ヴェルサイユ宮殿旧城
30年戦争に介入して200年越しのライバル・ハプスブルグ家を押さえつけたフランスはスペインから奪い取ったヨーロッパ覇権の座に君臨する。その象徴が広大な敷地に噴水を備えた豪華な庭園、豪華な居室、当代一流の芸術家を集めて築き上げたヴェルサイユ宮殿である。
ルイ14世(1638~1715)
そのヴェルサイユ宮殿を50年の歳月を費やして建設させたのがルイ14世である。父ルイ13世の死により即位したのが4歳の時、以後72年にわたり王座に君臨することになる。23歳までは宰相マゼランが国政を担ったが、マゼランの死後、絶対君主制の親政を始める。「朕は国家なり。」という言葉どおり「王権神授説」を根拠に典型的な専制政治を始めた。
フロンドの乱
ルイ14世が王制により隆盛を築くには困難を解決する必要があった。宰相・マゼランが前宰相のリシュリューの政策を継承し、30年戦争を制する為に重税を課した。その重税に対し貴族勢力と民衆が結合し猛反対したのだ。戦争終結間際の1648年、反乱軍は王宮に侵入、当時10歳のルイ14世とマゼランはパリを退去、避難する事件が起きる。(フロンドとは投石器のことで、民衆がマゼラン邸に投石したことから「フロンドの乱」という。)事件は内乱に発展し、終息するのはルイ14世が15歳の時である。この体験が後に貴族組織への大改革につながった。
コルベール(1619~1683)
政権を掌握したルイ14世は財務長官にコルベールを起用し、租税や関税などの歳入は全て国王に集まる仕組みにするにする。コルベールは富国強兵策をとり、自国の生産物は最大限に輸出、外国からの輸入は最小限にする重商主義により強固な財政基盤を作り上げる。対外政策も積極外交に転じ東インド会社を再建しアジアに進出、新大陸へはカナダにも進出、ミシシッピ川流域にも進出し広大な植民地を獲得、国王の名をとり「ルイジアナ」と命名した。
これではライバル・イギリスは黙っていない。とくにハプスブルグ家が衰退し、スペイン王室にルイ14世の孫を後継者としようとするとフランスの一国支配を許すまじとイギリスはオーストリアと手を結び、反フランス陣営で立ち上がる。フランスは30年戦争でのハプスブルグ家と逆の立場になり全ヨーロッパを敵に回し苦境に落ちてしまう。1701年から12年も続いたスペイン継承戦争の結果、スペインの王位は勝ち取ったものの多くの植民地をイギリスに取られることになった。名は取ったが実はイギリスに取られた。
またルイ14世は「官僚王」とも言われ、起床から就寝まで分刻みにスケジュールが決まっており規則正しく行動した。国王に仕える貴族から家臣、掃除婦に至るまで王の決めた規則に従い気を抜くことは許されない。信仰も自由を認めたナントの勅令を廃止し、カトリック中心に逆戻りさせた。産業の中核を担うプロテスタント信徒の大半は国外に逃れた。一方で進んだ文化と芸術を愛し、学者や芸術家を擁護したのでパリは世界一の芸術の都市となり、優れた芸術家、啓蒙思想家たちが集まった。
王妃マリー・テレーズ(上、左から2番目)と主な愛人たち
太陽王に相応しくそのエネルギーは多くの愛人たちに次々子を産ませたことでも群を抜いている。スペインの王女だった王妃マリー・テレーズは3男3女(嫡男ルイ以外は夭折)を産んだ。中でも王妃の侍女を務めていた妖艶な美女モンテスパン公爵夫人(上右)は王の寵愛を受け8人の子を生み、王妃をしのぐ権勢を誇ったが、10年後、王の寵愛が他に移るとその愛人への毒殺事件まで謀ったという。
モンテスパン侯爵夫人(右上)のために造営された『磁器のトリアノン』
ヴェルサイユ宮殿付属庭園内の離宮
王妃マリーはモンテスバン夫人を嫌ったが、他の愛人たちには嫉妬することもなく、病気の時には見舞いにも行ったという。その王妃マリーが亡くなった時に王は始めて王妃のために涙を流した。王妃マリーが世を去った46歳頃からは3歳年上のマントノン公爵夫人(下)と秘密結婚をし、以後女性遍歴を卒業した。マントノン夫人は美人ではなかったが、教養ある控えめな女性で、生涯側で王を見守り、77歳の最後を看取ったのもマントノン夫人だった。
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は火
*** *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********
「火天大有」の卦。大有とは陽なるものが溢れている象である。豊作、裕福、太陽が隅々まで強い光と熱を供給している。大スターが大舞台で演技し観客の喝采を浴びている。順風満帆、すべてが自分の味方で積極的に行動する時である。ただ、盛運にはどこかにつまずきの要因が生まれている。
ルイ14世のような極端に生命力にあふれる人物は周囲の生命力を吸収してしまうのだろう。嫡男ルイも孫のルイもルイ14世の生前に亡くなっている。ルイ15世になったのは5歳の曾孫だった。ルイ14世は死の床に幼い太子を呼び、「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない。」と訓戒したという。しかしルイ15世時代も戦争は繰り返され、その60年後にはフランス財政は破綻寸前になっていた。結局、1789年のフランス革命に結びつくことになる。
絶対君主制は16世紀後半のスペイン、イングランド、17世紀のフランス、スウェーデンが典型であるが現在のアラブ諸国でも行われている。また共産主義でもトップを中心とするピラミット構造は絶対君主制と同様、トップの独裁政治になってしまう。戦争などでは強力な力を発揮するが、決して長続きはしない。民衆はいつ迄も我慢はしない。いつか民衆のエネルギーが爆発するときが来る。