さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

太陽王・ルイ14世

2015-05-25 | 名画に学ぶ世界史
ヴェルサイユ宮殿旧城

30年戦争に介入して200年越しのライバル・ハプスブルグ家を押さえつけたフランスはスペインから奪い取ったヨーロッパ覇権の座に君臨する。その象徴が広大な敷地に噴水を備えた豪華な庭園、豪華な居室、当代一流の芸術家を集めて築き上げたヴェルサイユ宮殿である。

イメージ 1
 
ルイ14世(1638~1715)

そのヴェルサイユ宮殿を50年の歳月を費やして建設させたのがルイ14世である。父ルイ13世の死により即位したのが4歳の時、以後72年にわたり王座に君臨することになる。23歳までは宰相マゼランが国政を担ったが、マゼランの死後、絶対君主制の親政を始める。「朕は国家なり。」という言葉どおり「王権神授説」を根拠に典型的な専制政治を始めた。


イメージ 3
フロンドの乱
 
ルイ14世が王制により隆盛を築くには困難を解決する必要があった。宰相・マゼランが前宰相のリシュリューの政策を継承し、30年戦争を制する為に重税を課した。その重税に対し貴族勢力と民衆が結合し猛反対したのだ。戦争終結間際の1648年、反乱軍は王宮に侵入、当時10歳のルイ14世とマゼランはパリを退去、避難する事件が起きる。(フロンドとは投石器のことで、民衆がマゼラン邸に投石したことから「フロンドの乱」という。)事件は内乱に発展し、終息するのはルイ14世が15歳の時である。この体験が後に貴族組織への大改革につながった。
 
イメージ 4
 
コルベール(1619~1683)
 
政権を掌握したルイ14世は財務長官にコルベールを起用し、租税や関税などの歳入は全て国王に集まる仕組みにするにする。コルベールは富国強兵策をとり、自国の生産物は最大限に輸出、外国からの輸入は最小限にする重商主義により強固な財政基盤を作り上げる。対外政策も積極外交に転じ東インド会社を再建しアジアに進出、新大陸へはカナダにも進出、ミシシッピ川流域にも進出し広大な植民地を獲得、国王の名をとり「ルイジアナ」と命名した。
 
これではライバル・イギリスは黙っていない。とくにハプスブルグ家が衰退し、スペイン王室にルイ14世の孫を後継者としようとするとフランスの一国支配を許すまじとイギリスはオーストリアと手を結び、反フランス陣営で立ち上がる。フランスは30年戦争でのハプスブルグ家と逆の立場になり全ヨーロッパを敵に回し苦境に落ちてしまう。1701年から12年も続いたスペイン継承戦争の結果、スペインの王位は勝ち取ったものの多くの植民地をイギリスに取られることになった。名は取ったが実はイギリスに取られた。
 
またルイ14世は「官僚王」とも言われ、起床から就寝まで分刻みにスケジュールが決まっており規則正しく行動した。国王に仕える貴族から家臣、掃除婦に至るまで王の決めた規則に従い気を抜くことは許されない。信仰も自由を認めたナントの勅令を廃止し、カトリック中心に逆戻りさせた。産業の中核を担うプロテスタント信徒の大半は国外に逃れた。一方で進んだ文化と芸術を愛し、学者や芸術家を擁護したのでパリは世界一の芸術の都市となり、優れた芸術家、啓蒙思想家たちが集まった。
 
 
イメージ 10イメージ 8イメージ 6イメージ 5イメージ 11イメージ 9
イメージ 7
 
 
王妃マリー・テレーズ(上、左から2番目)と主な愛人たち
 
太陽王に相応しくそのエネルギーは多くの愛人たちに次々子を産ませたことでも群を抜いている。スペインの王女だった王妃マリー・テレーズは3男3女(嫡男ルイ以外は夭折)を産んだ。中でも王妃の侍女を務めていた妖艶な美女モンテスパン公爵夫人(上右)は王の寵愛を受け8人の子を生み、王妃をしのぐ権勢を誇ったが、10年後、王の寵愛が他に移るとその愛人への毒殺事件まで謀ったという。
 
 
イメージ 12
 
モンテスパン侯爵夫人(右上)のために造営された『磁器のトリアノン』
ヴェルサイユ宮殿付属庭園内の離宮


王妃マリーはモンテスバン夫人を嫌ったが、他の愛人たちには嫉妬することもなく、病気の時には見舞いにも行ったという。その王妃マリーが亡くなった時に王は始めて王妃のために涙を流した。王妃マリーが世を去った46歳頃からは3歳年上のマントノン公爵夫人(下)と秘密結婚をし、以後女性遍歴を卒業した。マントノン夫人は美人ではなかったが、教養ある控えめな女性で、生涯側で王を見守り、77歳の最後を看取ったのもマントノン夫人だった。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は火
***  *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********
 
「火天大有」の卦。大有とは陽なるものが溢れている象である。豊作、裕福、太陽が隅々まで強い光と熱を供給している。大スターが大舞台で演技し観客の喝采を浴びている。順風満帆、すべてが自分の味方で積極的に行動する時である。ただ、盛運にはどこかにつまずきの要因が生まれている。
 
ルイ14世のような極端に生命力にあふれる人物は周囲の生命力を吸収してしまうのだろう。嫡男ルイも孫のルイもルイ14世の生前に亡くなっている。ルイ15世になったのは5歳の曾孫だった。ルイ14世は死の床に幼い太子を呼び、「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない。」と訓戒したという。しかしルイ15世時代も戦争は繰り返され、その60年後にはフランス財政は破綻寸前になっていた。結局、1789年のフランス革命に結びつくことになる。
 
絶対君主制は16世紀後半のスペイン、イングランド、17世紀のフランス、スウェーデンが典型であるが現在のアラブ諸国でも行われている。また共産主義でもトップを中心とするピラミット構造は絶対君主制と同様、トップの独裁政治になってしまう。戦争などでは強力な力を発揮するが、決して長続きはしない。民衆はいつ迄も我慢はしない。いつか民衆のエネルギーが爆発するときが来る。
 

三十年戦争の結果

2015-05-13 | 名画に学ぶ世界史
 
フェルディナンド2世(1578~1637)

イングランドのエリザベス1世からピューリタン革命が起る頃、ヨーロッパ本土も新旧の宗教対立がピークに達していた。カトリックの本山は神聖ローマ帝国皇帝を任命されているハプスブルグ家そして親族関係にあるスペインである。しかしハプスブルグ家のあるドイツ一帯は一方でルターの宗教改革の発祥した地であり、プロテスタントを信仰する諸侯も数多くあり両派は均衡し一枚岩ではなかった。またデンマークやスウェーデンの北欧諸国は熱心なプロテスタントの勢力圏だった。


 
イメージ 2
プラハ窓外投擲事件

1618年に融和策を執っていたボヘミア国王がハプスブルグ家のフェルディナンド2世に代わり新教への弾圧を始めると、プロテスタントによる反乱が起きる。プラハ王宮を襲い国王顧問官たち3人を王宮の窓から20M下へ突き落すという事件を起こした。反乱軍はプロテスタント諸侯に協力を呼び掛け、国王をプロテスタントの中心である選帝侯・フリードヒ5世を新国王に迎えた。これが30年戦争のきっかけとなる。フェルディナンド2世はすぐさまスペイン軍に協力を頼み、フリードヒ5世を追放し、ボヘミヤをハプスブルグ家の属領とした。

イメージ 3
 
ヴァレンシュタイン(1583~1634)
 
カトリックのボヘミア支配はプロテンスタント諸国に火をつけた。1625年、フェルディナンド2世に反感を抱くデンマーク王クルスチャン4世がイングランドの支援を得て参戦してきた。デンマーク軍の猛攻により一時は窮地に陥っていたフェルディナンド2世だがボヘミアの傭兵隊長・ヴァレンシュタインの目覚ましい活躍によりデンマーク軍を追い返した。ところがこの傭兵隊長がしたたか男で戦勝の度に土地と位を要求した。他の諸侯からも「あの下品な成り上がり者を罷免しないなら協力出来ない。」と言われフェルディナンド2世は已む無くヴァレンシュタインを罷免した。
 
 
 
 
イメージ 4
 
グスタフ2世アドルフ(1594~1632)
 
  
1630年、今度はフランスの援助を受けたスウェーデン王・グスタフ2世アドルフがプロテスタント教徒解放を旗印に参戦してきた。グスタフ2世は後年ナポレオンも認める英雄であり、戦略家であった。スウェーデン軍はレヒ川の戦いに圧勝する。皇帝軍総司令官で数々の戦功あるティリー伯は戦死した。向かう所敵なしのスウェーデン軍の快進撃にフェルナンド2世は大いに狼狽えた。そこで罷免したヴァレンシュタインを呼び寄せる。したたか男のヴァレンシュタインは皇帝の弱みに付け込み「軍の全権、和平交渉と条約締結権、選帝侯領の割譲」という途方もない条件を突きつけ了承させた。
 

イメージ 5
リッツェンの戦い

1632年11月、ヴァレンシュタインの率いる2万6千の皇帝軍とグスタフ2世の率いる1万6千のスウェーデン軍はライプツィヒ郊外のリュッツェンで戦闘を開始した。評判の悪いヴァレンシュタインに部隊が従わなかったのか、手足のような自分の傭兵とは違い大軍の皇帝軍は命令が伝わらなかったのか、戦局は終始スウェーデン軍が有利だった。ところがグスタフ2世が不覚にも戦死してしまう。スウェーデンの宰相オクセンシュルナの指導で戦争を継続しスウェーデン軍が勝利する。
 
グスタフ2世が戦死したことを知ったフェルディナンド2世は刺客を送りヴァレンシュタインを暗殺する。諸侯を統率する上で邪魔になったからだ。嫡男のフェルディナンドを総司令官に任命するとネルトリンゲンの戦いに勝利しスウェーデン軍を撃破、戦争の主導権を取り戻した。ここでフェルディナンド2世は戦争終結に動いた。

イメージ 6

スウェーデン宰相・オクセンシェルナ

 
ところが亡きグスタフ2世の遺志を継ぐ宰相オクセンシェルナは諦めなかった。カトリック国ながらハプスブルグ家の最大のライバルであるフランスを参戦させることに成功する。ここから戦争はより複雑にヨーロッパ全体を巻き込む大戦争に発展していく。フランスは国内の宗教戦争である「ラ・ロシェルの包囲戦」でユグノー勢力を封じ込め、国内統一を終えその勢いをかって本格的にハプスブルグ家との対決に乗り出してきた。フランス軍はスペイン軍とスウェーデン軍は皇帝軍と一進一退を繰り返す中、フェルディナンド2世は死去、嫡男がフェルディナンド3世として即位。戦争は泥沼化し1635年から1648年まで続く。

 
イメージ 7

フランス宰相・リシュリュー

 皇帝軍の頼みの綱であるスペイン軍はオランダとポルトガルとの独立戦争もあり次第に翳りが見えてくる。長引く戦争に皇帝軍は厭戦気分が蔓延、スウェーデン軍の攻勢を許す。1642年、ルイ13世の宰相としてフランスを強国に育てたリシュリューが、1643年にはそのルイ13世も死去した。即位したルイ14世は幼児だったが、新宰相・マゼランが引き継ぎ1644年のフライブルグの戦いで勝利を確実なものにした。ただフランスの念願だった「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心は放棄することになった。

フェルディナンド3世(1608~1657)

一方のスウェーデン軍は1645年、プラハ近郊のヤンカウの戦いで勝利を確実なものにした。そのとき27年前に逃げ出した選帝侯フリードヒ5世とまったく同じように皇帝フェルディナンド3世が同じプラハ王宮から逃げ出す姿があった。なおも戦争は続いたが1648年11月、皇帝側が敗北するかたちで終戦を迎えることになる。講和条約である「ウェストフェリア条約」により宗教上の理由で戦争はしないという新たな国際法が成立した。戦争終結を祝し、70門の大砲による一斉射撃が行われた。

断続的に30年間も続いたこの戦争により、神聖ローマ皇帝は実態のない名ばかりのものになった。ハプスブルグ家はドイツ王からオーストリア公国となる。覇権国だったスペインはその地位をフランスに渡すことになる。フランスは新たなライバル、イングランドと覇権を争うこととなる。スウェーデンはライバル・デンマークを抑えて北欧の中心になる。戦地となったドイツ国土は戦禍と飢えに荒廃した上、ペストの流行も重なり人口は1700万人から800万人になってしまった。最大権威だったハプスブルグ家が求心力を失い新たにドイツの中心となるプロイセン公国が誕生することになる。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は山
***  *** 動かざるもの
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、影、弱
***  ***

「山地剥」の卦。剥は剥ぎ取られる。一陽が下から侵され崩壊寸前の象である。高くそびえていた山のように社会の頂点に君臨していた勢力も時が来て衰退していく。衰運の極みではあるが君子は自暴自棄にはならない。じっと冬の時代を耐えることを知って居る。新たな時代は必ず来るものである。

ハプスブルグ家ほどヨーロッパの名門貴族として華やかな活躍をした例は他にないだろう。「ハプスブルグ家の物語(1)」に登場したルドルフ1世をスイスの田舎に迎えに行ったのが選帝侯のフリードリッヒ伯だったが、そのフリードリッヒ伯の子孫がやがてプロイセン公国を建てることになる。400年の年月経つのだが、歴史とは不思議な縁があるものだと思わざるを得ない。

「ハプスブルグ家の物語(3)」に述べたが、悲願のキリスト教国統一まで後一歩及ばず力尽きたカール5世の最大のライバルだったのがフランス王のフランソワ1世だった。フランソワ1世はライバル対決のためにはキリスト教国ながらイスラム教国のオスマントルコとも手を組んだ。フランスの執念はその後も受け継がれ、100年の後のライバル対決にはカトリック教国ながらプロテスタント勢力とも手を組んだ。昔も今もライバル対決とはかくも仁義なき戦い、凄まじいもの。現代では米ソのライバル対決の後は米中のライバル対決になるのだろうか。