宮殿を後にするオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世(1922年)
第1次世界大戦は帝国主義の列強同士の覇権争いだったが、戦争の結果はより複雑な混乱を招いた。ドイツ中心の同盟国側もイギリス中心の連合国側も勝つためには無責任な手段を選ばない外交を展開したからである。
中でもヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島を、蜂の巣をつついたような混乱に陥れたこと。そしてオスマン帝国を崩壊に追いやったことによりアラビア半島に深刻な禍根を残すことになった。今回は現在のシリア問題、イラク問題、パレスチナ問題はどうして始まったかを考えて見たい。
フサイン(1853~1931)
1915年、大戦中イギリスはオスマン帝国に打撃を与えるため、かねてよりオスマン帝国からの独立を願っていたアラブの太守であるフサイン・イブン・アリーに対しイギリスの高等弁務官マクマホンはオスマン帝国に兵を挙げることを条件にアラブの独立を支持すると約束した。(フサイン・マクマホン協定)
ところが、アラブ人が蜂起する直前の1916年5月にイギリスの中東専門家・サイクスはフランスの外交官・ピコ、ロシアの外相との間で大戦後のオスマン帝国を分割する秘密協定を結んでいる。(サイクス・ピコ協定)
さらに戦争が混乱を極めた1917年にはユダヤ人から戦費を調達する目的でユダヤ人大財閥のロスチャイルドに対してイギリスの外務大臣バルフォアはパレスチナでのユダヤ人居住地建設を約束している。(バルフォア宣言)イギリスの「三枚舌外交」と言われる。
アラビアのロレンス(1888~1935)
この三枚舌外交は100年後の今も絶えず紛争地帯となっているが、この秘密外交を知らずにアラブ人独立のため命をかけた軍人が映画「アラビアのロレンス」で名高いトーマス・エドワード・ロレンスである。陸軍中尉・ロレンスは語学力を買われアラブの王族ハーシム家フセインの三男ファイサルと手を結びオスマン帝国軍に共闘を持ち掛け、蜂起させることになった。
ロレンスとファイサルはゲリラ部隊を結成し、強大なオスマン帝国軍と戦うことになる。スエズ運河を守るイギリス軍を助けるため、ドイツが建設したアラビア半島を縦走するヒジャーズ鉄道を破壊することにした。作戦は成功し、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けされ、イギリス軍のパレスチナ進軍が可能となる。
続いてロレンスらはオスマン帝国軍の重要拠点であるアカバを奇襲、陥落させた。この成功によりロレンスは一躍少佐に昇進する。しかし連合国から離脱したロシアによってサイクス・ピコ協定が暴露された。協定によりアラブをフランスと分割したいイギリス陸軍にとってロレンスは邪魔になる。アラビア半島に大アラブ王国を構想する族長ファイサルはイギリスの裏切りを知り、ロレンスを罵倒する。生死を賭して戦い心底アラブを愛したロレンスはイギリス陸軍とアラブ人にも見捨てられ、失意のままアラブを去っていく。
大戦後、オスマン帝国の領土だった北アラビア半島はイラク地方をイギリス、シリア地方をフランスに分割された。アラブは他民族がそれぞれの民族を単位に集団となっている地域である。英仏の分割は民族、宗教を無視した人工的線引きであり、長く禍根を残すことになる。過激化組織アルカイーダやISはサイクス・ピコ協定を全面否定し、イスラム国家を再生しようとするものである。
1991年10月マドリードで中東和平会議開催
パルフォア宣言でユダヤ人へ「民族の故郷」建設を約束したイギリスは、パレスチナでのイスラエル建国の話には「国家建設」を約束した訳ではないと言い逃れをしている。手段を選ばぬ狡猾な外交が露見した。その後、ナチス・ドイツに追われ、人口が急増したユダヤ人とアラブ人との間には解決のつかないパレスチナ問題となって現在に至る。
袁世凱(1859~1916)
一方、東アジアでも後に大きな禍根を残す問題が発生していた。日英同盟によりドイツに参戦した日本軍は青島を攻略した後、山東半島全体のドイツ権益を占領した。辛亥革命後に孫文より大総統の座を譲り受けた袁世凱政府に日本政府は山東省のドイツ権益を譲り受けた他に東北、内モンゴルに日本の権益を求める「対華21カ条」を要求していた。
その中に「中国政府の顧問として日本人を雇用すること。」という項目があったが、袁世凱はイギリス、アメリカに「これでは日本の支配下になるようなものだ。」と訴える。中国に権益を持ちたいアメリカのウィルソン大統領は中国に同調、「まるで、火事場泥棒のような要求だ。」と猛反対を唱え、この項目を却下させる。袁世凱は日本の横暴を内外に宣伝し、要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」と呼び反日運動を始めた。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は水
******** 困難、混乱、悩み
*** ***
*** *** 下卦は沢
******** 解放、緩む
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「水沢節」の卦。節は苦節、節度を守るである。個人の健康から国家の経営まで、節度を守ることは重要である。苦しい時に節度を守ることも難しいが、最も難しいのは甘い誘惑を退けることだ。特に千載一遇のチャンスと思われる好機にも節度を守り、落ち着いて行動することは容易ではない。君子は常に節を重んじ、生活の規律を定めるものである。
他民族で争いの絶えないバルカン半島とアラビア半島を4世紀の間統治していたのはオスマン帝国である。オスマン帝国はイスラム教以外も受け入れ、他民族を上手に統治していた。アラブにはアラブ人の生き方、考え方があるのだ。英、仏の統治は一方的で自国の利益だけしか考えず、相手を考えていない。その場しのぎの外交は後に禍根を残す。現在の難民問題も先のことを考えない政策が生んだ結果としか言えない。
辛亥革命を成功させるため、孫文は袁世凱に大総統の座を譲った。その後、袁世凱に追われ日本に亡命していた孫文は日本各地で「西洋の覇道に習わず、東洋の王道を選択せよ。」と訴えた。孫文の切なる願いに耳を傾けた日本人は少数で、戦争に勝利し、味をしめた日本政府は勢いに乗り野心を逞しくした。節度を失い、帝国主義に染まり、列強の仲間入りをしたと勘違いしてしまった。