さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

コロンブスの真実

2014-10-20 | 名画に学ぶ世界史
 
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コロンブス(1451~1506)
 
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍したイタリア・ルネサンスの時代に世界ではもう二つの重大な動きが始まっていた。一つは宗教改革であり、ヨーロッパ中に革命の嵐となった。もう一つが大航海時代の到来であり、約200年間に渡る征服と侵略の嵐となって世界中を巻き込む激動の時代となる。ここから近代が始まるのである。
 
大航海時代の先鞭をつけたのはアフリカに進出したポルトガルである。その動機はイスラム勢力が地中海を支配するようになり、新たな航路を見出す必要が生じたことにあった。羅針盤が実用化され造船技術が発達したことも冒険家たちに火をつけた。エンリケ航海王子の指揮のもとアフリカへの探検が始まる。遭難や難破などで始めは乗務員の生還率は2割以下と危険なものだったが、やがて新航路が開拓され新領土を獲得し莫大な利益を得、一夜にして王侯貴族に匹敵する富と名誉を掴むものが出た。
   
そうなると若い船乗りたちの夢は膨らみ、ポルトガル、スペインを中心に航海ブームが吹き荒れる。イタリア・ジュノバ出身のクリストファー・コロンブスもその一人である。ポルトガルの船乗りたちはアフリカ西海岸を南下したが、コロンブスは当時の天文学者・トスカネリの地球球体説を信じて大西洋の西回りを計画した。綿密な計画書を作成しスポンサーを探すことにした。
 
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イザベル女王(1474~1504) 
 
8年間の苦労が実って、興味をもってくれたスペインのイザベル女王からの資金調達に成功する。発見した土地の永久提督権と利益の10%を取り分とする条件も承認された。早速命知らずの荒くれ男たちを90人集め、1492年8月3日、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号の3隻で西に向って出発した。ところが計算に反して長い航海を続けるものの一向に陸地は見えない。やがて乗組員の中から不安にかられ暴動が起きる。コロンブスは「後3日で必ず陸地が見える。」と説得、航海を続けると、本当に3日目に陸地が発見された。10月11日のことである。翌朝、島に上陸し「サン・サルバドル島」と名付けられた。
 
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コロンブスの新大陸の発見は感激的なドラマである。しかし、ここからヨーロッパの各国が競って征服、侵略、略奪の歴史が始まるとなると、喜んでばかりはいられない。コロンブス一行は原住民から略奪した金銀、宝石などを戦利品としてスペインに持ち帰ったので一躍英雄となり、富豪になった。当然、原住民は防衛のため抵抗する。そこで2回目の渡航では兵士、農民、坑夫、軍用馬、軍用犬を組織、植民目的で17隻、1500人の部隊で出発した。
 
この時から完全に目的は金銀の略奪となり、行く先々での島で住民に対して金銀を出すよう強要する。金銀を差し出した住民にはスペイン人に敬意を表した証しとして標章を首にかけ、金銀の量が足りない者は男も女も手首を切り落とした。抵抗するものは容赦なく殺戮し、島ごと殺人、放火をし、虐殺弾圧は目に余るものであった。
 
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ラス・カサス(1484~1566)
 
航海に同行したカトリック教・宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスの日誌によると、「一人でもインディアンが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。」「残虐であるということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは単に残虐だけなのです。」「しかしそのように途方もなく残虐な取扱いは、インディアンに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わないよう、それを防ぐ方法になるでしょう。」などの記述がある。
 
宣教師の日誌とは思えないような記述に驚くしかない。それ程に白人以外の人種は人間には見えなかったのだろうか。しかしラス・カサスは帰国後、その余りに酷い行為を振り返り自責と悔恨から、インディアンの権利保護のロビー活動を続けた。一方、コロンブスは捕えたインディアンを大勢奴隷として本国に送ったが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。その後、コロンブスは全ての地位を剥奪される。航海は4度行ったが、最後は自ら持ち帰った梅毒により死去。その葬儀に集まる者はなかったという。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は天
******** 陽、剛、強
********
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、柔、弱
***  ***
 
「天地否」の卦。天は上にあり、地は下にある。上下が交わらず、意志の疎通がない状態を表す。上にある者が下の者と和合することが理想であるが、これでは和合などありえない。君子の道とは言えない。白人が上、有色人が下の弱肉強食が当たり前という状態は正に「天地否」である。
 
イザベル女王がコロンブスの計画に賛同し、新大陸が発見された。その後のスペインは世界をリードする繁栄を築いた。しかし征服され続けた民族にとってはただ屈辱と忍従の時代でしかない。戦争を繰り返してきた西洋の考えは「弱肉強食」で、それが常識であり文化なのかも知れない。キリスト教は隣人愛を主眼にするものではないのか。いったい隣人愛は何処にいったのだろうか。
 
明治を迎えた頃、西洋史を知った西郷隆盛が「西洋は野蛮じゃのう。」と言った。西洋通のある人が「いいえ、西洋こそ文明国です。」と言い返すと、西郷は「文明国というのは未開の国に対して、慈愛の心で開明に教え導くものじゃ。それをしないで、暴力で征服し、略奪するものを野蛮と言わないで何というのだ。」これこそ文明国の常識であり文化ではないだろうか。

ルターの宗教改革

2014-10-15 | 名画に学ぶ世界史
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マルティン・ルター(1483~1548)
 
ミケランジェロの「最後の審判」もラファエロの数々の名作もヴァチカンからの制作依頼である。サン・ピエトロ大聖堂の建設費や調度品、芸術品などで莫大な財政負担が必要になる。そこでローマ教皇・ユリウス2世は「これを買えばこの世の罪が帳消しになる」という歌い文句で贖宥状(しょくゆうじょう)を販売した。一定の財源が集まったので後を継いだレオ10世はさらに財源獲得に拍車をかけた。
 
それまでドイツ地方は「ローマの牝牛」と言われる程資金を搾られていた。そこに追い打ちをかけるように贖宥状を押し付けられ信者たちは悲鳴を上げる。一方で教会は各地で世俗化、腐敗化が目立っていた。そんなとき教会に強く反発し、「95か条の論題」という抗議文を教会の扉に張り付けた神学教授がいた。ドイツのヴィッテンベルク大学のマルティン・ルターである。「免罪符を買うことによって救われるのではなく、人は信仰によって救われる。」当然の主張をしたのだ。1517年のことである。
 
ところがこの行為は命がけの行為だった。過去にも教会の腐敗に反発して抗議した学者も複数いたが、何れも宗教裁判の結果火刑にされている。しかし今回はルターを支持する反カトリックの市民と諸侯がいた。危機を知ったローマ教皇は論者ヨハン・エックを派遣し、ライプツィヒにて公開討論会を行う。ルターは堂々と意見を述べ、破門されたが論争では負けなかった。
 
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カール5世(1500~1558)
 
ローマ教皇以上に危機感を抱いたのは地元のハプスブルグ家である。ハプスブルグ家はこの頃はスペインも領有し、ヨーロッパ最大の勢力だった。カール5世は神聖ローマ帝国皇帝としてキリスト教国を統一する夢を抱いていたので反カトリック勢力はつぶさねばならない。1521年、ルターをヴォルムス帝国議会に呼んで自説の撤回を迫る。「ドイツが二つに割れて戦争になっても良いのか!」その重圧の中でも「聖書に書かれていないことを認める訳にはいきません。神よ、助けたまえ。」と述べ自説を曲げなかった。命を差し出したルターであったが、判決の前に救ってくれる者がいた。
 
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フリードヒ3世(1463~1525)
 
暗殺の危険が迫ったルターを匿ったのはザクセン選帝侯のフリードヒ3世であった。フリードヒ3世はルターが教授を務めていたヴィッテンベルグ大学を設立した人物でもあるが、選帝侯としてカール5世を皇帝に選出した一人でもあった。フリードヒ3世は学問、芸術、宗教を重んじた君主であり、神聖ローマ皇帝の候補となるほど諸侯にも信頼は厚かった。ローマ教皇もハプスブルグ家も一目置く存在だったので、ルターは誘拐され行方不明ということにされ命拾いをした。
 
ルターは匿われたヴァルトブルク城で聖書をドイツ語に翻訳する。皇帝から国外追放の処分は下されたが、やがてルターの翻訳した聖書は印刷されドイツ国内に広まっていく。ルターに賛同する勢力はプロテスタント(抗議する者)と呼ばれ、反カトリック、反皇帝勢力としてドイツに広まっていく。ルター派と皇帝派は2度にわたる戦争の末、ルターの死後1555年、アウクスブルグの和議により公認された。
 
この宗教改革の動きはドイツを中心にやがてヨーロッパ各地に広まっていく。プロテスタントはデンマーク、スウェーデン、ノルウェーでは国教となった。フランスではカルヴァンが独自のカルヴァン派を起こしユグノーと呼ばれる。オランダでもイギリスでも反カトリックの改革が進み、絶対の権威を誇ったローマ教皇の時代は過去のものとなっていく。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は風
******** 従順、誠意
***  ***
***  *** 下卦は沢
******** 喜ぶ、感動
********
 
「風沢中孚」の卦。中孚(ちゅうふ)は誠心誠意を尽くすこと。上にある風が誠意を尽くすように吹き渡ると、下にある沢が喜んで従うという象である。至誠は天に通ず。誠意を尽くす者は困難を克服し、志を成就させる。
 
ルネサンスの時代はローマ教皇が失いつつあった教会の権威を復活させようと、芸術の粋をこらしてイメージ一新を図った時代ともいえる。しかし民衆がこの時代に人間性に目覚めた時代でもあった。真の宗教に目覚めた人たちが命がけで巨大な権威に立ち向かった姿は胸を打つ。その後も新勢力と旧勢力は戦争を繰り返した。改革とは多くの血が流れないと成就しないものなのだろうか。
 
ルターが匿われた城、ヴァルトブルク城はテューリンゲン州に属するアイゼハナという小さな町にある。ユネスコの世界遺産に登録されている。音楽の父・ヨハン・セバスティアン・バッハが生まれて幼少時を過ごした地でもある。ルターとフリードヒ3世の生き方に感激した文豪ゲーテが何度も訪れていたという。「抗議する者」このような改革が成功したのはいかにも法を重んじるドイツ人という気がする。

オスマン帝国の実力

2014-10-08 | 名画に学ぶ世界史
 
 
コンスタンティノス・ボルフェロゲネトスの宮殿
 
イタリア・ルネサンスは地中海に面する都市が十字軍を契機とする東方貿易で豊かな財を築いたところから始まった。東方とはビザンツ(東ローマ)帝国及びイスラム帝国である。カトリック教が完全に支配していた西ヨーロッパ諸国は文化に於いてはビザンツやイスラムに完全に後れを取っていた。東方貿易により進んだ文化も輸入されてきたのだった。
 
ビザンツ帝国は西ローマ帝国が消滅しても、文化と繁栄を維持していたが、イスラム勢力により次第に衰退した。エルサレムを廻る十字軍遠征からは対立関係となり、戦争を繰り返したがエルサレムは13世紀末に完全にイスラムのものとなった。さらに15世紀半ばにはオスマン帝国を率いるメフメト2世はビザンツ帝国の首都・コンスタンティノーブルを包囲した。コンスタンティノーブルは3方を海に囲まれ、難攻不落の城下町だったが、メフメト2世の奇策が成功しついに陥落した。
 
ここにローマ帝国が東西に別れ、その後西ローマ帝国が消滅して以来1000年のローマ時代は歴史上ついに終焉することになった。1453年の出来事であり、その後コンスタンティノーブルはオスマン帝国の首都・イスタンブルとなる。この出来事により古代ギリシャの文献とともに多くの学者たちはイタリア各地に亡命した。フィレンツェで始まった「プラトン・アカデミー」は彼らが中心となったのではないだろうか。
 
 
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スレイマン1世(1494~1566)
 
16世紀に入るとスレイマン1世率いるオスマン帝国は全盛期を迎える。その頃、フランスのフランソワ1世とハプスブルグ家のカール5世は大変なライバル関係だった。そこでスレイマン1世はフランソワ1世と手を結び、バルカン方面に進出、ハンガリーを撃破する。1529年、ハプスブルグ家の本拠地ウィーンを12万の大軍で包囲した。冬になり退却したがオスマンの脅威をヨーロッパ中に知らしめ、神聖ローマ帝国としてヨーロッパを統一する勢いだったハプスブルグ家の夢は消える。
 
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 プレヴェザの海戦
 
さらに9年後の1538年には地中海の制海権を廻って、ローマ教皇、ハプスブルグ家、ヴェネツィアなどのキリスト教団連合軍と戦う。元海賊の頭領・ハイレディンを大提督とするオスマン帝国海軍は激突の末、連合艦隊を破った。プレヴェザの海戦であり、この勝利によって地中海の制海権はオスマン帝国のものになる。このためイタリアの地中海都市は大打撃を受け、以後次第に衰退に向かう。その後もオスマンの拡大は続き、最盛期には地中海を囲む殆ど、東はアルゼバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまでを支配する大帝国を打ち立てた。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***  *** 上卦は水
******** 上下の陰爻の中に陽爻がある。
***  ***
***  *** 下卦は地
***  *** 陰、暗、影
***  ***
 
「水地比」の卦。比は人々が親しむ様子を表している。字の形は人が二人並んでいる形になっている。下から5番目の爻が一つだけ陽爻であるところから、この陽爻に全ての陰爻が親しみ集まっていると見る。優れた君主のもとに国民が挙って協力しているのである。君主はわけへだてなく寛容の気持ちで接っするので、大事業を次々と成功させるのである。
 
オスマン帝国の大躍進はスレイマン1世の人物と治世にある。スレイマン1世は詩を好むインテリで哲学や芸術も奨励した。その治世の特徴はキリスト教徒やユダヤ教徒の自治を認める寛容な政策をとったことにある。他民族の商人にも特権を与え、貿易を保護し奨励した。フランスやイギリスなどの西欧諸国に対し、領事裁判権を含む通商特権を認めた条約を結んだことも貿易の活性化を促した。
 
国が興るときは必ず英傑というべき中心人物が登場する。この時代のハプスブルグ家のカール5世も優れた君主であり英傑だった。ヨーロッパ統一を期待されていたが、残念ながら運に恵まれなかった。宗教革命があり、ライバルであるフランソワ1世がキリスト教国の敵であるオスマン帝国と手を結んだこと。やはり国の興隆は時代の後押しと、運がなければどんな英傑にも出来ることではない

ラファエロの恋

2014-10-01 | 名画に学ぶ世界史
ラファエロ。自画像(1506年)
 
奇跡的ともいえる盛期ルネサンスの壮大さは、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの二人に加えてもう一人の巨人・ラファエロ・サンティ(1483~1520)がいることにある。盛期ルネサンスの3大巨匠ともいわれている。ラファエロは育ちの良いエリートであり、ミケンランジェロのような人嫌いでもなく、芸術的才能もあり文化人として洗練された社会性も兼ね備えていた。
 
ラファエロはフィレンツェの隣にある芸術が盛んなウルビーノ公国に生まれた。父は宮廷画家であるとともに君主一家と親しい関係だったので、ラファエロも上流階級との交際は自然に身についていた。美少年でもあり、父譲りの芸術的才能を早くから発揮していたが、8歳で母を、11歳で父を亡くし、伯父のもとに預けられている。20歳になったラファエロはフィレンツェに武者修行の旅に出る。(ウルビーノ公子からフィレンツェ行政長官宛ての紹介状が残っている。)
 
フィレンツェではレオナルド・ダ・ヴィンチから3角構図などを学び、ミケンランジェロからは立体的力強さ学ぶ。影響を受けた師からすぐに吸収するところがラファエロの独自の才能で、古典主義的な理想美を確立した。その上、弟子や協力者とも如才なく接したので、ラファエロを取り巻く一大グループが出来上がった。ラファエロは「聖母子」の画家として有名だが、この頃には既に完成していたものと思われる。
 
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牧場の聖母(1506年)
 
25歳になったラファエロは教皇ユリウス2世からの招きでローマのヴァチカン宮殿にてその腕を振うこととなる。ヴァチカン宮殿には「ラファエロの間」という4つの部屋があり、圧倒される膨大な量の作品が所蔵されている。すべてラファエロ及び彼の弟子による作品群である。ユリウス2世ともその後のレオ10世とも良好な関係を築き、次々と大仕事を任されることになる。仕事にも恵まれ、教皇らとの関係も良好であり、レオ10世からは枢機卿への推薦もあり、順風満帆、正に飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
 
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ローマ教皇レオ10世の肖像画。(1512年)
 
同性愛者のレオナルド・ダ・ヴィンチや根暗で女嫌いなミケランジェロとは違いラファエロの女性関係は華やかである。貴公子であり、誰に対しても優しいラファエロは当然女性にはモテモテだった。ラファエロは母を早くに亡くしたせいだろうか無類の女好きでもある。30歳の頃に枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪マリアとの婚約も決まった。美男美女の申し分のないカップルに見えたが、ラファエロは中々結婚に踏み切れないでいた。どうしても別れられない恋人がいたのだ。
 
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ラ・フォルナリーナ(1518~1519年)
ラファエロの恋人マルガリータ・ルティ
 
27歳頃からの付き合いで、度々画のモデルにもなっているパン屋の娘・マルガリータだった。身分の差から結婚は出来ないがラファエロが心底愛した女性だった。婚約者のマリアはいつまでも待たされ悩んでいる。枢機卿からは結婚を迫られる。要人との付き合い、次々と頼まれる仕事、忙しい毎日、深夜の逢瀬。引き裂かれる恋ほど激しく燃える。そうこうする内、ついに婚約者のマリアは病死してしまう。仕事の過労とマルガリータとの過度の情事でラファエロも倒れた。意識不明の重体となり15日間の闘病の末ついに息を引き取る。37歳の誕生日でもあった。
 
~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は火
***  *** 太陽、文化、文明、
********
******** 下卦は天
******** 陽、剛、明
********
 
「火天大有」の卦。大有とは豊かさにあふれている。富裕、豊作、繁栄を表している。太陽が中天高く昇って、光と熱を燦々と注いでいる像である。なにもかも順風満帆、世界は自分の為に動いている。何もかもがうまく運んでいるとき、盛運の中に必ず躓きの要因が潜んでいる。要注意。
 
ラ・フォルナリーナ(パン屋の娘)はラファエロの死後75年経って発見されたものである。ラファエロの画は下書きを描いた後に弟子が仕上げるのが常だったが、この画だけは最後までラファエロが描いたものである。別れねばならない恋人の思い出を秘蔵するために丹念に描いたのだろう。ラファエロの葬儀は壮大に行われ、墓は婚約者マリアとともにローマのパンテオンに安置された。マルガリータは葬儀への出席もかなわず、尼となり修道院で最愛の恋人の冥福を生涯祈り続けた。
 
多くの美術史家によるとラファエロこそルネサンスの最高峰とも評価されている。彼の完全とも言われる形式美はその後ラファエロ派という一派も形成され、19世紀頃まで理想美の模範ともされている。37歳の生涯は何とも短い。もっと長生きしてくれたら、いったいどれほどの名作を残してくれたことだろうか。