さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

姐さんの憲法論(28)~天皇制をどうするか~

2021-01-27 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は憲法研究会でどんなやりとりがあったかをお話します。

面白そうね。お願いします。

鈴木安蔵は岩淵辰雄の印象を、「熱心にやって来られて、あまり発言はなさらない方でありましたが、私なんかの知らない内閣、政党ということについて、大変適切なアドバイスをポツリポツリと言われたことは草案を起草するのに大変参考になった。」と言っています。この岩淵と室伏は政治記者として政治家を相手にしてきただけあって、時局を知っていて機を見るに敏なところはあったんでしょうね。

学者だけの集まりじゃなかったことが良かったんじゃないの。

そうですね。憲法研究会で最初の大問題は天皇制をどうするかということでした。岩淵が、「天皇から一切の権力を取ってしまおう。明治憲法で規定された天皇制から、それに付随した制度を全部取ってしまおう。」と発言すると、高野岩三郎と杉森孝次郎から、「一体そんな天皇ってものがあるか?」「そういう天皇を憲法に何て書くんだ。」と言われた。岩淵は、「何を書くかは俺には分からん。とにかくここで憲法を改めるなら、これに手をつけなきゃ意味がない。」こんなやりとりから始まったんですよ。

そうだろうね。それまでの日本じゃ天皇は絶対的な存在だからね。天皇の下に国民があることは日本人には当たり前で、何の疑いもないし、誰も不思議に思っていないんだからね。ここを変えるのは容易なことじゃないよね。

そうなんですよ。今とは全く違いますからね。でも、このメンバーたちはこれを変えようとしたんです。それも日本人自ら変えようとしたのが画期的だと思うんですよ。共通の信念は、「主権在民」をどう形にするかということ。その為には天皇の大権を剥奪し、議会の権限を強化すること。何回目かの会合で、室伏高信か杉森孝次郎の発案で天皇を「シンボル」、「象徴」という言葉が出てきたというんです。しかし、まとめ役の鈴木安蔵は国民的感情から見て天皇制は形体的にでも残すのが妥当だと反対した。

今では天皇の象徴は当たり前なんだけど、「象徴」を憲法に明記するのは大変だったんだね。

むしろ年配の高野岩三郎の方が天皇制の廃止、大統領制にしようと主張した。高野は、「今の内に共和制にしておかないと、その内にまた第二の楠木正成のような者が現れて天皇制にするかもしれんぞ。」と述べている。高野の死後、追悼会で森戸は、「一番老人の高野先生が一番ラディカルで、一番若い鈴木君が穏健だったのは面白いなあ。」と語っている。

新憲法を作ろうというのは、大変なんだねえ。

結局、天皇の項では、「天皇は国民の委任により国の元首として内外に対し国を代表す。」と「天皇は栄誉の淵源にして国家的儀礼を司る。」という草案になった。国民的儀礼という役割に限定するという発想は今の象徴性につながる画期的なものだったと言えるんじゃないでしょうか。

成程ね。天皇以外のところはどうなの?戦争放棄も書いたのかしら?

流石に戦争放棄までは考えられなかったようです。言論の自由や平和主義については、彼らの殆どが言論弾圧を経験した人たちだからしっかり盛り込んだようです。特に森戸は東大の助教授時代に、「クロポトキンの思想の研究」で大学を追われたことがあったし、馬場恒吾も2度憲兵に引っ張られているそうです。こうして彼らの憲法草案は推敲に推敲を重ねて、終戦の年1945年の12月26日に鈴木、杉森、室伏の3人が首相官邸とGHQに届けたそうです。

今の憲法はGHQの押し付けとばかり思っていたけど、こんな動きもあったのね。

鈴木は新聞に憲法草案について、「フランス憲法」、「アメリカ合衆国憲法」、「ソ連憲法」、「ワイマール憲法」、「プロイセン憲法」等とともに自由民権運動で書かれた民間草案を参考にしたと語っています。ですから、「日本人に謝りたい」のモーゼさんが言っていた「ワイマール憲法の丸写し」だけではなかったと思いますよ。実際には翌年1946年の2月にGHQが草案作りを始めるんですが、この憲法研究会の作った草案は重要な叩き台になっていることは事実のようなんです。

そうなんだ。よく調べたわね。じゃあ、次は日本政府の動きも知りたいよね。

解りました。

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姐さんの憲法論(27)~憲法研究会~

2021-01-25 | 姐さんの憲法論

姐さん、今回は日本人による新憲法作りへの動きをお話いたします。

お願いします。何だか、あんたが先生で私が生徒になったみたいね。でも、あんたの勉強ぶりが聞けるのは嬉しいわ。

先ずは失敗に終わった話なんですけど、戦争の直前まで総理大臣だった近衛文麿が新憲法を作ろうとしたんですよ。マッカーサーとも会見して、新憲法作成の要請を受けているんです。近衛は新生日本のリーダーたらんとしたんでしょうが、その後アメリカ本国からの指示で戦犯容疑で逮捕されることになってしまうんです。あまりの急転直下にショックを受けた近衛文麿は服毒自殺してしまうんです。完成していた憲法草案はそのままお蔵入りです。

いかにも戦争に負けた日本の現実だよね。

戦後、主に東京大学出身の学者や元新聞記者たちの間で、新憲法を作ろうという動きが出てくるんですよ。これが、「憲法研究会」という集まりになるんです。きっかけは終戦の年1945年の10月に「日本文化人連盟」の創立準備会というのが、日比谷で開かれたんです。そこで、元東大教授の高野岩三郎が若手の憲法学者である鈴木安蔵に声をかけたんです。「民主的な憲法を作ろうじゃないか。君のような若い人が先頭に立ってやってくれよ。」鈴木はその日の日記に、「老先生の意気、壮とすべし。」と書いたそうです。そこから、民間による新憲法草案作りが出発したんですよ。

あらそうなの。その高野岩三郎と鈴木安蔵ってどんな人なの?

 

 

 

 

高野岩三郎は1871年生まれですから、その時74歳。東大の法学部から経済学部を独立させるなどしたらしいです。「大原社会問題研究所」を設立したり、社会運動家として鳴らした人みたいですね。弟子も沢山いたんでしょうね。晩年には社会党の顧問やNHKの会長もやったそうです。鈴木安蔵は1904年生まれですから、その時は41歳ですね。京都大学の学生時代に治安維持法で2年間も服役したというから、相当のマルクス主義者だったんでしょうね。吉野作造が亡くなる直前に面会に来た鈴木に後を託すように熱心に語ったという話があります。

二人とも社会主義の人なんだね。私は今まで、左よりの人は愛国者じゃないと思っていたけど、そうでもないんだね。

そうなんですよ。僕にも言えることなんですけど、右寄りでも左寄りでも愛国者は両方にいるんですね。この二人の提案にもう二人の元新聞記者が名乗りを上げるんです。元読売新聞記者の岩淵辰雄(53歳)と元朝日新聞記者の室伏高信(53歳)です。岩淵は近衛文麿とも吉田茂とも親しく、近衛の新憲法作成を勧めた人でもあるんです。室伏は戦前、雑誌「日本評論」の主筆を勤めていたんですが、軍部を批判し主筆を下ろされ、特高から監視されていたそうです。その二人が終戦後に再会し、憲法改正で意気投合したそうです。

そう、じゃあ、その4人が手を結んだ訳?

はい、そこに高野岩三郎が教え子で経済学者の森戸辰男(64歳)を呼び寄せます。室伏はその後に読売新聞の社長になる馬場恒吾(70歳)と英語に堪能な早稲田大学の英文学者・杉森孝次郎(64歳)を呼び寄せるんです。この7人が集まって、「憲法研究会」を結成するんです。

「7人の侍」ね。

右もいれば、左もいるという、イデオロギーを超えた7人の知識人が、室伏が提供した「新生社」の会議室に毎週水曜日に会合を持つことになったんです。ここで作成された新憲法の草案がGHQが作る草案の叩き台になるんですよ。

あらそうなの。私は憲法の叩き台はワイマール憲法だと思っていたわよ。モーゼさんがワイマール憲法の丸写しだといっていたから、そう信じていたけど、そんなもんじゃないってことかしら。

 

森戸辰男がドイツにいた時、ワイマール憲法を勉強していますから、その影響はあったと思いますよ。でも姐さん、丸写しなんてことは決してないですよ。この七人の侍たちはもっと真剣に旧憲法を大改造して全く新しい憲法を作ろうという情熱を持った人たちでした。約二か月でしたが、彼らの激論が新憲法の叩き台を作ったんですよ。

 

そうだったの。GHQが一週間で作った草案だとばかり思っていたけど、その前に出来ていた草案があったということなんだ。

 

僕が思うのは、憲法研究会の二か月の激論と、GHQの一週間の激論が合わさったのが新憲法の草案だったんじゃないかということです。

 

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姐さんの憲法論(26)~民主化運動~

2021-01-25 | 姐さんの憲法論

姐さん、今日は僕が勉強した中から、意外に思った話をさせて頂きます。

待ってました。興味あるわよ。是非、聞かせて。

確かにこの憲法はGHQの主導で出来たことは間違いないんですが、日本人の中からも新憲法を作ろうという動きはその前からあったんですよね。その辺から話をしてみたいんです。

成程、おもしろそうね。

明治時代に、西郷さんが征韓論に敗れて、薩摩に帰りますよね。その時西郷側に板垣退助がいましたよね。

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知ってるよ。土佐出身で自由民権運動を起こした板垣退助だよね。

そうなんです。その板垣退助は西郷さんとは別の道を開いたんですよ。それが自由民権運動で、日本に国会を創って議会制民主主義を実現させるんです。フランスに行った時に、フランスの人種差別を見て、「これは本当の民主主義ではない。」と感じて、日本に本当の民主主義の実現を目指した人なんですよ。

あら、そうなの。そこまでは知らなかったわ。

だから、民主主義というのは日本が外国の真似をした訳じゃないんですよね。日本独自の民主主義が板垣たちによって、育っていたんですよ。そして、大正時代に吉野作造が出て、一気に大正デモクラシーと言われる程盛んになるんですね。吉野たちの運動によって、普通選挙なんかも実現するんですよ。当時は男尊女卑がまだまだ根強かったものですから、25歳以上の男子に限るんですけど、徐々に民主主義が定着し始めるんです。

やっぱり、日本人は偉いのよね。

日本の民主主義は欧米のとは違って、勤皇主義と一緒になっているんですよ。だから、君主や天皇を否定する共産主義とはまったく別のものなんですよね。厳密には「民本主義」といって、民が主となるのではなく、民が本となるという思想なんです。男女平等だって、結構早い段階から叫ばれてはいたんですよ。吉野作造の影響を受けた東大生の集まりが、「新人会」で人道主義、理想主義、社会主義の啓蒙活動が行われ、労働運動、農民運動に発展するんですね。新人会のメンバーはやがて弁護士や代議士、大学教授になっていったんです。

成程、優秀な若者たちが育ったんだね。

ところが、昭和に入る頃から、関東大震災やら世界大恐慌なんかが起きて、民主化運動どころじゃなくなってしまうんです。

そうだよね。その頃から日本では軍部が強くなってくるんだよね。とくに満州事変なんかが起こってからは、ますます陸軍の力が手が付けられないようになってしまうんだよね。

そうなんですよ。民主化運動なんかしようものなら、治安維持法に引っかかったりしちゃうようになってしまうんですよ。共産主義者じゃなくても捕まっちゃうんです。そんな中で民主主義を勉強して、実現を目指す人たちは正に命がけだったんですね。

治安維持法と言えば、赤狩りと言って、共産主義者がターゲットだと思っていたけど、そうじゃない人も捕まったりしたんだね。

ロシア革命後には共産主義者が入ってきて、民主主義も共産主義も紙一重で見分けがつかなかったんでしょうね。新人会も分裂しちゃうんです。そんな混沌とした時代にも本当の民主主義を目指した人たちはいたんですよ。

あら、そうなの。そういう人たちが戦後の憲法にかかわることになった訳?面白そうじゃないの。じゃあ、続きは今度聞かせてよ。

次ページ:憲法研究会


姐さんの憲法論(25)~画期的な憲法~

2021-01-25 | 姐さんの憲法論

姐さん、今日は。ちょっとだけご無沙汰しました。

そうね、どうしたかと思っていたのよ。コロナにでもかかっちゃったんじゃないかって心配してたけど、元気そうじゃないの。

実はね、姐さんの影響で僕もすっかり憲法問題にはまってしまったものですから、この二月くらい図書館から憲法関連の本を借りて勉強してたんですよ。

あらそうなの。じゃあ、随分詳しくなったんじゃないの。聞かせてよ、あんたが何を学んだか。私も知りたいわよ。

一番面白かったのは、この憲法がどんな経緯で出来たかということですね。「日本国憲法誕生~知られざる舞台裏」というNHK番組を制作した塩田純さんの本でしたね。確かに姐さんの言う通り、GHQの主導で出来たことは事実ですけど、日本人のかかわりも大きかったということや、時代の分岐点で、世界からも注目されていた中で出来たということが解りました。

それはそうでしょう。日本が180度変わったんだからね。それで、どう思った?

はっきり言って、僕はこの憲法になって良かったと思いますよ。ただ、今まで何の改正もないというのは問題だとは思いますけど、戦後日本が生まれ変わったという意味ではこの憲法は大正解だったんじゃないでしょうか。姐さんの言う通り、9条があったから北朝鮮になめられたということも半分は認めますけど、あれは憲法だけの問題じゃないですよ。あれは絶対政府が弱腰だったからで、今の憲法でも拉致問題は充分解決出来たと思いますよ。

拉致問題は憲法問題だと私は言ったけど、肝心な時に政府がボヤボヤしていたからだとも言ったよね。だから、どんな憲法でも日本人がしっかりしなくちゃ何にもならないということだよね。他にはどんなことを感じた?

戦前の日本ですけど、天皇と国民が「君民共治」だったという話ですけど、間にあった軍隊がまるで天皇の直轄にでもあるように勘違いしてしまって暴走してしまったということは大問題だったと思いましたね。

うんうん、私が好きな人物に高橋是清がいるんだけど、知ってるよね。日露戦争の時に戦費をイギリスに渡って調達してきた話や世界大恐慌後の不況を思い切った公共事業で乗り切ったことで、日本を二度救った男と言われている人なんだよ。この大蔵大臣の高橋是清が陸軍の幹部に、「軍隊は守るだけでいい!政治には口を出すな!」と一喝したんだよね。ところが、その後、226事件で暗殺されちゃったのよ。それから軍隊にしっかりと意見が言える人がいなくなっちゃうのさ。戦前の日本は軍隊が権力を持ち過ぎていたことは大問題だったよね。

軍人というのは、最終的には戦争で解決しようとするもんでしょう。だから、どう考えたって無謀な戦争に突っ込んでしまった。戦争に負けるまでその間違いに気が付かなかった。その結果、日本は大敗北を喫してしまった。でも、そこから日本人は生まれ変わろうとしたんですね。確かに今の憲法は日本人が主体になって作り上げた憲法とは言えないけれど、主権もない時に、外圧で出来た憲法ではあるけれど、ああいう非常事態になって始めて出来ることだってあるんじゃないでしょうか。でも、「不幸中の幸い」という言葉がぴったり来るくらい、画期的な素晴らしい憲法が生まれたということも言えるんじゃないでしょうか。

画期的な素晴らしい憲法なの?意外なことを言うのね。私はとんでもない憲法だと思っていたけど、何を根拠にそんなことになる訳?GHQの押し付け憲法がそんなに良いと言うの。聞かせて貰おうじゃないの。いったい何を勉強したのよ。

僕が解ったことは、この日本国憲法はGHQと日本人の合作で出来た憲法だということです。しかも、この憲法は明治時代から民主主義を日本に実現させようとした先人たちがいて、その流れが実を結んだという一面もあるということなんです。

でも、良かったよ。そこまで、あんたが憲法に関心を持って勉強してくれたことが嬉しいじゃないの。今度はもう少し詳しく、憲法が出来た経緯を話して貰おうかしら。

解りました。やってみます。

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