さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

総力戦になった第1次世界大戦

2016-09-23 | 20世紀からの世界史
サラエボ事件 1914年6月28日
 
1914年6月28日、ヨーロッパの火薬庫で事件は起こった。オーストリアの皇太子・フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアのサラエボにて凶弾により暗殺された。犯人はボスニアの併合に不満を抱くセルビア人青年だった。この事件を巡り、オーストリアとドイツ間で協議、セルビアに対し戦争も辞さない強硬通告を発した。一方のセルビアはロシアと協議、宣戦布告されればロシアの参戦を確認した。
 
帝国主義の列強同士の対立が現実のものになった。軍備競争で列強の軍備はかつてないほど近代化され、軍艦、戦車、戦闘機など充分に準備されていた。とくに世界政策を実現したいドイツ皇帝ヴィルヘルム2世には待ちに待った好機到来だった。サラエボ事件は宣戦布告のきっかけだった。
 
 
塹壕戦
 
ドイツではかねてより「シェリーフェン・プラン」なるものが準備されていた。露仏協商が締結されてより、ロシアが参戦した場合にはフランスを速攻で制圧した上でロシアに向かう短期決戦の作戦だった。フランスに宣戦布告すると迅速に進軍した。しかしこの「シェリーフェン・プラン」は完全に頓挫、短期決戦作戦は失敗した。サラエボ事件から40日後にはヨーロッパ中を巻き込む大戦争に発展した。
 
ドイツ軍は仏独間にある中立国ベルギーを通過する時に思わぬベルギー軍の抵抗に遭う。トンネルや橋梁を爆破されたのだ。ベルギーにドイツが侵犯した時はイギリスが参戦することになっていた。フランス国境では英仏連合軍が立ち向かった。ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、フランス軍のタクシーを使ったピストン輸送が成功し、ドイツ軍は後退し、その後持久戦になる。
 
両軍はフランス北東部に塹壕を構築、塹壕はスイス国境からベルギーの海岸まで続き、消耗戦になった。迫撃砲、火炎放射器、毒ガス、戦車、戦闘機など次々と新兵器を投入、一進一退の攻防は果てしなく戦闘は4年間も続いた。戦死者、戦傷者、行方不明者、気が狂うものの数は甚大になる。
 
中央同盟国の君主たち
(左からドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ、
オスマン帝国皇帝メフメト5世、ブルガリア国王フェルナンド1世。)
 
戦争は東部戦線でも拡大していく。ドイツ側は中央同盟国を結成、ロシア軍、バルカン半島での戦闘に当たった。イタリアはもとドイツ側であったが、連合国側に入り、オーストリアに宣戦布告する。日英同盟を守り日本軍も参戦し、1914年10月にドイツの東アジアの拠点である中国山東半島・青島を攻略した。始めての航空機を使った戦争であり、近代的戦法により制圧した。
 
1914年夏に始まった戦争は、両軍ともに短期決戦、クリスマスまでには終わるつもりだった。ところが始まってみると、20世紀の帝国主義戦争の恐ろしさは地獄であることが解った。列強の国を挙げた総力戦は世界中の植民地から戦費、兵士、食料、原料、資材を吸い上げた。連合国側はインド人150万人、中国人10万人、インドシナ人15万人、エジプト人50万人、アルジェリア、モロッコ人84万人、東アフリカ人21万人が兵士、労働者として駆り出された。
 
銃後では女性も子供も戦争に動員される。
 
帝国主義時代の列強国は豊かな経済から兵器も物資も豊富だった。その経済力の全てを戦争に投じたのである。例えば始め消費する砲弾の量を1日1万発と予想したが、まもなく30万発、さらに40万発となる。毎日膨大な弾薬、燃料、兵器、車輛、艦船を消費した。男性労働者の殆んどは前線に送られ、女性や子供たちも軍需工場での労働に駆り出された。
 
従来の戦争とは違い、世界の大国同士がその国の持っている全てを賭けての総力戦である。人類が長年の間に築き上げた文化も宗教も学問も何の役にも立たない。化学も工業も全てを尽くして文明の破壊に費やした。犠牲者が未曽有になろうと各国首脳たちは無益な争いを止めようとはしなかった。
 
 
アメリカ陸軍の募兵ポスター
 
総力戦、消耗戦の結果、1917年に入ると終にロシアが力尽き、戦争を放棄する。替わってそれまで中立を宣言していたアメリカが4月、ドイツに宣戦布告、参戦する。1918年5月、総兵力210万人のアメリカ軍の登場により膠着した西部戦線も連合軍の攻勢によりドイツ軍は敗北を喫し大量の降伏者が出る。ドイツ国内の混乱は修復がつかず、王政打倒の革命も勃発、ドイツ帝国諸邦の全君主は退位を余議なくされた。最後まで退位を拒否し続けた皇帝ヴィルヘルム2世だったがオランダに亡命する。
 
大戦はようやく終わった。空前の人的、物的損害を出しながら、ドイツ、オーストリアの敗北に終わった。大戦には殆んど世界中が巻き込まれ、両軍の犠牲者は合わせて戦死者1000万人、戦傷者2000万人、行方不明者は800万人とも言われ、その悲惨さは人類の歴史上かつてないものだった。帝国主義の行きつくところは何もかもの破壊だった。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
***   *** 下卦は水
******** 艱難、悩み
***   ***
 
「天水訟」の卦。訟は訴訟、裁判、争いである。天にたまり過ぎた水が一気に下に落ちる象である。個人、集団、国家間には対立がつきものである。その対立がエスカレートすると激しく衝突する。しかし争いは益々対立を深くする。いつまでも争うことは不利な結果を招く。賢者の意見に耳を傾けること、つまらぬ意地を捨てて親愛と協調を取り戻すことである。
 
オランダに亡命したヴィルヘルム2世は全財産を何両もの貨車に満載して去っていったという。大戦の元凶を皇帝一人に負わすことは出来ない。彼は帝国主義時代に次期皇帝として生まれ育っただけだ。帝国主義は富国強兵、最も豊かで最も強い国を目指そうという思想である。この時代に流れていた潮流である。潮流には乗るか飲まれるかのどちらかである。日本はこの潮流に乗った。ただ乗りそこなった近隣の国々もある。潮流が過ぎ別の潮流が流れる現在、それが問題になっている。
 
中国・青島でのドイツ軍捕虜たちは日本各地に収容されたが、徳島県の板東俘虜収容所では地元住民と捕虜たちとの交流があった。捕虜たちは元は民間人であり、各種の職人、音楽家、建築家もいた。収容所では所長の松江豊寿中佐が捕虜たちを寛大に扱ったため、彼等は持っている技能を伝えた。ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏が日本人に伝えられた。年末恒例となったベートーヴェンの「第9」の演奏はここから広まったと言われる。戦争がもたらした美談とも言えるが、戦争とは関係のない民間人まで兵士として戦地に送られたことを物語るものであり、考えさせられる。

ヴィルヘルム2世の世界政策

2016-09-18 | 20世紀からの世界史
ヴィルヘルム2世(1859~1941)
 
ロシアの南下政策が東アジアに移ってきたため、日本、清国、朝鮮の間では日清戦争、義和団事件、日露戦争と激動の時代が始まっていた。その頃のヨーロッパは植民地競争の先陣を切るイギリス、フランスを後発組のドイツが猛烈に追いかける展開だった。列強同士が覇権を掛けて、駆け引きとつばぜり合いが始まっていた。
 
ドイツ帝国建国以来、長く君臨していたヴィルヘルム1世が、続いてフリードリヒ3世が1888年に相次いで崩御し、29歳のヴィルヘルム2世が皇帝に即位した。ドイツの名宰相・ビスマルクが巧みな外交力でバランスを保ってきたヨーロッパだったが、そのビスマルクも2年後に引退することになる。そこからヨーロッパのバランスは崩れ始め、激動の時代が始まったと言える。
 
水先案内人の下船
 
帝政ドイツは議会に比べ皇帝の権限は絶大であり世界で最も権力のある王座と言われる。若くして皇帝になったヴィルヘルム2世は覇気満々の帝国主義者であり、ドイツを世界に君臨する大帝国にすることが自分の運命だと信じた。政治経験がなく理想と覇気だけのヴィルヘルム2世は百戦錬磨のビスマルクの真価が解らなかった。
 
ビスマルクが普仏戦争の巻き返しを警戒し、フランスの植民地拡大を黙って見ているのも「大獲得時代」に遅れをとったとして歯がゆく思った。周りの国に気を使ってばかりいる外交政策も気に入らなかった。やろうとすることに一々注文をつけるビスマルクが邪魔になった。ついにビスマルクが社会主義者を鎮圧してきたことに異を唱え対立すると辞任に追いやった。
 
モロッコのタンジール
 
1905年、日露戦争が行われていた頃、ヴィルヘルム2世は突然フランスの植民地となっているモロッコのタンジールを訪問した。フランスに反感を持つスルタンにモロッコの独立を支援すると約束した。びっくりしたフランスは翌年各国首脳を集めた「アルヘシラス会議」を開きフランスの立場を鮮明にした。この第1次モロッコ事件の後にも1911年に第2次モロッコ事件を起している。出遅れた植民地獲得競争への巻き返しを図ろうとしたが失敗した。失敗しただけではなく、これにより英仏の結束を堅くし、アメリカ、イタリアも英仏を指示するなどドイツの孤立を深めることになった。
 
ヴィルヘルム2世は外交でも大失敗をしている。1908年にイギリスを訪問していたヴィルヘルム2世はワートリー陸軍大佐と対談したが、その時の発言が「デイリー・テレグラフ」の新聞に載った。「ドイツの国民は親英派は少数だ。」「ボーア戦争では仏露も反英だったが、自分だけが味方したんだ。」「戦艦建造は対英ではなく対日のためだ。」そんな軽口発言が顰蹙を買い、イギリスでもドイツでも皇帝の退位を要求する世論が起った。黄禍論を平気で唱えるヴィルヘルム2世はビスマルク時代から親独派だった日本人を一気に反独派に転向させる。
 
バクダード鉄道
 
日露戦争後のヨーロッパはイギリスを中心にフランス、ロシアの三国協商とドイツを中心にするオーストリア、イタリアの三国同盟の二つの陣営にまとまる構図が出来ていた。モロッコ事件などで評判を落としたドイツからイタリアが離脱し始めるとドイツは孤立を深める。四面楚歌のドイツは必然的に活路を東に求めるようになった。そこにはオーストリア・ハンガリー帝国が属するバルカン半島があり、オスマン帝国がある。
 
ヴィルヘルム2世の世界政策は弱体化しつつあるオスマン帝国と手を結びバルカンおよび西アジアに向かう。ベルリン、ビザンティン、バクダード(3B)を鉄道で結び、中欧を踏み台に世界に雄飛しようとした。しかしこの計画には落とし穴が待っていた。先ず、イギリスの3C(ケープタウン、カイロ、カルカッタ)政策と衝突する。次に、ロシアの南下政策による汎スラブ主義とドイツ、オーストリアを中心にする汎ゲルマン主義が衝突する。バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれる問題地だった。
 
ヨーロッパの火薬庫
火薬庫・バルカン半島
 
1908年、オスマン帝国では日露戦争に影響を受けた青年たちが、「青年トルコ革命」を起すと、この混乱に乗じてオーストリアはベルリン会議で統治を認められていたボスニア・ヘルツェゴビナを併合する。ここはスラブ人が多く住んでおり、スラブ主義のセルビア人は不満だった。セルビアはブルガリア、ギリシャ、モンテネグロとともにオスマン帝国と戦争を引き起こした。(第1次バルカン戦争)
 
この戦争で得た領土をセルビアとブルガリアが争う(第2次バルカン戦争)と敗れたブルガリアはドイツ、オーストリアに接近し、手を結ぶ。汎スラブ主義のロシアとオーストリアとの対立が激化、バルカン半島に資本投下するドイツ、フランスも利害関係が浮き彫りになった。
 
 
Emperor Francis Joseph.jpg
フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)
 
ヴィルヘルム2世にとっての何よりの味方はオーストリアの老帝フランツ・ヨーゼフ1世だった。オーストリアは名門・ハプスブルグ家として長らく全ドイツを代表する神聖ローマ帝国の本拠であった。40年前に大ドイツ主義と小ドイツ主義に別れてドイツ統一を争った相手である。皮肉にもビスマルク時代にドイツより除外されたそのオーストリアが今は唯一の頼みの綱となっていた。一方、オーストリアにとっても危険なバルカン半島を抱え、ロシアの南下政策にも備えるため統一後強国となったドイツを後ろ盾にするより道はなかった。
 
帝国主義の列強各国はお互いの対立を経済、民族、宗教、領土問題が複雑に交差するバルカン半島での対立に置き換え、神経を尖らせていた。バルカンでの暴発は一触即発の状態のまま誰も制御出来なかった。

 
 
~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は雷
***   *** 活動、発進
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********
 
「雷天大壮」の卦。大壮とは陽気が盛んであること。剛強にして盛大なる陽気に満ち満ちている。若さとエネルギーにあふれ、覇気満々であることは頼もしい限りではある。しかし力を頼んで突き進むのは良いが、行き過ぎには注意する必要がある。とかく過ちは絶頂の時に起こる。思慮に欠けることはないか、見識のある人の意見を聞くことが大切である。
 
ドイツの前皇帝・ヴィルヘルム1世はビスマルクに対して「余の代わりはいても、お前に代わるものはいない。」と言って、度々の辞職願いも退けて30年間も信頼し、政治を任せた。ところがヴィルヘルム2世はそんなビスマルクを失脚させ、信頼する部下にも顰蹙を買い、国家のかじ取りをするものが居なくなる。これでは複雑な国際情勢に対処出来る筈がない。万能の君主は存在せず、独裁には限界があるということだ。
 
イギリス、フランス、アメリカ、先進国では議会が政治の中心である。ドイツのヴィルヘルム2世もオーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世も帝政時代の最後の皇帝となる。ロシアのニコライ2世もまた最後の皇帝だった。皇帝の時代は終わった。外交は外交のプロ、経済は経済のプロが最善を尽くし、全体の政治は政治のプロが最善を尽くす。人格もあり、能力もあるスペシャリストたちがフルに力を発揮して国家運営に当たってもらいたい。
 
 

孫文の夢、東洋の王道

2016-09-11 | 20世紀からの世界史
孫文(1866~1925)
 
1905年の日露戦争で島国・日本が強国ロシアを破ったニュースは世界中を興奮させた。分けても列強の支配下にある民族たちの熱狂は想像に難くない。その時、ヨーロッパの華僑からの資金集めに孫文はスエズ運河にいた。孫文を日本人と思った現地のエジプト人たちが「お前の国は偉大だ!」と言って握手を求めてきた。孫文は誓った。「日本人に出来たことが我らに出来ないことはない。必ず革命をやり遂げるんだ。」
 
華僑とは満州人の清国が出来た時に職を追われ、外国に生活の場を求めた漢民族であり勤勉に働く商人や知識人が多かった。華僑の一族・孫文は清国山東省生まれだが兄を頼りハワイ・ホノルルの学校に学んだ。その後香港で医学を学び医師としてポルトガルの植民地マカオで開業する。しかし祖国の窮状を見るに忍びず革命家になる決心を固めた。
 
 
中国同盟会。孫文(前列右)宮崎滔天(後列中央)
 
27歳、ハワイで興中会を立ち上げ、日清戦争後の広州にて武装蜂起を企てるがあえなく失敗、日本に亡命する。日本人は欧米志向だったが、その中にも維新の志士たちの流れをくむ男子はいた。宮崎滔天(とうてん)や頭山満と知り合い、さらに犬養毅の知遇を得た。物心両面での支援を得て、再び革命活動に向かう。
 
1900年の義和団事件で清朝が敗北すると、清の威信は失墜する。日本への留学熱が高まり、数万人が留学してきた。東京でも興中会、光復会、華興会の革命団体が出来たが、1905年に宮崎滔天らの援助でこれらを糾合して孫文を中心に「中国同盟会」が結成した。蒋介石など優秀な若者たちが集まる。清国各地にも革命団体が結成され、武装蜂起が続いた。
 
 
柳原白蓮(1885~1967)
 
 
余談ながら、大正の3大美人と言われ、「白蓮事件」を起こした柳原白蓮の結婚相手で東大生の宮崎龍介は滔天の長男である。滔天は事件を新聞で知り、「お前、こんなことして、いいのか~」と驚いて言った。駆け落ちした白蓮については同情を寄せ、家族の一員として暖かく迎え入れた。しかし、借金を残して死んだ滔天は経済的には力になれなかった。
 
 
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袁世凱(1859~1916)
 
清朝では西太后も光緒帝も亡くなり、幼帝・宣統帝が即位していたが、宣統帝の父が摂政だった。父は光緒帝の弟であり、戊戌変法の時、光緒帝を裏切った袁世凱を許せず失脚させていた。1911年、武昌にて蜂起した革命軍は瞬く間に発展し、清朝軍と対峙するまでになる。あわては清朝政府は北洋軍の実力者・袁世凱を内閣総理大臣に任命し、革命軍に当たらせる。
 
一方、革命勢力側は南京を首都として臨時政府を設立、臨時大総統選挙を実施することになった。フランスにいた孫文の帰国を待ち、選挙が行われると、孫文の大総統が決まった。1912年1月1日、孫文は中華民国初代臨時大総統に就任する。
 
 
宋教仁(1882~1913)
 
孫文の最大の課題は未だ巨大な存在の清朝をいかにして整理するかである。孫文は袁世凱の野心を逆手にとり、「宣統帝を無事に退位させたら自分は辞職するから貴方を大総統にする。」との声明を発表した。帝王になりたい野心家・袁世凱はその提案を受け入れ、清朝宮廷に対し優待条件を示し、皇帝退位を実現させた。約3000年続いた帝政が終焉する。
 
わずか一月で政権交代、袁世凱が第2代臨時大総統に就任した。袁世凱は最高権力者として首都を北京に遷都、積極的に列強とモンゴルやチベットの主権交渉を行った。しかし余りに強権的であり、翌年の国会選挙では国民党党首の宋教仁がに敗北する。ところが宋教仁が内閣組閣準備中、袁世凱により暗殺された。混乱の中、袁世凱は孫文らの反対派を鎮圧し、自らを皇帝とする中華帝国を名乗り独裁を続ける。
 
 
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宗慶齢(1893~1981)
 
孫文は袁世凱に追われ再び日本に亡命した。日本には支援者も多く、初代大総統として各地で講演、支援を訴えた。「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である。」と語り、日本の協力を求め続けた。しかし孫文を支援した仲間は一部で日本政府は袁世凱から利権を取り付けることばかりに熱中し孫文の声には耳を貸さなかった。日本への亡命中、孫文は支援者の一人で事業家・梅屋庄吉(1869~1934)の自宅にて宗慶齢との結婚式を挙げた。その後に起こる第一次世界大戦中に袁世凱は病死した。
 
第一次世界大戦では日本からの中国の山東省などを要求する「21カ条要求」があり、反日運動が起るが孫文は日本との関係を重視し続けた。1919年、再び独立運動が盛んになると「中国国民党」を復活、コミンテルンとも手を結び悲願の統一を目指した。1924年11月、神戸で行われた講演で日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか?」と問い、帝国主義の憲兵役に励み続ける日本に警告を発し、日中の友好を訴えた。1925年3月、「革命、未だ成らず、同志須く努力すべし」と遺言し北京にて客死した。孫文の身体はガンに侵されていた。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は地
***   *** 陰、弱、暗
***   ***
***   *** 下卦は雷
***   *** 活動、新芽、志
********
 
「地雷復」の卦。復は復活、復興。陰の気に覆われた世界に陽の気が萌し始める象である。復は冬至であり、寒い冬の頂点であり、春の萌しでもある。地中では新芽が用意されているが、未だ地上に出るには早い。あわてて芽を出そうとすれば、晩霜に遭ってしまう。あせらず、ゆっくりと大計を立てる時である。こんな時代の友は一生の友となる。
 
孫文の唱えた「大アジア主義」は明治の始めに、日、清、朝の「三国同盟」を唱えた西郷隆盛を彷彿とさせる。ともに日本の「脱亜入欧」「西洋一辺倒」を激しく批判した。二人とも時代に受け入れられず、志を遂げることなく横死したことが残念である。その後の日本と中国を考えて見たい。時代に乗ることも大切かも知れないが、時代に流されず、大切なものを守り抜くことも考えねばいけないだろう。
 
中国では今でも孫文は「中国革命の父」として尊敬されている。支援を惜しまなかった日本の友人・宮崎滔天は「井戸を掘ってくれた人」として記念日には遺族が招待される。昭和31年には孫文誕生90周年の祝典として龍介、白蓮夫妻が国賓として招待され、毛沢東、周恩来と共に臨席した。現在も中国大使館に新たに着任した大使は遺族の自宅を訪問するという。東シナ海、南シナ海問題とは別の処で、日中の交流もあるということを知っておきたい。

歴史と易の勉強をしませんか

2016-09-07 | 安岡学研究会
安岡正篤先生(1898~1983)

いつも「さわやか易」をご覧頂き、有り難うございます。
さて、私は毎月第一土曜日に開かれる「安岡学研究会」に参加しております。もう30年目に入りました。この会は安岡正篤先生の著書を素読、研習し、その教学の本質を学ぶことを目的にしております。

前半は安岡先生の語録集素読の後に、市川浩先生による「日本書紀」の講義があります。後半に易経の勉強をしておりますが、11月より「名画に学ぶ世界近代史」をテキストとして私が講師を務めることが決まりました。

このテキストは私のブログ「名画に学ぶ世界史」をもとにテキスト用に修正を加えたものです。誰にでも解り易く、歴史と易をお話ししたいと計画しております。

ただいま新規の会員を募集しております。東京近郊にお住いで興味のある方がおられましたら、一緒に勉強しませんか。

会場は江戸幕府の学問所・昌平黌の佇まいが残る湯島聖堂・斯文会館です。都会の中にしんと落ち着いた緑の空間が魅力です。

教室の側には孔子廟があります。

アクセスマップ:史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会

安岡学研究会
開催日:毎月第1土曜日12:30より16:30
会費:月3000円。但し後半の「歴史と易」だけの方は2000円です。
ご希望の方は世話人の田辺さんにご連絡ください。携帯電話:080-3010-7200です。
「様子が解らないので、一度見学させて頂けますか?」と言うと、優しい田辺さんは「どうぞ」と言ってくれます。初回分がタダになります。

日露戦争から激動の20世紀が始まる

2016-09-07 | 20世紀からの世界史
ニコライ2世(1868~1918)
 
ロシアは露土戦争に勝利し、念願の地中海への不凍港建設を目前にしながらも、ベルリン会議により阻止された。そこでロシアはフランスの資金援助を受けてシベリア鉄道を建設していた。不凍港を中国遼東半島に築くためである。ところがそこに日本という邪魔者が入ってきた。1895年に起きた日清戦争の結果、遼東半島は日本への割譲が決まる。
 
早速、フランス、ドイツと組んでその条約を破棄させ、賠償金を2倍にさせた(三国干渉)。目的は財政難の清国に借款させ見返りに遼東半島の旅順・大連を租借、まんまと絶好の不凍港を手に入れた。後は満州を縦断する東清鉄道を完成させるだけだ。
 
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高宗(1852~1919)
 
朝鮮は日清戦争の結果、清国からの冊封体制から離脱し大韓帝国として独立していた。しかし政治を知らない高宗がロシアの高官に懐柔され、鉱山採掘権や森林伐採権を売り渡す体たらくで日本政府が慌てて買い戻したりしていた。
 
そんな時に起こったのが義和団事件だった。出兵したロシア軍は事件解決後もまるで植民地にしたかのように満州に居座り着々と鉄道建設を進めていた。フランスとドイツはロシアが東に向かうことには賛成だったが、清国での権益を守りたいイギリスとこれから権益を得ようとするアメリカはロシアの南下政策には反対だった。イギリスは義和団事件での規律正しい日本軍を信頼し、1902年に「日英同盟」を結んだ。
 
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桂太郎(1852~1919)
 
ロシア進出の危機に日本政府内では外相・小林寿太郎、首相・桂太郎、参謀総長・山懸有朋らの主戦論派と元首相・伊藤博文、元大蔵大臣・井上馨らの戦争回避派との間で論争が続いていた。ロシアでは財務大臣のセルゲイ・ヴィッテが反対したが、ニコライ2世を始め主戦論が大半だった。強国ロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もない。
 
朝鮮半島だけでも守りたい日本は満州についてはロシアの管轄とし、朝鮮は日本の管轄としようと提案した。しかし朝鮮半島も支配下にしたいロシアは無視する。1904年2月、ついに日露は国交を断絶、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して日本海軍駆逐艦は奇襲攻撃を行い開戦した。
 
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高橋是清(1854~1936)
 
戦争は始まった。ところが戦争には膨大な物資が必要であり、巨額の戦費がかかる。頼りの綱は日英同盟である。桂首相の要請で外貨調達のため、イギリスに向かったのは日銀副総裁の高橋是清だった。日英同盟があるからと言って英国政府が資金提供する訳ではない。外国公債を投資家に買ってもらうのだ。ところが世界中の投資家は日本の敗北を予想して全く手を出そうともしない。高橋は困った。
 
「日本は過去の外債発行で一度も利払いを遅延したことはない。」「そもそもこの戦争は英露の代理戦争である。」「日本は万世一系の皇室の下、国民は最後の一人まで闘う覚悟なのだ。」高橋は投資家への説得に毎日歩いた。そのかいもあり半分の500万ポンドの外債が売れた。そこにアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフが現れ、ユダヤ人を迫害するロシアと戦う日本に投資しようと、残りの500万ポンドを引き受けてくれた。
 
Admiral Togo on the bridge of Mikasa
旗艦・三笠で指揮を執る東郷平八郎
 
戦闘は激しく両軍とも死力を尽くした激戦だった。ステッセル将軍が守る旅順要塞は堅牢であり、日本軍の戦死者を増やすばかりだった。司令官は乃木希典大将だったが自分の息子2人も戦死し壮絶を極めた。ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦でも日本軍の猛攻にクロパトキン大将は撤退を指示した。しかし日本軍の消耗激しく弾薬も底をついた。
 
ロシア軍は戦局不利と見て海戦で勝負を付けるためバルト海を守るバルチック艦隊に賭ける。7か月かけて日本海に到着したバルチック艦隊だったが、1905年5月27日、雌雄を決する日本海海戦で艦艇のほとんどを失う壊滅的敗北を喫した。予想もつかない海戦の結果は列強を驚かせ、白人国家の植民地支配に甘んじていたアジア、アフリカ各国の民衆を熱狂させ、各地で独立運動が起るきっかけになった。
 
 
ポーツマス講和会議
 
日露戦争の結果は世界中に影響を及ぼした。ロシアは不凍港を再びバルカン半島に求め、ロシアを中心とする汎スラブ主義とドイツを中心にする汎ゲルマン主義の対立を招き、第1次世界大戦の引き金になる。また、国民生活の窮乏によりロシア革命の動きが始まった。イギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、建艦競争を拡大させる。ドイツのヴィルヘルム2世は「黄禍論」を提唱、日本への警戒感を露わにし、ドイツ軍に「日本軍隊に習え!」と訓示した。
 
アメリカはポーツマス条約の仲介により日米共同で満州の権益・東清鉄道を開発するつもりだったが、思惑が外れ中国権益から締め出される。急激に勢力を拡大しようとする日本に警戒感とともに敵愾心を抱くようになる。清国にとってはもう踏んだり蹴ったりだ。誰も許可した覚えもないのにロシアにより東清鉄道やハルピンなど植民都市まで造られた。自国の領土で他国同士の戦争により国土を荒らされ、戦後はロシア人に替わり日本人が満州にやってきた。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
***   *** 下卦は雷
***   *** 活動、動き出す、志
********
 
「天雷无妄」の卦。无は無、妄は望。无妄(むぼう)とは思いもかけぬことが起きる。晴天の霹靂。天の下にいきなり雷が成る象である。予想もしないことが現実に起る。成功もあれば失敗もある。成功に舞い上がったり、有頂天になってはいけない。失敗に落ち込んだり失望してはいけない。良かれ悪しかれ、しっかりと受け止めることが大切である。
 
列強は日露戦争の結果に驚くとともに、冷静に日本軍の分析を行っている。イギリスでは日本人のバックボーンには「教育勅語」があるとして、ケンブリッジ大学で学び文部大臣を務めた菊地大麓(だいろく)博士に講演を依頼している。アメリカではルーズベルト大統領が日本人の精神には武士道があるとして、新渡戸稲造の「武士道」を陸海軍の教科書にしたという。明治時代にはあった日本精神。大正、昭和、平成、今はどうだろうか。
 
黄色人種であり、アジアの島国である日本がこの戦争後、一躍世界の檜舞台に立つことになった。本当にその実力があったのだろうか。経済的には歳入2、6億円の日本が外債13億円の借金を背負った。ロシアから賠償金は一銭も取れなかったので、全て国民の税金から払い続けることになった。時代は帝国主義時代、戦争に勝っただけでは大国にはなれない。