姐さん、今回は憲法研究会でどんなやりとりがあったかをお話します。
面白そうね。お願いします。
鈴木安蔵は岩淵辰雄の印象を、「熱心にやって来られて、あまり発言はなさらない方でありましたが、私なんかの知らない内閣、政党ということについて、大変適切なアドバイスをポツリポツリと言われたことは草案を起草するのに大変参考になった。」と言っています。この岩淵と室伏は政治記者として政治家を相手にしてきただけあって、時局を知っていて機を見るに敏なところはあったんでしょうね。
学者だけの集まりじゃなかったことが良かったんじゃないの。
そうですね。憲法研究会で最初の大問題は天皇制をどうするかということでした。岩淵が、「天皇から一切の権力を取ってしまおう。明治憲法で規定された天皇制から、それに付随した制度を全部取ってしまおう。」と発言すると、高野岩三郎と杉森孝次郎から、「一体そんな天皇ってものがあるか?」「そういう天皇を憲法に何て書くんだ。」と言われた。岩淵は、「何を書くかは俺には分からん。とにかくここで憲法を改めるなら、これに手をつけなきゃ意味がない。」こんなやりとりから始まったんですよ。
そうだろうね。それまでの日本じゃ天皇は絶対的な存在だからね。天皇の下に国民があることは日本人には当たり前で、何の疑いもないし、誰も不思議に思っていないんだからね。ここを変えるのは容易なことじゃないよね。
そうなんですよ。今とは全く違いますからね。でも、このメンバーたちはこれを変えようとしたんです。それも日本人自ら変えようとしたのが画期的だと思うんですよ。共通の信念は、「主権在民」をどう形にするかということ。その為には天皇の大権を剥奪し、議会の権限を強化すること。何回目かの会合で、室伏高信か杉森孝次郎の発案で天皇を「シンボル」、「象徴」という言葉が出てきたというんです。しかし、まとめ役の鈴木安蔵は国民的感情から見て天皇制は形体的にでも残すのが妥当だと反対した。
今では天皇の象徴は当たり前なんだけど、「象徴」を憲法に明記するのは大変だったんだね。
むしろ年配の高野岩三郎の方が天皇制の廃止、大統領制にしようと主張した。高野は、「今の内に共和制にしておかないと、その内にまた第二の楠木正成のような者が現れて天皇制にするかもしれんぞ。」と述べている。高野の死後、追悼会で森戸は、「一番老人の高野先生が一番ラディカルで、一番若い鈴木君が穏健だったのは面白いなあ。」と語っている。
新憲法を作ろうというのは、大変なんだねえ。
結局、天皇の項では、「天皇は国民の委任により国の元首として内外に対し国を代表す。」と「天皇は栄誉の淵源にして国家的儀礼を司る。」という草案になった。国民的儀礼という役割に限定するという発想は今の象徴性につながる画期的なものだったと言えるんじゃないでしょうか。
成程ね。天皇以外のところはどうなの?戦争放棄も書いたのかしら?
流石に戦争放棄までは考えられなかったようです。言論の自由や平和主義については、彼らの殆どが言論弾圧を経験した人たちだからしっかり盛り込んだようです。特に森戸は東大の助教授時代に、「クロポトキンの思想の研究」で大学を追われたことがあったし、馬場恒吾も2度憲兵に引っ張られているそうです。こうして彼らの憲法草案は推敲に推敲を重ねて、終戦の年1945年の12月26日に鈴木、杉森、室伏の3人が首相官邸とGHQに届けたそうです。
今の憲法はGHQの押し付けとばかり思っていたけど、こんな動きもあったのね。
鈴木は新聞に憲法草案について、「フランス憲法」、「アメリカ合衆国憲法」、「ソ連憲法」、「ワイマール憲法」、「プロイセン憲法」等とともに自由民権運動で書かれた民間草案を参考にしたと語っています。ですから、「日本人に謝りたい」のモーゼさんが言っていた「ワイマール憲法の丸写し」だけではなかったと思いますよ。実際には翌年1946年の2月にGHQが草案作りを始めるんですが、この憲法研究会の作った草案は重要な叩き台になっていることは事実のようなんです。
そうなんだ。よく調べたわね。じゃあ、次は日本政府の動きも知りたいよね。
解りました。
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