サラエボ事件 1914年6月28日
1914年6月28日、ヨーロッパの火薬庫で事件は起こった。オーストリアの皇太子・フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアのサラエボにて凶弾により暗殺された。犯人はボスニアの併合に不満を抱くセルビア人青年だった。この事件を巡り、オーストリアとドイツ間で協議、セルビアに対し戦争も辞さない強硬通告を発した。一方のセルビアはロシアと協議、宣戦布告されればロシアの参戦を確認した。
帝国主義の列強同士の対立が現実のものになった。軍備競争で列強の軍備はかつてないほど近代化され、軍艦、戦車、戦闘機など充分に準備されていた。とくに世界政策を実現したいドイツ皇帝ヴィルヘルム2世には待ちに待った好機到来だった。サラエボ事件は宣戦布告のきっかけだった。
塹壕戦
ドイツではかねてより「シェリーフェン・プラン」なるものが準備されていた。露仏協商が締結されてより、ロシアが参戦した場合にはフランスを速攻で制圧した上でロシアに向かう短期決戦の作戦だった。フランスに宣戦布告すると迅速に進軍した。しかしこの「シェリーフェン・プラン」は完全に頓挫、短期決戦作戦は失敗した。サラエボ事件から40日後にはヨーロッパ中を巻き込む大戦争に発展した。
ドイツ軍は仏独間にある中立国ベルギーを通過する時に思わぬベルギー軍の抵抗に遭う。トンネルや橋梁を爆破されたのだ。ベルギーにドイツが侵犯した時はイギリスが参戦することになっていた。フランス国境では英仏連合軍が立ち向かった。ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、フランス軍のタクシーを使ったピストン輸送が成功し、ドイツ軍は後退し、その後持久戦になる。
両軍はフランス北東部に塹壕を構築、塹壕はスイス国境からベルギーの海岸まで続き、消耗戦になった。迫撃砲、火炎放射器、毒ガス、戦車、戦闘機など次々と新兵器を投入、一進一退の攻防は果てしなく戦闘は4年間も続いた。戦死者、戦傷者、行方不明者、気が狂うものの数は甚大になる。
中央同盟国の君主たち
(左からドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、
オスマン帝国皇帝メフメト5世、ブルガリア国王フェルナンド1世。)
戦争は東部戦線でも拡大していく。ドイツ側は中央同盟国を結成、ロシア軍、バルカン半島での戦闘に当たった。イタリアはもとドイツ側であったが、連合国側に入り、オーストリアに宣戦布告する。日英同盟を守り日本軍も参戦し、1914年10月にドイツの東アジアの拠点である中国山東半島・青島を攻略した。始めての航空機を使った戦争であり、近代的戦法により制圧した。
1914年夏に始まった戦争は、両軍ともに短期決戦、クリスマスまでには終わるつもりだった。ところが始まってみると、20世紀の帝国主義戦争の恐ろしさは地獄であることが解った。列強の国を挙げた総力戦は世界中の植民地から戦費、兵士、食料、原料、資材を吸い上げた。連合国側はインド人150万人、中国人10万人、インドシナ人15万人、エジプト人50万人、アルジェリア、モロッコ人84万人、東アフリカ人21万人が兵士、労働者として駆り出された。
銃後では女性も子供も戦争に動員される。
帝国主義時代の列強国は豊かな経済から兵器も物資も豊富だった。その経済力の全てを戦争に投じたのである。例えば始め消費する砲弾の量を1日1万発と予想したが、まもなく30万発、さらに40万発となる。毎日膨大な弾薬、燃料、兵器、車輛、艦船を消費した。男性労働者の殆んどは前線に送られ、女性や子供たちも軍需工場での労働に駆り出された。
従来の戦争とは違い、世界の大国同士がその国の持っている全てを賭けての総力戦である。人類が長年の間に築き上げた文化も宗教も学問も何の役にも立たない。化学も工業も全てを尽くして文明の破壊に費やした。犠牲者が未曽有になろうと各国首脳たちは無益な争いを止めようとはしなかった。
アメリカ陸軍の募兵ポスター
総力戦、消耗戦の結果、1917年に入ると終にロシアが力尽き、戦争を放棄する。替わってそれまで中立を宣言していたアメリカが4月、ドイツに宣戦布告、参戦する。1918年5月、総兵力210万人のアメリカ軍の登場により膠着した西部戦線も連合軍の攻勢によりドイツ軍は敗北を喫し大量の降伏者が出る。ドイツ国内の混乱は修復がつかず、王政打倒の革命も勃発、ドイツ帝国諸邦の全君主は退位を余議なくされた。最後まで退位を拒否し続けた皇帝ヴィルヘルム2世だったがオランダに亡命する。
大戦はようやく終わった。空前の人的、物的損害を出しながら、ドイツ、オーストリアの敗北に終わった。大戦には殆んど世界中が巻き込まれ、両軍の犠牲者は合わせて戦死者1000万人、戦傷者2000万人、行方不明者は800万人とも言われ、その悲惨さは人類の歴史上かつてないものだった。帝国主義の行きつくところは何もかもの破壊だった。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
*** *** 下卦は水
******** 艱難、悩み
*** ***
「天水訟」の卦。訟は訴訟、裁判、争いである。天にたまり過ぎた水が一気に下に落ちる象である。個人、集団、国家間には対立がつきものである。その対立がエスカレートすると激しく衝突する。しかし争いは益々対立を深くする。いつまでも争うことは不利な結果を招く。賢者の意見に耳を傾けること、つまらぬ意地を捨てて親愛と協調を取り戻すことである。
オランダに亡命したヴィルヘルム2世は全財産を何両もの貨車に満載して去っていったという。大戦の元凶を皇帝一人に負わすことは出来ない。彼は帝国主義時代に次期皇帝として生まれ育っただけだ。帝国主義は富国強兵、最も豊かで最も強い国を目指そうという思想である。この時代に流れていた潮流である。潮流には乗るか飲まれるかのどちらかである。日本はこの潮流に乗った。ただ乗りそこなった近隣の国々もある。潮流が過ぎ別の潮流が流れる現在、それが問題になっている。
中国・青島でのドイツ軍捕虜たちは日本各地に収容されたが、徳島県の板東俘虜収容所では地元住民と捕虜たちとの交流があった。捕虜たちは元は民間人であり、各種の職人、音楽家、建築家もいた。収容所では所長の松江豊寿中佐が捕虜たちを寛大に扱ったため、彼等は持っている技能を伝えた。ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏が日本人に伝えられた。年末恒例となったベートーヴェンの「第9」の演奏はここから広まったと言われる。戦争がもたらした美談とも言えるが、戦争とは関係のない民間人まで兵士として戦地に送られたことを物語るものであり、考えさせられる。