さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

帝国主義時代の南アフリカ

2016-04-25 | 名画に学ぶ世界史
ズールー人

人類はおよそ300万年前にアフリカに出現したと言われる。大自然の中で狩猟生活から農耕と牧畜を営み、多くの部族が住み着いていた。気候にも恵まれた南アフリカ東部では、19世紀始めに他の部族を制圧したズールー族が王国を作っていた。

ヨーロッパ人がやってきたのは17世紀になってからである。大航海時代が始まり、海上交通の補給基地としてオランダ人が入植しケープタウンを建設した。彼らは黒人たちを奴隷として農場を営んでいた。次第に入植者たちは増えてゆき、民族集団ボーア人と呼ばれていた。

 
 
グレート・トレック
 
ナポレオンが失脚してウィーン会議の結果、1814年ケープタウンはイギリス領ケープ植民地となる。公用語は英語に定められ、ボーア人にとっては深刻な事態になる。1833年、イギリスは奴隷制を廃止する。奴隷に頼って大農場を経営していたボーア人たちは後からやってきたイギリス人に追い出されることになる。
 
ボーア人たちは自分らの新天地を求めて決死の覚悟でケープを去ることにする。「グレート・トレック」言われる大移動は困難を極めた。凶暴なズールー族が他の民族を追いやった東のナタールを目指すが、何度もズールー族の襲撃に遭った。ボーア人たちは1839年にナタール共和国を建設した。
 
 
イメージ 2
19世紀の南アフリカ
 
ところが国を統治した経験不足からの混乱が続き、せっかくの建国だったが、1842年イギリス軍に攻撃され降伏、英領ナタール植民地にされてしまう。ボーア人たちは又しても大移動をせねばならなかった。
 
今度は内陸部に進出する。オレンジ川の北とヴァール川の北に二つの政府を造った。ここにもイギリス軍が横取りしようとやってきたが、ボーア人たちは必死に防衛した。1852年にトランスヴァール共和国が、1854年にオレンジ自由国が相次いで独立を認められた。
 
イメージ 3
 
セシル・ローズ(1853~1902)
 
ところが、その後オレンジ自由国にダイヤモンドが、トランスヴァール共和国に金鉱が発見されると様相は俄然違ったものになっていく。ダイヤモンド採掘にはイギリス人が殺到した。中でもセシル・ローズはダイヤモンドの採掘で財を成し、ケープ植民地の首相になった。イギリスの大財閥ロスチャイルド家とも手を組み、全世界のダイヤモンド産出額の実に9割を独占した。
 
ローズは帝国主義を推し進める大英帝国の方針に自分の野心を重ね、南アフリカ連邦を建設し、北のエジプトを電信と鉄道で結ぶ計画にまい進する。(上の風刺画はアフリカを南北に結ぶローズの野心を描いている) 政治、経済、軍隊の実権を一手に握り広大な領土を獲得しローデシアと名付けた。(現ザンビア、ジンバブエ)。 「アフリカのナポレオン」と呼ばれたローズは一気にトランスヴァール共和国を併合しようと陰謀を企てる。しかしその計画は失敗し、ローズは失脚した。
 
 
イメージ 4
 
ボーア戦争
 
ローズの失敗の後、イギリスはトランスヴァールの併合を宣言する。しかし何としても独立を守りたいボーア人たちは戦争を起こす。1881年、再び独立を勝ち取ったボーア人だったが、イギリスはそのままにはして置かない。ボーア人とイギリス人はその後も対立したまま紛争を繰り返す。
 
 
イメージ 5
強制収容所に収容されるボーア人女性と子供たち
 
いつまでも抵抗するボーア人に手を焼いたイギリス軍は1899年、スーダンを制圧した将軍キッチナーを司令官にする。キッチナーは強制収容所を設置し、焦土作戦を決行、広大な農地、農家を焼き払う。収容所では2万人が死亡した。近代兵器をフルに使用するイギリス軍、ゲリラ戦で応じるボーア軍、3年に及ぶ長期戦になった。
 
ボーア戦争は1902年5月、最後のボーア人が降伏することによって終戦を迎える。イギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合したが、イギリス軍も大損害を被り疲弊した。その焦土作戦や非人道的強制収容所は国際的な批判をあびた。その後の南アフリカには癒えることはない後遺症が長く続いた。
 
~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は火
***   *** 文明、文化、英知
********
******** 下卦は山
***   *** 不動、勤勉、沈着
***   ***

「火山旅」の卦。易でいう旅は海外旅行や温泉旅行の旅とは違い、国を追われて放浪するような旅を指す。国でいえば新天地を求めの大移動だろう。国のリーダーは沈着な判断により英知を発揮せねばならない。そうすれば、思わぬ新天地が開けるだろう。

帝国主義の犠牲者としか言いようがない。ボーア人にとっては新参者のイギリス人ほど迷惑な存在はなかっただろう。オランダにとってはイギリスは天敵である。17世紀には世界一の経済先進国だったが、英蘭戦争を仕掛けられ、東インド会社を乗っ取られた。アメリカの植民地も横取りされ、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークにされた。それにしても南アフリカでは仲良く共存することは出来なかったのだろうか。

イギリスは1902年に日本との間に日英同盟を結んだ。それまで、栄光の孤立を続けていたイギリスが日本と同盟したのは、ボーア戦争により疲弊してしまい、ロシアの南下阻止に手が回らなかったからと言われる。その結果、日露戦争で日本が勝利し、ロシアの南下を防いだ。日本の実力を知ったイギリスの外交分析力は郡を抜いていると言わざるを得ない。


帝国主義時代のエジプト

2016-04-21 | 名画に学ぶ世界史

エジプト・ピラミット


エジプトは古代文明の発祥地であるが、ローマ帝国消滅後、長くイスラム王朝が支配、16世紀からはオスマン帝国が支配していた。1798年、ナポレオンがエジプト遠征によりフランスの支配下にしようとしたが失敗したことがある。その後、オスマン帝国から派遣された司令官がムハンマド・アリーだった。アリーはナポレオンと同年生まれ、抜群の政治力を認められ、ウラマー(宗教指導者)たちからエジプトの新総督に推挙された。


イメージ 1
ムハンマド・アリー(1769~1849)
 
ナポレオン失脚後にオスマン帝国支配下のギリシャが独立戦争を起こした。ヨーロッパを巻き込む大戦争に発展し、エジプト軍はオスマン帝国軍とともに大敗北を喫した。しかしアリーはオスマン帝国からエジプトを独立するチャンスを得た。アリーは軍事、経済を立て直し、富国強兵の近代国家を目指す。弱体化するオスマン帝国に替わり、シリアなどアラビア半島に領土を広げる。

2度にわたるオスマン帝国との戦いに勝利したものの、エジプトの勢力拡大を阻止したいイギリスの干渉を招く。イギリスは親エジプトのフランスを除いた列強を集め、ロンドン条約を締結する。エジプトの総督職世襲を認め事実上の独立を承認したが、支配した領土は全て放棄させ、エジプトとスーダンに限定された。ヨーロッパ諸国に肩を並べる先進国への夢は絶たれた。
 

イメージ 3
レセップス(1806~1894)

アリー在世中の1833年、フランス人の外交官フェルディナン・ド・レセップスはエジプトに着任する途中で、偶然ナポレオンあてのフランス人技師からの手紙を発見した。それはナポレオンのエジプト遠征の別の目的だったスエズ運河建設の資料だった。それからレセップスはスエズ運河建設の夢を抱いた。

レセップスはアリーの遺族たちを説得、親族であるナポレオン3世(皇后王妃ウジェニーはレセップスの従妹)や、各国要人の協力を取り付ける。1854年、国際スエズ運河株式会社設立、政治的妨害や難工事、疾病の蔓延を克服し、1869年に完成させた。「東と西の結婚」と呼ばれた開通式では、フランス皇后ウジェニーが乗る皇室所有の「エーグル号」が先頭を切った。ヨーロッパ中から1000名以上の賓客が乗船した。

 
イメージ 4
スエズ運河開通直後の風景

運河の建設に一貫して反対したのはイギリスだった。イギリスはインド貿易を独占するため他国の交通が便利になることを好まなかった。オスマン帝国にも反対するよう圧力をかけ、各国にも株式を買わないよう手を回した。しかし運河開通は世界貿易にとっては劇的成功だった。蓋を開けてみると通過する船舶の約8割がイギリス船籍だったのだ。

一方、運河建設には想定の2倍の資金がかかった。エジプト総督は対外債務に耐えきれず国家が保有する株式を手放す決意をした。その情報を入手したイギリス首相ディズレーリは早速手を打ち購入し筆頭株主になった。議会の承認手続きなどしていれば、チャンスを失うので、購入資金を財閥ロスチャイルド家から借り受けた。(後にディズレーリは憲法違反だと自由党党首のグラッドストンに告訴された。)


イメージ 5
アフマド・オラービー(1841~1911)

その後イギリスは運河の管理を名目に軍隊を駐留する。国家予算の8割を借金返済に充てるという財政危機に陥ったエジプトでは国民に重税につぐ重税を課し、債権国英仏の支配下に置かれてしまう。巨額な負債をつくった総督イスマーイール(アリーの孫)は英仏人とトルコ人を要職につけエジプト人を弾圧した。次第に国民の不満はエスカレートし民主主義を求めて1882年には暴動が起る。

陸軍大臣だったエジプト人のアフマド・オラービーは民主主義を掲げ改革の先頭にたった。革命がエジプト全域に広がるとイギリス政府は軍隊を上陸させる。イギリスが心配したのはエジプトへの借款を破棄されることとスエズ運河の支配権である。イギリス陸軍はエジプト陸軍を圧倒し、オラービーを反乱者として逮捕、英領セイロン島へ流刑にした。


イメージ 6
 
ムハンマド・アフマド

エジプトはムハンマド・アリーの時代から南方のスーダンを支配下にしていた。しかしその圧制にスーダン人は度々抵抗していた。エジプトを半植民地にしたイギリス軍はさらにエジプト軍を使いスーダンにも手を伸ばす。ところが自らマフディー(救世主)と名乗るムハンマド・アフマドがスーダン人の熱狂的支持を得て対抗してきた。1885年、手を焼いたイギリス軍は中国の太平天国の乱で活躍した将軍ゴードンを派遣する。

ところがゴードン将軍率いるイギリス軍も破れゴードン将軍は戦死した。イギリス軍はスーダンを諦め、引き上げる。ベルリン会議でアフリカ分割は早い者勝ちと決まったこともあり、イギリス軍は再び最大の準備を整え遠征する。将軍キッチナーが鉄道を敷設、機関銃を使い制圧した。1898年にはフランス軍と遭遇するファショダ事件があったが、イギリスは譲らなかった。面積アフリカ最大のスーダンはイギリスの植民地になり、1956年まで続いた。

~~さわやか易の見方~~

***   *** 上卦は水
******** 困難、悩み
***   ***
***   *** 下卦は雷
***   *** 活動、始まる、志
********

「水雷屯」の卦。屯(ちゅん)とは生みの苦しみ。行き悩み。草木の芽が地上に出ようとするが、固い地面を中々突き破ることが出来ないでいる。無理に顔を出そうとすると踏みつぶされる。あせってはいけない。充分エネルギーを蓄えることである。やがて時を得て、発展のチャンスはきっと来る。

日本の明治維新に続こうとしたオラービーだった。明治政府の農商大臣だった谷干城がセイロンで面会した。オラービーは「日本の地理的条件が羨ましい。」と語ったと伝えられている。日本は主要産業は生糸しかなかったが、列強にとってエジプトには重要な干渉地帯・スエズ運河がある。何が幸いするか、何が災いとなるか、解らないものである。

世界一の豊かさを誇るイギリスだったが、「共存共栄」という考え方はないのだろうか。イギリスの「栄光の孤立」は自国だけの豊かさを誇るものなのか。帝国主義の先頭を走り続けたイギリスだったが、これでは世界の範とはならないのではないか。その証拠にやがてドイツが目の敵にすることになる。あの大戦争を引き起こすことになったのではないだろうか。

ビスマルク体制、戦争から外交へ

2016-04-11 | 名画に学ぶ世界史
ビスマルク(1815~1898)

ドイツは多数の領邦国家で成り立っていたが、1871年、普仏戦争後にプロイセン王国を中心に統一され、ドイツ帝国になった。その立役者は鉄血宰相と呼ばれたビスマルクである。統一間もないドイツは屈辱的大敗を喫したフランスの復讐も警戒せねばならず、国内も不安定でビスマルクは難しい舵取りが必要だった。

ドイツは強力な軍隊を武器に、オーストリアを叩き、フランスを叩いてその勢いを統一へのエネルギーにしてきたが、統一後は一転して巧みな外交に力を発揮した。ビスマルクは約20年間、巧みな外交でヨーロッパの安定を維持し、国内をイギリス、フランスに追いつく工業国に急成長させた。

イメージ 2
ビスマルク体制

ビスマルクが最も警戒したのは、フランスだったのでフランスを孤立させ、周辺国と手を結ぶことにした。その為には1866年に戦争したばかりのオーストリアとも犬猿の仲であったロシアとも手を結び、さらにフランスの植民地政策に不満をもっていたイタリアとも手を結んだ。

当時、盛んに行われていた植民地政策ではフランスのエネルギーがなるべく領土拡張に向かうよう、ドイツでは植民地拡大には消極的態度をとった。そこに1878年に露土戦争が起り、オスマン帝国に勝利したロシアはかねてからの南下政策を実現するため、サン・ステファノ条約により、バルカン半島に勢力を広げる。保護下にあるブルガリアの領地を広げ、エーゲ海に面する大ブルガリア公国を成立させた。

イメージ 4
サン・ステファノ条約による大ブルガリアの領域

しかしこの条約には真っ先にイギリス、オーストリアが反対し抗議ののろしを挙げた。イギリスはロシアに地中海への権益を侵されることを拒み、オーストリアはスラブ勢力のバルカン半島拡大を拒んだ。ヨーロッパ全体を巻き込む紛争に発展したが、その調停役を買って出たのがビスマルクだった。

イメージ 3
ベルリン会議

ビスマルクの調停による「ベルリン会議」はヨーロッパ全体の勢力均衡を重視、ロシアの南下政策は阻止され、イギリスが地中海への拠点を確保する。ロシアには不満が残ったが、国際紛争を解決し、ドイツの国際的地位を高めることに成功した。一方、この会議には敗戦国のオスマン帝国は蚊帳の外で、その凋落は決定的なものになった。

1880年代に入ると、ヨーロッパ各国のアフリカ進出はすさまじい勢いだった。当然、各国の利害は衝突し、紛争が起こり始める。そこで1884年、再びビスマルクは列強14カ国をベルリンに集め100日間に及ぶ2回目の「ベルリン会議」を開いた。そこでは、先に占領した国が領有権をもつという「先占権」が決まった。結果としてアフリカ分割は「早いもの勝ち」となり、進出は加速した。

イメージ 6
水先案内人の下船

この「ベルリン会議」はナポレオン戦争後の「ウィーン会議」、クリミア戦争後の「パリ会議」と並んで、19世紀の三大国際会議と言われている。19世紀の後半はビスマルク体制によりヨーロッパには殆んど戦火もなく平和裏に経過、ドイツも第2次産業革命を果たし大工業国になっている。

しかし1890年、若き皇帝ヴィルヘルム2世によりビスマルクは更迭され、政界を引退する。その後、ヴィルヘルム2世による絶対君主制が始まり、他国との協調関係よりも帝国主義的利害を重視する。ヴィルヘルム2世の拙劣な外交政策により、ドイツは列強諸国との対立を深め孤立していく。


イメージ 5
フランス外相デルカッセ(1852~1923)

一方でビスマルクの外交を研究していたのは隣国フランスだった。外務大臣になったデルカッセはイギリスと宥和策をとり、ロシアとは同盟関係を構築した。ドイツと同盟関係にあるイタリアとも水面下では密約を締結している。ビスマルクが作ったドイツ中心のフランス包囲網を解体させ、ドイツを孤立させるドイツ包囲網を形成していった。「デルカッセ体制」と言われている。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
******** 下卦は火
***   *** 文化、文明、太陽
********

「天火同人」の卦。同人とは志を同じくするもの。「同人雑誌」の語源でもある。組織や集団をつくるのは、その中心になる人物次第でもある。中心になる者は明らかな文化を根気よく発信することだ。始めは孤独に苦しんでも初志を貫徹することである。いつかは喜びに満たされる。

ドイツにとってビスマルクは生みの親でもあり、育ての親でもあった。時代はもはや専制君主の時代ではなかった。政治は政治のプロに任せねばならなかった。そこがドイツが一歩遅れていたところだったのだろう。我が国の明治憲法もプロイセンの憲法をたたき台にした。そこに大きな落とし穴があったことに気が付くのは大戦争に負けてからだった。

現在、集団的自衛権の論議が盛んである。戦争を出来る国にすることは容易い。しかし国際紛争は軍事で解決するのではなく、あくまで外交で解決しなくてはいけない。その為にはもっともっと外交力を付ける必要があるのではないか。拉致問題しかり、日中、日韓問題しかり、外交力はこのままでよいのか。軍事より外交。日本の政治家に求めたいことはそこだ。


アメリカ大企業誕生

2016-04-06 | 名画に学ぶ世界史
1890年建設のニューヨーク・ワールド・ビル

南北戦争が北軍の勝利で終わると、アメリカは北部を中心に一大工業国家建設にまい進することになる。産業革命は綿製品などの軽工業から、鉄鋼、造船などの重工業が中心となる第2次産業革命の時代に入っていた。19世紀後半には工業生産はイギリスを抜いて世界一になっている。

石油、鉄鋼、自動車などに巨大企業が出現し、巨大企業は巨大資本と一体になっていく。その中で、ロックフェラー、カーネギー、モルガンなどの大財閥が出現した巨大資本家は政治をも動かし、業界を独占し、企業は世界的規模にまで発展していった。やがて世界に君臨するアメリカの原点はここから始まる。今回はその大財閥誕生の物語をお伝えしたい。


イメージ 1
ジョン・ロックフェラー(1839~1937)

ニューヨークの行商人の子として生まれたロックフェラーは20歳の頃、友人と二人でビジネスを始める。1863年(24歳のとき)に鯨油に替る新燃料として灯油に目をつけ、石油精製業を起こす。その後石油は発電、輸送、自動車には欠かせないものとなり、やがて「スタンダード石油」となり、世界最大の石油会社となる。

ロックフェラーは次々とライバル社を吸収し、石油パイプライン、林業、鉄鉱山、鉄道、流通などの分野に手を伸ばし、世界最大の大企業になる。関連する石油製品の製造企業は数百社にも及ぶ。余りに発展したため、独占を防ぐための「反トラスト法」違反に問われ、複数企業に分割されることになるが、彼の総資産は現在の換算では約35.6兆円と推定される。


イメージ 6
ロックフェラーが設立したシカゴ大学

歴史上、もっとも裕福な男・ロックフェラーは実業界を引退した後、世界屈指の慈善家となる。医学研究、教育、科学、芸術方面に可能な限りの寄付を行った。97歳で死亡したが、その遺産は慈善寄付団体とロックフェラー財団を通じ、現在も受け継がれている。


イメージ 2
アンドリュー・カーネギー(1835~1919)

アンドリュー・カーネギーはスコットランドの手織り職人の子として生まれる。手織り職人は機械化により職を失い、一家は1848年に移民として、アメリカのペンシルベニア州アレゲニー(現在のピッツバーグ)に渡る。貧しいながらも、働くことと学ぶことには労を惜しまない少年だった。18歳頃にペンシルバニア鉄道のトマス・スコットが社員として採用すると運が開けた。

スコットから仕事、経営、原価管理について多くを学んだ。やがてスコットは副社長に昇進、カーネギーは現場責任者となる。ある時、鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になる。カーネギーはこれからは鉄橋の時代だと考え、鉄橋を建設する会社を創設する。スコットとの関係は続き、車体やレールをも製造し、やがて最新式の製鉄工場を設立する。その後に起こる南北戦争では艦船の装甲、砲、その他様々な工業製品に鉄鋼の需要が高まる。ピッツバーグは軍需産業の一大拠点になっていた。

 
イメージ 3
 
シラキュース大学のカーネーギー図書館
 
カーネギーの帝国は成長し、1889年にはアメリカの鋼生産量はイギリスを抜いた。カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、イギリスの首相やアメリカ大統領などの政治家や著名な作家とも親交し、自ら著作活動も始める。カーネギーは裕福な実業家は蓄財の期間とその富を大衆に分配する期間を持つべきだと主張し、社会に奉仕することを自ら実践した。
 
アメリカ国内、イギリス、他の英語圏の国に資金提供した公共図書館の数は3000にもなるという。またカーネギーはアメリカが帝国主義に走ることには反対し、キューバやフィリピンの独立を支援した。83歳の生涯に幕を閉じる時に墓碑銘に刻ませた言葉は「ここに、自分より優れた人々を、周囲に集める術を知っていた1人の人間が横たわる」だった。
 
 
イメージ 4
 
J・Pモルガン(1837~1913)
 
J・Pモルガンは銀行家の家庭に生まれ、父から銀行を引き継ぐと積極経営により19世紀末には世界最大の金融業者になる。モルガンは金融から一歩踏み出し、主に鉄道の開発、吸収、再編により莫大な利益を得た。その手法はモルガニゼーションと呼ばれた。
 
1895年のアメリカの鉄道バブルが崩壊し、合衆国財務省が保有する金がヨーロッパに流失した。銀行の取り付け騒ぎが起る恐慌に陥った。時の大統領・クリーブランドはモルガンに救済を申し出てきた。モルガンは銀行団を組織し、財務省の発行する1億ドルの債権を引き受けた。資本の引き上げに走ったヨーロッパの信用を回復し財務省を見事に救った。
 
 
イメージ 5
 アメリカ政府よりモルガンが大きいとする戯画
 
モルガンはカーネギー・スチールを吸収し、USスチールを設立、海運、電力、通信事業にも進出した。巨大な芸術品コレクションをニューヨークのメトロポリタン美術館とコネチカット州の美術館に寄贈した。関東大震災の後には多額の義捐金を送るなど、日本との関係も深い。一族は現在も健在、アメリカ、イギリスの財閥とは親族関係にもあり、世界の政財界には隠然たる影響力を持ち続けている。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は火
***   *** 文化、文明、太陽
********
******** 下卦は天
******** 陽、大、剛
********
 
「火天大有」の卦。大有は陽なるもの、大なるものを有り余るほど所有することである。天の真ん中に太陽が輝く象である。順風満帆、何をやってもうまく行く。恐れず、何処までも積極的に前進すればよい。ただ、易の64卦には順番があり、「大有」の次に「謙」がくる。大なるものを有したものは、謙虚になれという教えである。
 
アメリカの大富豪たちは晩年になると、社会貢献をするという伝統がある。この習慣があればこそ、アメリカン・ドリームも健全なものになる。ギリシャの海運王と言われたオナシスは大富豪にはなったが、社会貢献など何もせず、税金さえろくに払わなかったという。大富豪にして「謙」の精神を持つならば、一族は益々繁栄するのだろう。
 
世界史で見るとアメリカは新興国である。モルガンたちが活躍するわずか100年前のアメリカは人口よりバッファローの方が多かったのだ。建国して100年、世界の大工業国になろうとは、世界史の奇跡だろう。アメリカも奇跡だが、封建社会が続いていた日本という島国が一気に近代国家に変身したのも奇跡的な出来ごとである。だから19世紀の歴史はおもしろい。