さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(25)ユダヤ人迫害の始まり

2021-06-25 | ユダヤ人の旅

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ウィリアム1世

十字軍がヨーロッパのキリスト教徒にもたらした影響はイスラム教徒とユダヤ教徒に対する敵愾心であった。それまではヨーロッパの民衆はイスラム教徒とは全く接する機会もなかったし、ユダヤ人はよそ者という扱いはしていたが、敵愾心を抱くことはなかった。ローマ教皇がエルサレム奪還の旗印を掲げて戦争を奨励し始めた時から民衆の間に異教徒を敵とする世相が根付き、ユダヤ人への迫害にお墨付きを与えたとはいえないだろうか。十字軍時代のイギリスではこんなことが起こっている。

ユダヤ人たちがイギリスに渡ったのは丁度第一回の十字軍が派遣された頃である。その頃フランスのノルマンディー公・ウィリアムがイギリスに侵攻し、ウィリアム1世としてイングランド王となり、ノルマン王朝(1066~1154)が始まった。ウィリアム1世はユダヤマネーを取り入れるためにフランスに住む金持ちのユダヤ人を招請した。イギリスに住み着いたユダヤ人たちは商品売買業や金貸し業に従事した。主な相手は貴族や王室だった。一般の国民からするとユダヤ人たちは裕福に見え、次第に妬みと反感を持つようになっていた。

 

リチャード1世

十字軍が始まっていた1154年に一人のイギリス人少年が行方不明になる事件が起きる。ある噂が広まった。「ユダヤ人は過ぎ越しの祭りに少年の血を捧げる習慣があり、その生贄にされたに違いない。」全く根も葉もない噂に過ぎないのだが、その噂は妬みと反感を持つ民衆の間に瞬く間に広がった。暴徒化した民衆はユダヤ人居住地を襲った。大勢のユダヤ人が殺された。その後、全く別の場所からその行方不明の少年は遺体で発見されたが、ユダヤ人とは関係がないことがはっきりした。しかし、ユダヤ人たちには何の謝罪もなければ補償もされなかった。

1189年、生涯の大半を十字軍を率いて戦場で送ったリチャード1世の戴冠式の時に、突如としてユダヤ人迫害が始まった。十字軍に熱中した民衆はユダヤ人を襲うことで、あたかも十字軍に参加したつもりにでもなったのだろうか。大半のユダヤ人の家が焼かれ、多くのユダヤ人が殺された。民衆のユダヤ人への反感もあるが、借りた金を返せない貴族たちもいたからである。死んだユダヤ人の財産は政府のものとなり、遺産相続を禁じた。1217年にはユダヤ人には全員黄色いバッチを付けさせた。1255年、又しても少年殺人事件の犯人にされ、暴徒化した民衆を治めるために100人のユダヤ人が処刑された。

 

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シェークスピア

ついに、1290年、エドワード1世はイギリス国内からユダヤ人全員を追放した。王室も貴族たちも借りた借金は棒引き、何一つ持たせずの追放である。1万6000人のユダヤ人たちはフランスなどに逃れていった。これが十字軍が始まり、十字軍が終わる頃までの200年間のユダヤ人とイギリスの歴史である。フランスでもドイツでも少年が行方不明になるとユダヤ人が疑われた。又、ペストが流行るとユダヤ人が井戸に毒を入れたからだと噂を流された。民衆によって、度々ユダヤ人は魔女狩りと称して火あぶりの刑にあっている。

有名なシェークスピアの「ベニスの商人」ではシャイロックというユダヤ人が登場する。シェークスピアは16世紀末に多くの戯曲をつくっているが、その頃はイギリスには一人のユダヤ人もいない。イギリス人とってはユダヤ人とは別の人種であり、醜い守銭奴の集団だと思っていたのだろうか。しかし、17世紀の半ばに約360年ぶりにユダヤ人は再びイギリスに入国する。そしてその散々迫害したユダヤ人たちのお陰でイギリスは産業革命に大成功し、世界に雄飛することになる。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「水山蹇」の卦。蹇(けん)とはふさがる、行き悩む。にっちもさっちも行かず八方塞がりに陥ることである。人生に一度か二度はこんな八方塞がりの状態に陥ることがあることだろう。こんな時は下手に動かないこと。じっとして時を待つことである。下手に事態を打開しようとすればするほど深みにはまる。一番良くないのが、やけくそになることである。わが身を振り返り、静かに自分を磨くことである。危難の時は必ず終わる。

ユダヤ人たちの歴史は苦難の歴史である。繁栄したのは紀元前1000年頃のダヴィデ王、ソロモン王の時代だけである。あとは今日に至るまで、苦難の連続である。私は彼らを臥薪嘗胆に鍛えられた「筋金入りの民族」と呼ぶ。彼らは迫害に逢わされた国民を恨みを持つことさえしない。何故なら恨みを持っては自分らが生きていけないからである。それよりも、その国にそれ以上の貢献をし、発展させてあげることをした。そうして自らを磨き、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持してきた。恵まれた環境に暮らすことに越したことはない。しかし、時に苦難の歴史を歩んできたユダヤ人たちの生き方を考えて見ることも、貴重な気付きがあるものではないか。

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(24)十字軍からの大混乱

2021-06-24 | ユダヤ人の旅

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ウルバヌス2世

アッパース朝のイスラム帝国は発展を続けて行くが、元来アラブ民族は小さな部族の集団で成り立っており、周辺国もそれぞれ独自の文化がある。広大な地域を支配するには軍隊が必要である。その軍隊はアラブ人だけでは成り立たず、周辺支配国から傭兵を募っていた。トルコ周辺から中央アジアの民族は遊牧の騎馬民族であり、戦争にはめっぽう強く傭兵には最適だった。

11世紀になると、傭兵だったトルコのセルジューク族がアッパース朝のカリフに任命される形でスルタン(君主)となり、事実上王朝を乗っ取ってしまう。領土拡張に野心を膨らましたセルジューク朝はアナトリア半島を占領し、ビザンツ帝国に迫る勢いだった。ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世は危機を感じて、犬猿の仲ではあるがローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を願い出た。

ウルバヌス2世は「エルサレム奪回」を大義名分としてフランスの騎士に呼びかけた。参加するものは罪の償いの免除が与えられると宣言した。フランスの諸侯たちは領土的野心を抱いて、十字軍を結成すると、コンスタンティノープルに集結した。ビザンツ帝国から旧帝国領を奪還した土地はビザンツ帝国の宗主下に置く限り新国家を樹立することを許した。かくしてエルサレム奪還を旗印にイスラム教徒の都市を攻略しながらエルサレムに向かった。

 

アイユーブ朝サラディン

エルサレムは638年以来、イスラムの支配下ではあったが、キリスト教徒とユダヤ教徒にも巡礼は認められており、400年間以上もの間住み分けが出来ていた。当初エルサレムの住民は十字軍を巡礼者と思って、無防備だった。しかし十字軍はエルサレムに到着するや暴力集団と化し、老若男女問わずの大虐殺を始めた。1099年、この第1回十字軍はシリアからパレスチナにかけて、エルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国を始めいくつかの十字軍国家をつくってしまった。

この出来事はヨーロッパ中を刺激することになり、イングランド、フランス、ドイツ、イタリア、ノルウェーの王たちが遅れてならじと立ち上がった。その頃、イスラム帝国が3つに分裂を起こしており、王たちは火事場泥棒のように領土の争奪合戦を演じた。しかし、ようやくイスラム帝国を立て直し、アイユーブ朝を起こしたサラディンはジハード(聖戦)を誓い88年ぶりにエルサレムを取り返した。キリスト教国家も一層火が付いたように十字軍を繰り出した。第3回目十字軍はローマ教皇、イングランドの獅子王リチャード1世、フランスのフィリッププ2世、イタリアのフリードリヒ1世たちが入り乱れて戦争に明け暮れ、イスラム軍と一進一退の戦争劇を演じた。

 

1291年、アッコン包囲戦

こうして十字軍は次から次と戦争を繰り返し、キリスト教徒とイスラム教徒との分断、ヨーロッパ人とアラブ民族との対立が進んだ。経済の損失、人心の荒廃、自暴自棄と化した兵隊を作った。エルサレム奪還の大義名分もどこへやら、ユダヤ人コロニーを見ると略奪に走り、エジプトを襲い、挙句の果てにはビザンツ帝国のコンスタンティノープルでも略奪をしたという。ローマ教皇の一声で始まった十字軍時代は約200年間も続き、計8回も遠征した。イスラム帝国も混乱し、次々王朝は変わり、奴隷戦士からスルタンになる下剋上世界にもなった。結局、キリスト教国は全てを失い元の木阿弥となる。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「天地否」の卦。上に天、下に地であるから一見自然に思える。しかし易では天は上を目指すもの、地は下にあるものとして上下が背きあい意思の疎通を欠くと考える。否であるから否定。最も良くない、閉塞状態である。小人の道が横行し、君子の道は断たれる。こんな時代にあったとしたら、じっと耐え忍ぶしか方法はない。

十字軍の兵士たちは武器も食料も充分ではなかった。だから行く先々にユダヤ人の村があれば容赦なく略奪に走った。それが、ローマ教皇に先導された兵士なのだ。当時の民衆は聖書を知らない。ローマ教皇の言うことなら神の道だと信じていた。「戦争に参加するものは罪が償える、天国に行ける。」そう言ってローマ教皇は兵士たちを送り出した。それがイエス・キリストの教えなのか。イエスは「許しなさい。愛しなさい。」そう教えたのではないか。異教徒への憎しみ、迫害、分断の世界を広げたのはキリスト教徒の本山、ローマ教皇にほかならない。その後も延々と続く宗教戦争、ユダヤ人への根深い迫害、その根源はここにある。戦争を止めさせるのが宗教指導者ではないのか。教会の役割ではないのか。神父のすべきことではないのか。

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(23)イスラム帝国の繁栄とユダヤ人

2021-06-24 | ユダヤ人の旅

千夜一夜物語

イスラムの帝国・ウマイヤ朝は一時はインドやイベリア半島にまで進出しイスラムの世界を拡大した。しかし、このウマイヤ朝はアラブ人による帝国であり、とくにササン朝ペルシャで栄えていたペルシャ人たちには反発されていた。750年、カリフの継承争いで遅れをとったムハンマドの出身ハーシム家の一族であるアッパース家は非アラブ諸国を味方につけウマイヤ朝を倒し、アッパース朝を起こした。アッパース朝ではイスラム教のムスリム(信者)は皆平等という理念を実現、イスラムの大帝国を築くことに成功した。

交通の要所であるバクダードは東西貿易の拠点として「世界一」と言われる程発展し、人口は100万人にもなった。「千夜一夜物語」を代表とするイスラム文化が一気に花開く。各分野で働く学者たちは挙ってバクダードに集結した。バクダードには「知恵の館」が建てられ、ギリシャ語文献やインドの学問がアラビア語に翻訳された。医学、数学、化学、天文学、地理学、あらゆる分野で世界の最先端をいく文化都市になった。今日のアラビア数字はインドからその頃伝わったものである。

 

エルサレムの岩のドーム

ムハンマドを始祖とするイスラム教によって生み出されたイスラム文化は、それまであったオリエント文化、ヘレニズム文化、キリスト文化の良いところを全て吸収して、さらに大きなものにしたところに特徴がある。製紙法、綿織物、砂糖などは中国から伝わった文化である。当時の世界文明の中心地は現在の中東であったのである。一方の西洋ではローマ帝国時代は終焉し、ビザンツ帝国も衰退していた。イタリアでルネサンスが起き、スペインの大航海時代が始まるのは15、6世紀であるから、それまでのおよそ1000年間は中世の暗黒時代と言われる。まさに文明の中心はイスラム教の世界だったと言える。いかにムハンマドの出現が偉大であったかを物語る。

 

ハーシム家もアッパース家も出身はアラビアのメッカである。どうしてこれほどの大帝国を築き、世界中から一流の学者たちが集まったのだろうか。そこにはユダヤ人たちの存在があると考えられる。何故か。それはエルサレムを追われたユダヤ人たちが世界中に散らされ、コロニー(集団)を作りユダヤ人どうしのネットワークが形成されていたからである。ユダヤ人たちは生存するためにアラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、インド語などを自由に使いこなす国際人になっていた。貿易業や翻訳業は得意の分野だったからである。

ムスリムにとってユダヤ人は敵ではない。アブラハムの子孫としては一族であるという教えを守っていた。ユダヤ人にとってはアブラハムと妻サラの子イサクを自分らの先祖とするが、アラビア人はアブラハムとハガルの子イシュマエルを自分らの先祖としている。(旧約聖書ではハガルはサラの女奴隷であり、サラが子を作るためにハガルをアブラハムに床入れさせたという。)お互いに自分らの先祖がアブラハムの正妻の子であると信じている。ムスリムたちはユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓展の民」として尊重している。同じ神と同じ敬典を信じる同胞として敬意を払っている。そういう思想がイスラムの発展に寄与するこになったのだろう。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする人たちの集まりをいう。同人雑誌の語源である。広い世界(天)の下に文化(火)がある象とみる。一つの文化のもとに人々が集まり、広い世界に羽ばたいていくとも言える。その文化は多くの人を照らすものでなければならない。太陽のように普遍的な価値あるものならば、世界を幸福にすることにもなるだろう。

イスラム教の考え方である「啓展の民」はキリスト教にはないのだろうか。このユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教が同じ啓展の民としてお互いを尊重したならば、無駄な戦争はしなくて済むのではないだろうか。どうしても許しがたいのはこの後に起こる十字軍遠征である。この戦争を指導したのがローマ教皇なのだ。十字軍遠征こそ人類歴史の恥であり、愚の骨頂であった。何も良いことはなかった。ローマ教皇も自ら信頼を失い衰退する。キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒が激しく憎みあうことになった。宗教指導者たるものは他のどんな職業より人々に影響を及ぼす存在なのだから、権力には走ってもらいたくない。政治には口出ししないでもらいたい。ひたすら人間を学んで欲しい。心の世界を開拓してもらいたい。

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(22)スンニ派とシーア派

2021-06-04 | ユダヤ人の旅

ウマル時代のイスラム共同体

ムハンマドの死後、イスラムの国は急拡大していくが、カリフ(預言者の代理人)を巡っての対立が直ぐに始まり、その対立は今日に至るまで続いている。632年、ムハンマドが62歳で亡くなった時、後継者であるムハンマドの従弟であるアリーは32歳と若かった。そこで、イスラム共同体(ウンマ)は有力者でムハンマドの親友であるアブー・バクルを初代カリフに選出した。アブー・バクルはアラビア半島を統一し、発展の基礎を築いたが2年後に死んだ。(ムハンマドはアブー・バクルの娘アーイシャを3番目の妻にしている。)

2代目のカリフになったのが有力者ウマルだった。始めはイスラム教を迫害したが、改宗後はムハンマドの信頼を得て、イスラム発展に貢献した。政治力もあり、軍才にすぐれ、10年のカリフ期間内にビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪い、ササン朝ペルシャを滅ぼし、中東一帯を支配下に収めた。キリスト教徒とユダヤ教徒からは税金を払えば改宗を強制しないこと。エルサレムにおいてはイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3宗教は共存することを定めた。644年にイラン人奴隷により暗殺される。(ムハンマドはウマルの娘を4番目の妻にしている。)

 

第3番目のカリフはムハンマドの娘婿であったウスマーンである。ムハンマドが目をかけていた初期からの信者で裕福な商人だった。(ムハンマドはウスマーンに嫁がせた娘ルカイヤが男子アブドゥッラーを残し病死すると妹のウンムを嫁がせたが、アブドゥッラーも妹も早世する。)ウスマーンはムハンマドに下された啓示をコーランにまとめた。ウマイヤ家とムハンマドのハーシム家は対立しており、ウスマーンのイスラム教入信は猛反対にあった。その後にウマイヤ朝を起こしたムアーウィヤはウスマーンの甥である。ウスマーンはウマイヤ家を重用したため反対派に暗殺された。

アリー

656年に4番目のカリフになったのがムハンマドの従弟アリーである。ムハンマドの娘ファーティマとの間にハサンとフサインの男子が生まれた。しかし、アリーのカリフに反対したのがムハンマドの晩年の妻アーイシャ(アブー・バクルの娘)とカリフを目論んでいたウスマーンの甥でシリア総督のムアーウィヤである。ムアーウィヤはウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であると復讐を叫んでいた。657年、対立はユーフラテス川上流の「スィッフィーンの戦い」となり、アリーはイラク軍とムアーウィヤはシリア軍を擁して戦闘を交えた。

アリーは自ら先頭に立つ勇者ではあったが、もとは商人の出である。何万を率いる軍隊を指揮した経験はない。ムアーウィヤに、「一騎打ちで勝負をつけよう。」と申し出るが、ムアーウィヤは無視した。政略や戦略ではアリーはムアーウィヤに及ばなかった。ムアーウィヤは策略をめぐらして和議を結んだ。この結果、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失い、アリーへの反発者が「ハワーリジュ派」となって離反する。661年、アリーはハワーリジュ派の刺客により暗殺される。

ムアーウィヤはカリフとなり、ウマイヤ朝を開き、以後カリフを自分の家系による世襲であることを宣言した。一方、あくまでもカリフはムハンマドの血筋であるべきだと主張する勢力は「シーア派」を形成した。ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれたハサンとフサインの子孫こそがカリフであるというのだ。多数派となったウマイヤ朝の権威を認めた「スンニ派」と対立し、その後も手を結ぶことはない。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「火地晋」の卦。晋は進む、上昇する。地の上に火があることから、太陽が地上に現れ輝き始める。旭日昇天、日の出の勢いで出世することでもある。事業は何もかもうまく運び、おもしろいように発展する。しかし、幸運はいつまでも続くものではない。

イスラム教ほど、急拡大した宗教はないだろう。ムハンマドの勢いを引き継いだ2代目カリフ・ウマルの時代にアラビア半島は全て、エジプトからササン朝ペルシャ、ビザンツ帝国の3分の2を征服している。ビザンツとササン朝ペルシャが戦争を繰り返し、互いに疲弊した時に漁夫の利を得たというが、このエネルギーはどこから来るものだろうか。こんなに急拡大すれば、仲間割れするのも当然だろう。カリフが4代目までに3人が暗殺されている。シーア派は現在のイランが中心である。イランはもとのペルシャ。ペルシャ帝国のプライドもあり、他のアラブ民族とは違うというエリート意識があるのだろうか。1400年経った今もスンニ派とは対立したままである。

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(21)イスラム教の成立

2021-06-01 | ユダヤ人の旅

天使の啓示を受けるムハンマド

ビザンツ帝国とササン朝ペルシャが激しく争っている間に別の場所で、歴史を変える宗教が誕生しようとしていた。イエス・キリスト以来の預言者と言われるムハンマドの登場である。570年、ムハンマドはアラビア半島の商業都市メッカに生まれた。ムハンマドは幼くして両親を亡くし、叔父の隊商交易の商人アブー・ターリブに育てられ、やがてシリアとの隊商交易に参加した。25歳の時、15歳年上の裕福な女商人ハデ-ジャと結婚する。2男4女をもうけるが、男子は二人とも夭折する。

610年、40歳になったムハンマドは郊外のヒラー山の洞くつで瞑想にふけっていた。そこで、天使ガブリエルが現れ唯一神アラーの啓示を受ける。何度も啓示を受けたムハンマドは妻ハディージャに相談する。ハディージャはユダヤ教指導者に話をすると、天使ガブリエルが現れたに違いないと告げられる。妻ハディージャと叔父の子アリーが最初の信者となりイスラム教を説き始める。当時、メッカは貿易の中継地として経済が大成長した一面、貧富の差は激しく、各部族間の争いが絶えなかった。各部族はそれぞれ独自の神を祀り、宗教の対立も激しかった。

 

613年頃からムハンマドはメッカの人々に教えを説こうとしたが、多神教の市民たちは激しく抵抗し、ムハンマドたちを迫害した。叔父アブー・ターリブと妻ハディージャが亡くなると布教の限界を感じたが、622年、ムハンマドはメディナに逃れる。メディナでは部族間の争いを調停したことにより信頼を得、ムハンマドを長とするイスラム共同体(ウンマ)が結成された。戦略的な才覚も備えたムハンマドは周辺の遊牧民の部族を集結し、命を狙うメッカの部隊に備える。624年、ムハンマド討伐のため1000人のメッカ軍がメディナに向かってきたが、ムハンマドは300人の兵でバドルの地で勝利した。これを「バドルの戦い」と呼び、この9月を記念して「ラマダーン月」として断食するようになった。

 

巡礼するムハンマド

その後もメッカ軍は何度も報復戦を挑んできたがムハンマドは自ら兵を率いて撃退する。628年にメッカとは和議を結んで停戦する。しかし、本来アラブ民族は多神教であり、部族ごとに団結しており、中にはユダヤ教系の部族もあり、内乱はますます手が付けられなくなる。それでも、ムハンマドの唱えるイスラム教は次第に信者を増やしていった。自信を深めたムハンマドはビザンツ帝国やササン朝ペルシャにも親書を送り、イスラム教を積極的に布教した。

630年、1万の大軍になったムスリム軍はメッカに侵攻した。メッカ軍は戦わずして降伏、アラーを信じる者は許し、信じない者は処刑、多神教の神像、聖像は破壊した。ムハンマドはメッカをイスラム教の聖地と定め、アラビア半島はイスラム教によって統一された。632年、ムハンマドは五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定め、大巡礼を終えると間もなく没した。ユダヤ教とキリスト教は同じ神、同じ敬典を奉ずる宗教として尊重していた。後継者になったのは、最愛の妻ハディージャの娘ファーティマと夫の従弟アリー、二人の間の孫ハサンとフサインである。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「沢地萃」の卦。萃(すい)は人や物が集まることである。語源は草が群生している様を表している。地の上に沢があることで砂漠のオアシスを連想させる。オアシスには人が集まり、交易が盛んになる。王者たる者は神に祈りを捧げ盛大な祭礼を行う、人はすぐれた指導者に感謝して正道を行う

 

アラビア半島の大半は砂漠である。決して恵まれた環境ではない。しかし、ここには石油が産出し、東西の貿易の中継地でもある。そうなると、貧富の格差が生まれると予想出来る。イスラム教の五行の中に「喜捨」がある。富める者は貧しき者に施しを与えねばならない。施しは与えたものには与える喜びがあり、与えられたものには感謝が生まれる。アラブ民族にはぴったりの教えなのだろう。単純にして明快な教えはあっという間にアラブ民族に波及した。そのアラブ民族が一気に世界に飛躍することにもなった。しかし、五行の中には「支配」という言葉はない。どうして飛躍すると他国を支配したがるのだろうか。ムハンマドの出現は1400年経った現在、世界の17億人の信者が信仰している。

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