フルシチョフ(1894~1971)
冷戦時代をアメリカと対峙した一方の雄・ソ連について述べてみたい。1920年代から第二次世界大戦を通じて約30年にわたりソ連を支配し続けたスターリンは1953年に死んだ。大粛清で知られる恐怖政治からソ連国民はようやく解放された。後継者になったのは貧民から身を起した陽気で野人的なフルシチョフだった。フルシチョフはスターリン批判を行い、西側陣営とも友好を図り対立から雪解けを目指した。
1959年、ソ連の指導者として初めてアメリカを公式訪問し、アイゼンハワー大統領と有効的関係を築く。その後、モスクワで開かれた博覧会に招かれたニクソン副大統領はアメリカ製の電化製品およびキッチンを前にしてアメリカの豊かさを語り、暗にソ連の国民生活の窮乏と対比させた。するとフルシチョフはソ連の宇宙開発と軍事分野での成功をまくし立てた。「キッチン討論」として資本主義と共産主義の長所短所を浮き彫りにさせた。
ガガーリン(1934~1968)
1957年、ソ連は人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ、1961年にはガガーリン大佐を乗せた有人宇宙飛行「ボストーク1号」にも成功し宇宙開発分野でアメリカを大きくリードした。盛り上がった国民にフルシチョフは生活の上でもアメリカに追いつき追い越そうと壮大な「七か年計画」をぶち上げた。機構改革や大規模な原野開拓、食肉増産計画が実施された。フルシチョフの政策は国民の多数に支持され、ソ連社会は活力を増した。
しかし支配体制の根幹は変わらなかった。その上、スターリン批判を契機に中国との関係が悪化、「中ソ論争」が始まる。アメリカに冷たくされたキューバが陣営に入り、ミサイル搬入を巡ってキューバ危機が起った。国内では農業政策が惨めな失敗となり、1964年フルシチョフは突然失脚させられた。フルシチョフに代わって登場した官僚肌のブレジネフは批判的な知識人を締め付ける「法治主義」を行う。チェコ事件を始め衛星国に噴出した民主化を武力で抑え込み、ひたすら現状維持をはかるばかりになった。
毛沢東(1893~1976)
社会主義のもう一つの大国・中国では朝鮮戦争で多大の犠牲を払わされたが帝国建設に汗を流していた。レーニンがロシアを「文明がない」と言ったが毛沢東は6億の民の現状を「一窮二白」(一に貧しく、二に知識がない)と言った。毛沢東は中国化されたマルクス主義「毛沢東思想」により、農民の集団化に取り組む。工業、商業、文化、教育、軍事を統合した地方行政を五千戸数単位で「人民公社」を設立した。毛沢東は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年より「大躍進政策」をぶち上げた。
近代的大製鉄工場の代りに人民公社ごとに小規模な「土法溶鉱炉」を造らせ競って製鉄をさせた。人民のエネルギーを最大限に引き出す方針だったが、民衆の情熱と献身を求める「急進主義」は過大な要求になった。急進路線に反対するものは「反革命」のレッテルを張り抹殺した。しかし「土法溶鉱炉」は使い物にならない屑鉄の山を築くばかりだった。工場での昼夜兼行は労働者や機械の消耗を激しくし、密植農法は耕地を荒廃させた。3年連続の自然災害による凶作もあり、5000万人以上の餓死者を出したと言われる。
文化大革命プロパガンダの絵
大躍進政策の大失敗により毛沢東は最大のピンチに立たされる。しかも中ソ対立により約束の原爆製造のノウハウ提供も取り消され、中ソの関係は破局する。毛沢東は大躍進政策の責任を取り国家主席をNO2の劉少奇に譲る。飢餓が全土に拡大した1962年には劉少奇、鄧小平ラインに実権は移り毛沢東の権力は低下した。しかし毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。1964年、「毛沢東語録」を出版、大学や文化機関を中心に国家機関に対する造反運動を起した。
毛沢東は過激派青年・紅衛兵たちの暴力行為を積極的に支持した。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大し「造反有理(造反には理由がある)」のスローガンのもと、大量の殺戮が行われた。「文化大革命」は毛沢東に忠誠を尽せば、革命のために全ては許された。その範囲は劉少奇ら中央指導部、教師ら知識人、金持ち、中国国民党と関わりのあった者、彼らの家族までもが徹底的に迫害された。また、文化浄化のもとに仏教、儒教は否定され、関係者は殺戮、仏像や施設は破壊された。文化大革命は文化大破壊であり、犠牲者は数千万人とも言われている。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は沢
******** 割れる、はじける
********
******** 下卦は天
******** 陽、剛、大
********
「沢天夬」の卦。夬(かい)は決壊、決裂の決に相当する。陽が充満し、最後に破けてしまうこと。最後の決断を下す意味でもある。独裁者の末路にも当てはまる。
2017年10月に行われた中国共産党大会で習近平は新時代の中国を世界最大の強国にしようと宣言した。社会主義の偉大な勝利を勝ち取ろうと演説した。まるで60年前の毛沢東の「大躍進政策」とそっくりではないか。フルシチョフが唱えた「アメリカに追い越し追い抜け」の宣言にも似てはいないだろうか。いづれもその後はどうなったか。歴史は繰り返す。一党独裁体制にはある限界があるのではないだろうか。
1960年代を見ると、ソ連も中国も大きな目標に向かったが失敗して国力を落としている。そして、一極支配体制を目指したアメリカもベトナム戦争の泥沼に陥ってしまい国力を衰退させた。大国どうしの疲弊、消耗戦の間に経済大国になったのが日本だと言われる。そして現在、日本はかつての勢いを失って低迷したまま大国の間に身を潜め、自主防衛力もないまま北朝鮮の動きを見守っている。これでは駄目だろう。がんばれ、日本。