さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

序卦伝(14)山雷頤(い)と沢風大過

2024-06-30 | さわやか易・講座

「山天大畜」は大いに蓄えるだった。蓄えることが出来れば、大いに養うことが出来る。

「物蓄へられて然る後に養ふ可し、故に之を受くるに頤(い)を以てす。頤とは養ふなり。」
養うということは肉体を養うから、精神を養う、人を養う、国家を養う、天下を養うまである。頤(い)とはおとがいという字であり、物を食べて肉体を養うことであるが、易の頤は肉体も、心も、家族も、部下も、国民も、養うことは全て含まれている。卦の形は、口を開けた形に似ていることから名づけられている。
1970年代から80年代にかけては、「ジャパニーズ・NO1」と呼ばれる程、日本は経済大国の真っ只中にあった。戦後、貧しい時代から出直した日本が、押しも押されもしない豊かな国になったのである。「山天大畜」から「山雷頤」への配列はこの時代の日本とも言える。しかし、そんな時代がいつまでも続くとは限らない。
 
 
「養はざれば則ち動く可からず、故に之を受くるに大過を以てす。」
ついに大いに過ぎる時代がやって来た。肉体に栄養は必要である。しかし、食べ過ぎては問題である。お酒もほどほどが一番良い。同様にどんな楽しみも運動も度を超すほどに過ぎれば障害が起きるだろう。経済にしても、その人に相応しい、豊かさがある。実力以上に金持ちになれば、外から顰蹙を買う。自分を失うことにもなってしまう。
 
日本という国もそうだったのではないだろうか。それがバブル経済だったのではないか。日本だけが豊かさを独り占めしていたら、外国から様々な圧力をかけられるのは当然である。又、何かに過ぎるということは、気が付かないところで、何かが不足することにもなるだろう。バランスが欠けることでもある。
 

序卦伝(13)天雷无妄と山天大畜

2024-06-29 | さわやか易・講座

「地雷復」は一陽来復で新しい時代の到来である。新しい時代を開く志士たちの志は、一点の妄念邪念もなく、至誠真実である。

「復すれば則(すなわ)ち妄(ぼう)ならず、故に之を受くるに无妄(むぼう)を以てす。」
上に天があり、下に雷がある。天も雷も上を目指すもの。しかも雷は活動である。この卦は一面、青天の霹靂を表す卦でもある。思いがけないことが起こる。天からの計りごとは実に見事な結果に導くもので、人の考えや計画など及びもつかない。結婚もそんなことがある。気が付いて見たら、この人と結婚していた。そんな「天雷无妄」もあるかも知れない。
 
「无妄有りて、然る後に蓄(たくわ)ふ可し、故に之を受くるに大畜を以てす。」
至誠真実の志をもって事に当たれば、大なるものを蓄えることが出来るだろう。大なるものとは、大なる財産だけではなく、大なる道徳、大なる事業、大なる才能、大なる発明、大なる人物などがある。至誠真実の「天雷无妄」の次に「山天大畜」が置いてあるのは、当然の結果である。
 
戦後の日本を考えると、松下電器、ホンダ、ソニーなどが、世界に羽ばたき大を為した。又、「日本列島改造論」を唱えて総理大臣になった田中角栄は、決断と実行により経済大国・日本の躍進に貢献した。後にロッキード事件によって失脚したが、後にも先にも田中のような政治家はいない。「地雷復」から「天雷无妄」そして「山天大畜」と序卦伝の配列の通りに進んで来たことが解る。いづれも時代とともに衰退するが、それも易の配列の通りになる。誠に易の配列には頭が下がる。
 

序卦伝(12)山地剝と地雷復

2024-06-28 | さわやか易・講座

「山火賁」は飾るである。飾るは行き過ぎると中身のないものになってしまう。中身がなく、うわべだけを取りつくすようになっては、もう頼りにならない。

「飾りを致して然る後に亨(とお)れば則ち盡(つ)く、故に之を受くるに剝を以てす。剝とは剝(つ)くるなり。」
人にしても企業にしても、外観ばかりにエネルギーを注ぐようになれば、実力は益々低下してしまう。人はうわべの礼儀だけになり、心の誠実は失われていく。企業も実績を隠し通すようになり、粉飾決算するようになる。それが、「山地剝」である。剝は剝ぎ取られて尽きてしまうこと。剝は剝製の剝であるから、外側だけ立派に見えるが中身はない。
卦の形は、一番上にある陽爻が最後の砦で頑張っている形である。下からの陰の力が強く、ついに陽は追いつめられている。時代の終わりを意味することもある。
 
「物は以て盡(つ)きるに終る可からず。剝すること上に極まれば下に反る、故に之を受くるに復を以てす。」
「山地剝」の次に、「地雷復」が置いてある。季節で言えば、地上の緑が冬の到来とともに完全になくなってしまい、雪と氷で覆われていたところに、ようやく春が近づいて来るのである。時代で言えば、下層の階級が困窮し、次に中層の階級が困窮し、持ちこたえていた上層の階級も終に困窮してしまう。すると、下層の階級から一陽が生ずるのである。「一陽来復」である。
 
政治改革も部分的な腐敗混乱なら上流階級や中流階級で改革が出来るが、天下が剥ぎ尽くされ、極まってしまった時代には上流の階層ではどうにもならない。天下の困窮を救う英雄、豪傑は下層の階級から出現するのである。幕末の萩藩に吉田松陰が出現し、薩摩藩から西郷隆盛が出現したようなものだろう。下層の階級といっても、それは庶民、貧民という意味ではない。

序卦伝(11)火雷噬嗑(ぜいこう)と山火賁

2024-06-26 | さわやか易・講座

「風地観」は人々が見上げるだった。企業でも業界で見上げるように大きくなると、必ず外からの合併話が起きて来るものだ。

「観る可くして而して後に合ふ所有り、故に之を受くるに噬嗑(ぜいこう)を以てす。嗑とは合ふなり。」
噬(ぜい)は噛む、嗑(こう)は合う。嚙み合わせることである。事業や人も大きく立派になると、さらに大きくなるために合同しようとする動きが出てくる。そうすると、必ず反対するもの、障害物が出てくるものだ。その障害物を嚙み砕いて進まなくてはいけない。それが「火雷噬嗑」の卦である。
人の場合それは結婚話かも知れない。結婚話もそうそう簡単には済まない。やはり反対する者が出てくる。それはどちらかの親である場合もあるだろう。その反対を粘り強く、説得し、噛み砕いて先に進むことである。
 
「物は以て苟くも合うて已む可からず、故に之を受くるに賁(ひ)を以てす。賁とは飾るなり。」
「火雷噬嗑」の次に「山火賁」が置いてある。賁とは美しく飾ることである。企業と企業、人と人が合同する時は、礼儀をもって順序正しく事を運ばなくてはいけない。出来る範囲で美しく、飾り整えることも必要である。卦の形は、山の裾を美しい夕陽が映えている情景である。
 
東洋でも、西洋でも結婚式は精いっぱい飾り立てて行われる。しかし、見栄を張ったり、虚飾に過ぎるというのもむしろ虚しい。若い二人が末永く、無事に人生の荒波を乗り越えてもらいたいと願い、祈りたくなるような、人間的暖かさが籠った結婚式であって欲しいものである。

序卦伝(10)地沢臨と風地観

2024-06-25 | さわやか易・講座

「山風蠱」は事故、事変だった。人の成長も社会の発展も、大きく前進するためには、難問題を解決した時ではないだろうか。人はしばしば挫折の後に飛躍するものである。


「事有りて而して後に大なる可し、故に之を受くるに臨を以てす。臨とは大なるなり。」
「山風蠱」の次に「地沢臨」があるのは、「天地否」の次に「天火同人」があるようなものだ。人間にしても、社会にしても、大きく飛躍するのは難問題を抱えた時なのかも知れない。スランプの後に好記録が出るようなものだ。人間も尺取虫のように、伸びたり縮んだりしながら前に進むようなものなのか。
 
明治を迎えた日本を象徴する出来事として、勝海舟を艦長とする「咸臨丸」が始めてアメリカに渡った。この咸臨とはこの卦から名付けられたものである。
 
「物大にして然る後に観る可し、故に之を受くるに観を以てす。」
高く、大きなものは、人々が仰ぎ見るものである。偉大なることをなしとげた人を人々は仰ぎ見る。卦の形は、上の陽爻を下の陰爻たちが仰ぎ見ている象である。
 
「観光」はこの卦から作られた熟語である。「風地観」は下から仰ぎ見るという意味と反対に上から見渡すという意味でも使われている。「観光」は仰ぎ見るのか、見渡すのか、どちらにも当てはまるような熟語である。日本は「観光立国」を目指すという。良いことだろうか、良くないことだろうか、私の意見は後者である。ギリシャやローマを見ても解るように、観光地となった国の経済発展はなくなる。それより、日本人は知恵と工夫で技術大国を目指すべではないだろうか。