追い詰め、日本から先にアメリカへ攻撃させる作戦を考えた。
 
チャーチルはルーズベルトに日本に対する経済封鎖・ABCD包囲網を更に厳しくするため石油の全面禁輸に向けて圧力を強化すること、さらに「中国から撤兵すること。満州事変以前の状態に戻すこと。」を要求させ日本を戦争に追い込むことにした。1941年12月、ついに日本軍は真珠湾攻撃を決行、日米は開戦した。チャーチルは大喜びでルーズベルトに電話をし、喜びを伝えた。チャーチルは回顧録に「私は感謝の気持ちに溢れて眠りにつくことが出来た。」と書いている。
 
群衆に勝利宣言するチャーチル
 
チャーチルはアメリカの参戦によって勝利を確信した。しかし勝ったとしても問題はその後どうなるかである。独ソ戦は消耗戦になっていたが、思いの外ソ連は強かった。それ以上に日本の強さは想定外であり、香港、シンガポールなどアジアのイギリス領はことごとく日本軍に占領された。1943年11月、テヘランにてルーズベルト、スターリン、チャーチルは会談した。そこでチャーチルは二人の恐ろしさを知らされる。自国民を何百万人と粛清したスターリンとルーズベルトは手を組んでイギリスの覇権を取り崩しにかかってきた。
 
チャーチルの心配は戦後のソ連の脅威であった。しかし世界の覇権を目論むルーズベルトにはそれが解らなかった。1945年4月、ヒトラーは自殺し5月にドイツ軍、8月に日本軍は無条件降伏した。イギリスは戦勝国になったが、アメリカに莫大な借金を抱える債務国となり、世界の覇権国はアメリカに奪われた。大英帝国を維持した衛星国は全て数年の間に独立した。東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下になった。チャーチルは回顧録に「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現したのは独裁者がヒトラーに代わってスターリンになっただけだった。」と書いた。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は沢
******** はじける、破れる
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
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「沢天夬」の卦。夬(かい)は決壊、決裂の決にあたる意味。大河が氾濫する、火山が噴火するように陽のエネルギーが爆発するのである。下から五番目までの陽爻が関を切ってあふれる象である。一つの世界が煮詰まり過ぎて安定を保てなくなった。爆発後は全くの新時代が到来する。
 
イギリスは勝者になったが、全てを失った。残ったものは過去の栄光とプライドだけだった。二〇世紀の前半に帝国主義時代が限界に到達し、分解したのである。帝国主義時代を謳歌したヨーロッパ列強はお互いを潰しあって結果的には終焉したのだ。ヨーロッパの文明は一九世紀が花だった。ロマン派の音楽家が多数輩出し、印象派の画家たちが活躍した時代が最も華やかなヨーロッパ文化だった。
 
ナチスドイツが暴走し、ヨーロッパ各国が占領下となり、イギリス、ソ連が激しく戦った。その結果、新しく覇者となったのが、最も多くの犠牲を払ったソ連と最も犠牲が少なかったアメリカである。それまでは新興国と言われていたアメリカとヨーロッパ人からは嫌われていたソ連が2大陣営を築くことになる。大英帝国のプライドだけは守ったチャーチルは天国では回顧録に何と書いたのだろう。
 
 
 
 
 
 

今月の言葉(29年5月)

2017-05-08 | 安岡学研究会

安岡正篤先生(1898~1983)


期せざる所に赴いて天一定す。無妄(むぼう)に動く、物皆然り。
佐藤一斎

物事は中々思いどうりにいかない。思いがけない事件(無妄)が起ったり、人間の予期せぬ所に赴いて、落ち着くものである。易にも「天雷无妄」という卦があり、良いことも悪いことも起こる世の中に何が起ろうと慌てず騒がず落ち着いて処することを教えている。

いつも「さわやか易」をご覧頂き、有り難うございます。
さて、私は毎月第一土曜日に開かれる「安岡学研究会」に参加しております。もう30年になります。この会は安岡正篤先生の著書を素読、研習し、その教学の本質を学ぶことを目的にしております。前半は安岡先生の語録集素読の後に、市川浩先生による「日本書紀」の講義があります。後半に易経の勉強をしておりますが、28年11月より「易で考える世界近代史」というテーマで私が講師を務めております。
 
このテキストは私のブログ「名画に学ぶ世界史」をもとにテキスト用に修正を加えたものです。誰にでも解り易く、歴史と易をお話ししたいと思っています。
 
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カラヴァッジョ(1571~1610)
 
5月の会は易では「天山遯」について学習しました。この卦は「雷風恒」の後にくる卦であり、その順番に意味があります。恒は大変バランスのとれた安定した状態を表しますが、安定はとかくマンネリ化してしまいます。そこで君子は自ら独を慎む。遯は遁れることである。そうすると新たなエネルギーが湧いてくるものである。
 
歴史ではルネサンスの3大巨匠に続いて現れた天才・カラヴァッジョをテーマにしました。明暗法という斬新な技法を展開して「バロック時代」を切り開いたカラヴァッジョの生き様は破天荒であり、札付きの暴れん坊でもありました。喧嘩相手を殺してしまい、お尋ね者になり、39歳の若さで世を去りました。そんなカラヴァッジョの人物について学びました。

ただいま新規の会員を募集しております。東京近郊にお住いで興味のある方がおられましたら、一緒に勉強しませんか。

会場は江戸幕府の学問所・昌平黌の佇まいが残る湯島聖堂・斯文会館です。都会の中にしんと落ち着いた緑の空間が魅力です。

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教室の側には孔子廟があります。

アクセスマップ:史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

安岡学研究会
開催日:毎月第1土曜日12:30より16:30
会費:月3000円。但し15時からの「歴史と易」だけの方は2000円です。
ご希望の方は世話人の田辺さんにご連絡ください。携帯電話:080-3010-7200です。
「様子が解らないので、一度見学させて頂けますか?」と言うと、優しい田辺さんは「どうぞ」と言ってくれます。初回分がタダになります。