さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

ブログ開設16周年を迎えて

2022-08-15 | ご挨拶

残暑お見舞い申し上げます。

相変わらずコロナが収束致しません。既に3年目です。今年は又新しい問題、すなわちウクライナ戦争が加わり、何だか不安な時代にならないかと心配です。

このブログでは4年前に、「プーチンの挑戦」というタイトルで7話を掲載していました。その頃の記事は瀕死の状態にあったロシアをプーチン大統領という傑出した人物が登場することによって、アメリカの一極覇権戦略を食い止めたという設定になっていました。4年後に戦争という手段で、プーチン大統領が西側に牙を向けて来るとまでは想定も出来ませんでした。

プーチン大統領の立場に立てば、NATOという西側の軍事同盟が、ロシアの喉元まで迫って来たことへの已む無き強硬手段だということでしょう。ロシアという国を中心に考えれば、戦争を誘発した原因は西側にあるとも言えます。しかしウクライナにしてみれば、ロシアとはお別れしたいのです。ソ連時代のあまりにも酷かった恐怖政治が忘れられないのです。戦争が長引くことへの影響が心配ですが、解決を祈るしか有りません。

「さわやか易」ですが、しばらく中断していましたが、復活いたしました。現在3年越しの「ユダヤ人の旅」の最終段階に入っています。次のテーマは決めていませんが、マイペースでやっていきたいと思っています。

何卒よろしくお願い申し上げます。(猶興)


(42)現代に活躍するユダヤ人(その2)ジョージ・ソロス

2022-08-10 | ユダヤ人の旅

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ジョージ・ソロス(1930~)

1930年、ジョージ・ソロスはハンガリーのブタペストで弁護士の父ティヴォドア、母エリザベスの二人兄弟の次男として生まれた。ユダヤ人であるソロス一家は常に死の危険と隣り合わせの中にいた。父は第一次世界大戦の戦中と戦後に捕虜となり、ロシアの捕虜収容所から脱走した経験がある。ジョージが13歳の時、ハンガリーはナチス・ドイツの支配下になり、ユダヤ人に対するホロコーストが始まった。父は家族に偽造の身分証明書を作り難を逃れた。ブタペストでナチス・ドイツ軍とソ連軍による熾烈な市街戦を目の当たりにすると、ジョージはハンガリーを脱出し、ロンドンに逃れた。

 

学費も生活費もすべて自分で稼がねばならなかったが、1947年ソロスは経済学の名門LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)に入学する。昼は鉄道駅で貨車の積み込みの重労働をし、夜はウェイターをして学費を稼いだ。LSEでは哲学者カール・ポパーを哲学的導師としている。ソロスはここで開かれた世界に目覚め、反対に閉ざされた世界を生涯嫌うようになった。1951年に苦難の末に同校を卒業する。職を転々としたが、1956年にアメリカに渡る。哲学者として自立するために十分な資産を稼ぐためだった。

 

 
ジム・ロジャーズ(1942~)

資産を稼ぐのが目的だったが、ソロスはこの投資家には世界を変える力があることを知る。そして自分こそ未来を託された人間であることを自覚、実践する哲学者を目指す。研究と体験に明け暮れる毎日が続いたがソロスは投資の世界を知り尽くした。1970年、ソロスはジム・ロジャースとともにファンドを設立した。このファンドはその後10年間にファンド史上最高の4200%のリターンを稼ぎ出した。80歳までの40年間、ソロスのファンドは平均しても年間20%のリターンをもたらしている。

 

ソロスの名とヘッジファンドを一躍有名にしたのは、欧州経済危機の1992年、ポンドの相場を巡り、イギリス財務省を相手に巨額のポンドを売り抜け100億ドルを一夜にして稼いだ話である。ソロスは「イングランド銀行を潰した男」と言われた。イギリスは欧州為替相場メカニズムに従いユーロ導入に向かっていたが、ボンド危機を招きユーロ導入を断念した。しかし、結果的には「英国病」に苦しんでいた経済が改善するきっかけになったと言われている。

 

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アンドレイ・サハロフ(1921~1989)

一方でソロスはソ連を中心とする東ヨーロッパの社会主義は閉ざされた社会であり、開かれた社会へと解放させねばならないと考えていた。1979年からポーランドの連帯運動、チェコスロバキアの憲章77、ペレストロイカの父といわれたソ連のアンドレイ・サハロフたちの反体制組織に多額の寄付をしている。1984年、最初の「オープン・ソサイエティ財団」をハンガリーに設立した。ソ連崩壊後も独裁政権による閉ざされた体制を否定し、2003年には、グルジアの「バラ革命」、2004年には、ウクライナの「オレンジ革命」、2005年には、キルギスの「チューリップ革命」にも資金提供をしている。

ソロスは1970年代から慈善家としての活動をしている。南アフリカのケープタウン大学へ通学する黒人生徒への基金の提供、中央・東ヨーロッパの大学への援助、科学者への援助などである。1991年にはハンガリーに設立された「中央ヨーロッパ大学」の共同創始者であり、4億2000万ユーロの寄付を行った。ソロスの慈善事業は現在では100か国を超える国々で活動し「オープン・ソサイエティ財団」は世界的なネットワークに発展した。また、兄ポール・ソロスもエンジニア出身の企業家で慈善家として知られ、ニューヨークの名士でもある。

~~さわやか易の見方~~

「地天泰」の卦。上に地、下に天。一見逆のように感じるが、易ではこの卦が理想的な安定した世界を表している。国家で言えば、上にいる為政者が下にいる国民の意見を良く聞いて開かれた政治を行っているのである。その反対は「天地否」であり、上にいる為政者が下にいる国民を押さえつけている世界である。どちらが国民にとって良いことか。しかし、「地天泰」を実現するには、国民の方もレベルが高くないと出来ない。レベルの低い国民は上から強制がないと勝手気ままな性質をむき出しにするからである。

 

ソロスが開かれた政治に拘るのは、少年期に体験した共産主義のソ連の恐怖が影響しているのだろう。当時のソ連は為政者がスターリンである。スターリンが植え付けた東ヨーロッパの国民への恐怖は100年経っても消えるものではない。今のウクライナの国民がロシアから離れたいと思うのはひとえにスターリンの恐怖が染みついているからだろう。プーチン大統領は崩壊寸前のロシアを立ち直らせた救世主ではあるが、それでもスターリンの恐怖政治は忘れるほど過去のものにはならない。そうなると、この戦争は何年も続きそうな気がする。5月末の「ダボス会議」でソロスはこの戦争は第三次世界大戦になる危険があると言っている。

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(41)現代に活躍するユダヤ人(その1)キッシンジャー

2022-08-06 | ユダヤ人の旅

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ヘンリー・キッシンジャー(1923~)

 

世界大恐慌が世界を侵食し、大不況に喘ぐドイツでは1933年に、ヒットラーが率いるナチス政権が席捲する。第一次世界大戦で敗れ、大不況に見舞われているのは第一にユダヤ人による裏切りがあったからだと信じるナチスは徹底的にユダヤ人を弾圧した。少しでも余裕のあるユダヤ人たちは競って外国へ逃れる。バイエルン州フェルトで女子高の教師をしていたキッシンジャーの家族も1938年にアメリカに亡命することになった。15歳の長男のヘンリーは父母と1歳下の弟とともにニューヨークの小さなアパートに移り住む。父親は仕事探しに明け暮れるが、就職口はない。

 

ヘンリーはジョージ・ワシントン高校の夜間クラスで勉強する傍ら、昼間は髭剃り用ブラシをつくる工場で働き、週15ドルの賃金を手にした。それが一家のアパート暮らしを支えた。高校卒業後は工場で働く一方、ニューヨーク市立大学シティカレッジの経営・行政管理学部に通い、会計学を学んだ。第2次世界大戦中の1943年、アメリカ陸軍に入隊、ドイツ語の能力を生かして対諜報部隊軍曹としてヨーロッパ戦線に従軍した。1946年に復員し、ハーバード大学に入学。引き続き大学院にも進学し、主に19世紀のウィーン体制後の国際秩序について研究する。

 

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デイヴィット・ロックフェラー(1915~2017)

 

ハーバード大学で政治学部で教鞭を取る傍ら、CFR(外交問題評議会)へ参加、外交政策への提言が注目を集める。1965年、友人の父が南ベトナムの大使だったので、大使の顧問として3回サイゴンを訪れ戦争の現実を学ぶ。大統領選挙に出馬したネルソン・ロックフェラーの外交政策顧問を務めた縁で、ロックフェラー家の信頼を築く。3代目当主デイヴィット・ロックフェラーの銀行が中国進出した時はキッシンジャーの助言を受けている。政界への進出もデイヴィット・ロックフェラーが道を開いた。

キッシンジャーは冷戦政策の再構築を掲げたニクソン政権で大統領補佐官として重要な役割を果たした。1971年、中ソ対立の中国に極秘で2度訪問、周恩来首相と直接会談、米中和解の道筋をつけた。次に米中和解を交渉カードとしてソ連とも戦略兵器制限条約を締結する。また第三次印パ戦争では中国と共にパキスタンを支援、毛沢東からソ連包囲網の構築を提案させた。巧みな外交によって、1960年代から70年代の最大の難問題であったベトナム戦争の終結への道筋をつける。1973年にパリ協定が調印され、この功績によりキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞する。また、こじれた中東地域ではサウジアラビアとエジプトを交互に訪れ、経済と安全保障両面でソ連の影響力排除を目的に反共同盟の結成を支援した。1974年、成立したフォード政権では国務長官として外交を担いソ連との緊張緩和政策をすすめる。

 

プーチン大統領と会談(2001年)

 

キッシンジャーの信念は徹底的な現実主義である。19世紀前半、ナポレオン後のヨーロッパを力のバランスで均衡を保つことに成功したメッテルニヒを手本とした。外交の基軸を「パワーバランス」によって行った。19世紀のヨーロッパではナポレオン以後は大きな戦争はない。それは前半はメッテルニヒ、後半はビスマルクが巧みな外交によって戦争を回避したからと言わている。20世紀のより複雑な冷戦時代を忍者外交と評された外交と先見の明で乗り切ったキッシンジャーは20世紀のメッテルニヒ、ビスマルクと言って良いのではないか。

政界退任後は、1982年に国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立、現代外交の生き字引的存在として多くの著書を発表、世界各国での講演活動を行った。高齢になった現在も世界中に築いた人脈と外交手腕を頼って歴代大統領が外交の指南役としている。

 

~~さわやか易の見方~~

「水火既済」の卦。既済(きせい)とは事が成就すること。この卦は陰陽の配置が理想的な配置になっている。陽の位置には陽が、陰の位置には陰がある。陰陽のバランスが整い、最も安定している。しかし政治の世界でもビジネスの世界でもこれを求めるのは最も困難なことで、どちらかに偏るものである。しかし、それでもこのバランスを求め続けねばいけない。

では、キッシンジャーは日本についてはどう考えているのだろうか。日本については、軍事力を増強することに最も警戒し、アドバイスを続けている。それだけ日本の実力の高さを知っているのだろう。アメリカと中国の間にいる日本が強くなると、必ず世界のバランスがおかしくなると読んでいるのだろう。そうは言っても、いつまでもアメリカの下請けばかりもやっていられない。まして中国の風下にも立てない。目立たぬように、はしゃがぬように、日本はしっかりと教育に力を入れ、教育大国、文化大国を目指して、じっと力を蓄えていれば良いのだ。

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